何の変哲もなく見える砂時計を洋子は暫く手の上で弄んでいたが、意を決してひっくり返してみた。あの宇宙人たちは『時間を遡ることができる』と言っていたが、砂時計はどう見てもタイムマシンには見えないし、砂時計ってものはこうやってひっくり返して、砂を落とす以外使う方法がないではないか。
透き通るようなコバルトブルーの砂が、上のガラス球から下の球へと細い流れを描きながら落ちていく。その一粒一粒が、かすかに光を帯びている気がした。照明を反射しているだけかもしれない。けれど、どこかで見た深海のプランクトンの光のようにも見える。
机の上には、読みかけの論文とノート、冷めたコーヒー。地質学の助手としての仕事を終えて帰宅したあと、彼女は半ば実験のつもりでその砂時計を持ち帰っていた。もともと「時間がどうこう」という類の話には懐疑的だった。だが、それを差し出した“彼ら”の存在は、たしかにこの手で触れた。だから完全な夢とも言い切れない。
砂の音が静かに響く。サラサラというかすかな音が、部屋の空気を薄く震わせている。洋子はそのリズムを数秒間聞いていたが、ふと視線を机の端の目覚まし時計に移した。
針が逆に回っている。
一瞬、視覚の錯覚かと思った。時計を手に取って確かめる。秒針は規則正しく、しかし確かに逆方向へ。分針も、ゆっくりと時間を巻き戻すように動いている。背筋が冷えた。空気が変わる。蛍光灯の光がわずかに暗くなった気がした。彼女は思わず砂時計の下半分を覗き込む。青い砂はまだ半分ほど残っている。つまり、この現象は進行中ということだ。
「ははぁ……砂時計が進む分だけ、時間を遡れるって寸法ね」
小声でそう呟き、洋子は机の上のノートを開いた。ペン先が震える。“砂が落ちる=時間が戻る”その一行を書きつけ、次に矢印を引いて“時計の逆回転を確認”。さらに下に、“室内環境に変化なし。音・温度・空気流動すべて平常”と記す。まるで実験記録のように、彼女の手は止まらない。好奇心が恐怖を凌駕していた。
どれくらい戻っているのか、確かめる必要がある。机の時計と、パソコンのシステム時刻を見比べる。画面の隅に表示されている時刻も、同じように逆に進んでいた。つまり、これは局所的な錯覚ではない。物理的な現象。少なくとも、電子機器の時間基準すら巻き戻している。「なら、何分戻れる?」砂の落下速度からして、全体でおよそ三分ほどか。時計の針はゆっくりと二分、三分前の位置へ。つまり一回転で三分。なら、繰り返せば——。
洋子は再びノートに線を引く。“一回の反転で約三分遡行可能”“連続反転で更なる遡行が可能か?”“記憶の保持はどうなる?”次々に湧く疑問をメモに書き連ねながら、ふと指先に視線を落とす。砂時計の上部に残っていた砂が、ほとんど消えかけている。そして、時計の針が止まった。次の瞬間、再び正方向に動き始めた。世界が“現在”に戻ったのだ。
部屋の中は静まり返っている。窓の外では、電線に留まったカラスが一羽、首を傾げている。先ほど見た時とまったく同じ姿勢だ。「……なるほど」洋子は椅子の背に体を預け、深く息を吐いた。この現象は、少なくとも彼女の観測範囲内では再現可能であり、かつ安定している。彼女はペンを置き、時計をもう一度確かめた。時刻は三分前に戻っている。壁のカレンダー、机の上のスマートフォン、どれも一致していた。
念のため、冷めたコーヒーを口に運ぶ。味は変わらない。ただ、少し熱い。……いや、先ほど飲んだときよりも確かに温かい。つまり、戻ったのは時間だけではない。物質の状態もその瞬間へと巻き戻っている。
彼女は思わず笑い声を漏らした。「ほんとうに、遡ってるわけね……!」
しかし、その笑いには興奮と同じくらいの緊張が混じっていた。こんな現象があり得るのか? 相対性理論も量子論も、この現象の説明には足りない。砂が落ちることと、時間が戻ること。そこに物理的な因果の接点は存在しないはずだ。ただの比喩、象徴、あるいは観測者の錯覚——そう言い切れない何かが、目の前にある。
洋子は砂時計をもう一度持ち上げた。掌に感じる重みは、普通の硝子製品と変わらない。だが、その内部には確かに“時間”が封じ込められているように感じる。ふと、砂の中に微かに光る粒を見た。それは砂とは違う、極小の輝き。電子顕微鏡で見た鉱物の結晶に似ている。もしかすると、これが“あの連中”の言う「時間の粒子」なのかもしれない。
彼女はまたノートに書く。“砂粒内部に光点あり。発光体? 観測時に挙動変化なし”“エネルギー的反応:不明。要再検証”
時間を戻すたびに、世界の何が変わっているのか。自分以外の人々は、この変化を認識しているのか。記憶はどう保持されているのか。観測者である自分が、この現象をどこまで測定できるのか。
そのとき、部屋の壁の時計が一瞬だけ止まり、針が一拍遅れて進んだ。小さな音。まるで呼吸の乱れのような間。洋子は息を呑む。砂時計を見ると、まだ動かしていないはずの砂が、わずかに震えていた。それは“生きている”ような感覚だった。思わず机から離れ、部屋の明かりを落とす。暗闇の中で、砂の粒がかすかに青く光を放っているのが見える。まるで、時間そのものが呼吸しているようだった。
「……記録しなきゃ」
洋子は再び明かりを点け、震える手でペンを取る。“砂時計内部で微光を確認。反転操作なし。自発的発光?”“時間遡行以外の反応存在の可能性”
書きながら、彼女はふと思う。あの夜、“彼ら”が言っていた言葉——『これは君に返すものだ』。返す? 私は受け取った覚えがない。その意味を考えようとした瞬間、机の上のスマートフォンが一瞬だけ光った。画面には通知がひとつもない。それでも時計表示が“21:14”から“21:11”へと戻っている。砂を触っていないのに。
洋子は砂時計を見た。砂が、ごくわずかに減っていた。ほんのひとすじ、目で見てわかるほど。彼女は無意識に喉を鳴らした。時間が、こちらの意識と連動しているのか?“観測すること”そのものが、時間の流れを操作している?その仮説をノートに書きかけ、ペン先が止まる。窓の外の景色がわずかに違って見える。街灯の数が一つ増えている。向かいの家の屋根の形が変わっている。
「……まさか」
洋子は立ち上がり、カーテンを開けた。外の空気は冷たい。だが、ほんの数分前に感じた夜気とは違う匂いがした。湿り気が多い。遠くで犬が吠える声が、かすかに響いてくる。世界が、ほんの少し“別のもの”になっている。たった数分の遡行で、現実が別の枝へ分岐しているのかもしれない。
洋子はゆっくりと椅子に戻り、深く息を吐いた。頭の中で理論が暴れ出す。時間はエネルギーの一形態なのか、それとも情報の流れなのか。もし後者なら、この砂時計は“情報構造を書き換える装置”ということになる。つまり、“記録”の修正。彼女の脳裏に、奇妙な確信が芽生えた。
砂時計の砂が落ちるたび、世界の記録が上書きされている。そしてその記録の差分を、彼女だけが覚えている。
「時間は……記録だ。そういうこと?」
自分でも驚くほど静かな声が口をついた。それを確かめるように、再び砂時計を逆さにする。コバルトブルーの砂が、また静かに流れ始めた。机の時計の針が、逆に回る。洋子はノートを開き、次のページに記した。
——実験開始、第二回。
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