「伊織、お前は近頃女と一緒に居るようだが……それはあくまでも、任務の為、なのか?」
「……それは……」
「まあ、その様子だと違うんだな。別にお前の交際に口出しする気はない。いい大人だしな。けどな、俺たちは組織の人間だ。それは分かってるよな?」
「勿論」
「守る者が居ると人は強くなれる。だが、時にその存在は足枷になる場合もある。相手に危険が及んだ時、任務を遂行する為には、どんなに大切な者でも見捨てなきゃならない場合もある。その覚悟が、お前には持てるか?」
「…………」
「俺たちは、組織として任務を遂行する。それだけの為に生きる、そう決めたはずだ。遊び程度の恋愛なら口出しはしない。ただな、これ以上深入りする前に、今の彼女と別れた方が……その方が互いの為だと俺は思う。話はそれだけだ」
忠臣は一方的に話を終えると自室へ戻っていってしまい、その背中を見送った伊織は事務所を出て車に乗り込んだ。
忠臣の言葉が、伊織の頭の中を駆け巡る。
「…………やっぱり、そろそろ潮時なのかもしれねぇな」
大切な存在である円香の事を思いながらそう呟いた伊織は、車を走らせマンションへと帰って行った。
時同じくして、
「円香お嬢様、旦那様がお呼びでございます」
帰宅するなり円香の部屋に家政婦がやって来ると、父親が呼んでいる事を伝えられた。
「分かりました、すぐに参ります」
休む間もなく、荷物を置いた円香はそのまま父親の部屋へと向かって行く。
「お父様、円香です」
「入りなさい」
「失礼します」
ノックをして名乗ると入るよう促された円香はドアを開けて中へ入ると、そこには母親の姿もあった。
「お母様もいらっしゃったのですね」
「ええ」
「円香、そこに座りなさい」
「はい」
両親が座るソファーの向かい側に腰を下ろす円香。
一体何事だろうと円香は思う。
もしかしたら伊織との事がバレてしまったのではないか、そんな事を思いながら一人焦っていると、父親から思いもよらぬ話を聞くことになった。
「実はな、円香。今、私の会社は経営難に陥っているんだ」
「え?」
「何とか持ち堪えてはいるが、このままでは危ないかもしれない」
「そんな……」
父親の話によると、信頼のおける人物からの誘いで新たな事業に取り組んだものの上手くいかず、会社経営にも影響が出る程の損失を負ってしまったとの事。
とにかく経営を立て直すには資金が必要なのだが、その調達に手こずっているらしい。
「そこでな、一つだけ良い話を貰ったんだが、それには条件があるんだ……」
「条件?」
父親はそう言ったきり口ごもってしまい、円香は首を傾げるばかり。
「お父様、その条件というのは一体……?」
何故かその続きを口にしない父親を不思議に思った円香が問い掛けると、
「――その、条件というのが……融資してくれる家の次男坊とお前の結婚……なんだよ」
「え……結婚……私が?」
思いもよらぬ言葉に、円香はただ驚くばかりだった。
(私が、結婚? 好きでもない人と、一緒にならなければいけないの? 私には、伊織さんがいるのに……)
衝撃的な展開についていけず、一瞬目が眩んだ円香。
「円香には悪いと思ってる。ただ、相手は江南 家と言って、しっかりした家柄だ。相手はこちらに婿養子として来てくれる訳だから私や母さんからすれば、お前を手放さなくて済むのは本当に嬉しいんだ。それに……近頃のお前には、何やら悪い虫が付いているようだからな……。私は心配なんだよ。分かってくれるな?」
しかも、どうやら伊織との事も気付いていると確信した円香は、いざその場に立たされると何も言えなくなってしまう。
「来月の初めに両家の顔合わせがある。そのつもりで居なさい」
「そんなっ、お父様!」
「話は終わりだ。部屋へ戻りなさい」
「嫌です! 私、そんな……」
「おい、誰か居ないのか?」
「はい、旦那様お呼びでしょうか?」
「円香を部屋まで連れて行ってくれ」
「お父様!!」
「かしこまりました。さあお嬢様、お部屋へ参りましょう」
「お父様! お願いですから、話を聞いて!」
結局、円香の父親は彼女の話に耳を傾ける事はなく、円香は家政婦によって強制的に部屋へ連れて行かれてしまうのだった。
翌日、大学へ送って貰った円香は入り口付近でバッグからスマホを取り出すと伊織に電話をかけるも、すぐに留守電に切り替わってしまう。
(伊織さん、やっぱり出ない……)
実は昨夜、父親から婚約の話を聞いた円香はすぐに伊織に電話を掛けたのだけど、既に繋がらない状態だったのだ。
そして、その代わりメッセージが届いていて、【暫く仕事が忙しくなるから会えそうにない。また連絡する】と記されていたのだが、
(伊織さんに会いたい……どうすればいいのか、教えて欲しい……)
いつになるか分からない連絡を待てる状況では無かった円香は今夜、直接伊織のマンションへ向かおうと決めた。
そして夜になり、マンションまでやって来た円香はそこで思いもよらぬ話を聞くことになる。
部屋の前までやって来て呼び鈴を鳴らすも応答がなく、暫くドアの前で待っていると隣人が通りがかり、声を掛けてきた。
「あの」
「は、はい?」
「そこの部屋の方、昼頃に引っ越して行きましたよ?」
「え? 引っ越した?」
「ええ、昼頃に荷物を運び出してましたから」
「そう、ですか……ありがとうございます」
突然の事に戸惑う円香は一階まで降りて管理人に尋ねてみると、やはり昼頃に伊織は引っ越して行ったと聞かされたのだ。
(引越しをするなんて、言ってなかったのに)
それならば直接事務所の方へ向かおう、思い立った円香はマンションを後にするとすぐに駅に向かって行き、そこからタクシーで伊織の会社である便利屋の事務所まで行くことにした。
それから数十分、近くでタクシーを降りた円香は事務所前まで辿り着く。
しかし、勢いでやって来たのはいいものの、前回ここへ来た時に伊織と険悪なムードになった事を思い出した円香は中へ入るのを躊躇していた。
けれど、このまま伊織からの連絡も無くて婚約者との顔合わせの日になってしまっても困ると思った円香は意を決してビルの中へ足を踏み入れていく。