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優しい檻 灰色に染まった鉄格子の向こうで、今日も変わらぬ朝が訪れる。外は見えない。時間の流れは、ここでは外とは違う。
それでも、彼──榧野ミコトは笑顔を忘れない。
特に、愛する人に対する笑顔は。
「おはよぉ、コトちゃん。今日も可愛いね〜。」
「……朝から気持ち悪い」
杠コトコは食堂の壁にもたれ、ミコトを一瞥しただけで目をそらす。言葉は刺々しい。けれど、彼女の視線が一瞬揺れたのを、ミコトは見逃さない。
「えへへ、コトちゃんに気持ち悪いって言われるの、なんだか嬉しいな〜。昨日は声かけても無視だったからさ。今日は進歩、進歩♪」
「……本気で殴るわよ?」
「コトちゃんのパンチなら、僕、受け止めるよ。優しさが滲んでるからさ」
「……ほんと、無理」
コトコはぷいと顔をそむけた。その耳が、ほんのり赤く染まっていることには気づかないふりをして、ミコトは穏やかな笑みを浮かべたまま、彼女の隣の席に腰を下ろす。
彼女が表面上、どんなに冷たくしても、その奥にある感情を、ミコトは確かに感じ取っていた。彼は人の気持ちに敏感だ。だからこそ、優しい。そして、誰よりも執着する。
それが、たとえ“歪んだ感情”だとしても——。
ミルグラム、の監獄に囚われている十人のヒトゴロシ。その中でも、杠コトコの存在は際立っていた。クールで、誰にも媚びず、自分のルールを絶対視する彼女。囚人たちと仲良くなろうともせず、数日たち、ある程度仲の良いグループがちらほらでき始めた今でも、孤立している。
その隣に、いつも明るく振る舞いながら、どこか“危うい”ミコトがいるのは、奇妙な構図だった。ミスマッチ、と言った所か。
「ねえ、コトちゃん。今日は一緒に散歩しよ〜?2人で歩いてると、皆に見られるかもだけどさ。ずぅーっと部屋でダラダラしてて運動不足は身体に良くないしさ」
他の囚人なら近づきもしないその部屋に、ミコトは平然と入り、コトコに声をかける。
─1人で散歩するより、2人でいた方が安心するじゃん。
ミコトの主張はそうだった。
「一人で行けば?」
「でもさ、コトちゃんが歩く後ろ姿、綺麗だなって、いつも思ってたんだ〜」
ね、いいでしょ?とミコトが顔を近づける。コトコはすかさずそれを避けて、目を逸らす。
何となく、目を見たらいけない気がした。戻って来れなくなるような、恐怖がほんの少しだけ、あった。
「……変態」
「コトちゃん限定の変態だから安心してね。浮気なんてしないよ」
彼女の顔が、ほんのりと赤く染る。照れ隠しとして、顔を逸らすのが癖のようだ。そんな所も、ミコトは愛おしく感じる。
「……もう、好きにしなさいよ」
肩をすくめてコトコは立ち上がる。付き合うつもりはない。ただ、諦めさせるために歩く。それだけ。
そう思っていた。
でも、ミコトの声が、隣で響くたびに——心の奥がわずかに揺れる。ミコトの一つ一つの行動が気になってしまって仕方がない。後ろ姿なんて初めて褒められた。足の早い自分に合わせて歩いてくれている。
彼の笑顔は、本物なのか?
それとも、何かを隠しているのか?
彼女は見抜く力がある。だからこそ、ミコトの中の「何か」に、薄々気づいていた。
けれど、それを暴くことが怖いと思ったのは、初めてだった。
「も〜、コトちゃん聞いてる?」
「もちろん聞いてないわ」
「酷っ!!」
次から次へと休みなく自分へ発される言葉に、脳がついていけない。自分の性格故に、考えすぎてしまうので歩く足音に集中する。
…多分だけれど、ミコトは恋している。私に。
別にそんな事どうだっていい。自分に関係は無い。私は私のするべきことをするだけでいい。そう自分に言い聞かせ、少しずつ早くなってゆく心音にストップをかける。
他の囚人と接するのと同じ様に距離を保ち、ありのままの自分をさらけ出せば、ミコトも自分に飽きて離れていくだろうと思う。
別にいい。それで良い。いつもそうだから。私は孤独なままで大丈夫。
「大丈夫じゃなさそうだよ〜?」
「…は?」
「いや、声に出てたからさ。私は孤独なままで大丈夫〜って。意外と抜けてるコトちゃんも可愛いね〜」
コトコは声にでていたことに酷く動揺し赤面する。そんな顔を見られないように、咄嗟に顔を伏せ、「黙れっ」や「死ね」など呟いているが、ミコトには何のダメージも無い。逆に可愛いとまで感じている。
…そしてそれを口に出している。勿論コトコが余計にキレる。
「おっ!可愛いって言われるの、嬉しい感じ?」
「うるさい!」
「顔真っ赤だね、とっても可愛いよ」
「っ〜〜〜!!!!」
……ミコトは何度も何度も可愛いと言う。
………コトコはさらにキレる。
…………………もしかしたら、相性は悪くないのかも知れない。
監獄内には、2人の軽い足音が弾んでいく。
「……お二人方…何をされているのでしょうか」
「マヒルが思うに、あれはきっとお付き合いしてるの!!そしてアレはデート!可愛い〜!」
後ろから盗み聞きと覗き見をしていたアマネとマヒルは、いつもとは全く違う2人の様子をみて唖然とし、そして全てを理解しキャーキャー叫んでいる。
「いつもクールなコトコちゃんが、ミコトくんにだけ照れちゃうの?コトコちゃんのギャップが凄くて、マヒル、好きになっちゃうかも〜!」
「それは不貞行為では……?」
「うーんと、そーじゃなくてね!ミコトくんとコトコちゃんのカップルを推したくなっちゃうかもって事!」
「推したくなる…?」
「そう、コトコトカップル!!」
マヒルは監獄内の恋愛を今か今かと待ち構えていたので、コトコとミコトの姿を見て一瞬でカップルだと判断し、有頂天へとなっている。
対するアマネは浮かれるマヒルの言葉を理解しようとするので精一杯で、それはそれは眉間にしわが寄っている。
2人の小さな感情は、監獄内の囚人へ強く影響していくだろう。…特に女子囚人に。
あーだこーだ言い合いながら、着いた先は監獄の共用スペース。
コンクリートで作られた殺風景な空間に、ほんのわずかな温もりが降りている。きっと2人が来たからだろう。
ミコトは共用冷蔵庫?に近づき、中身を見る。コーヒーに紅茶、牛乳とオレンジジュース。どれも悪くない。彼はどれにしようかとまじまじと見つめる。
コーヒーは業〇スーパーとかに売っていそうなアイスコーヒーパック。味はオーソドックスな物だろう。紅茶は午後(略)。牛乳は安売りのではなく、お高い牛乳。ホットにしても、冷たいままでも美味しいかも。オレンジジュースは普通のオレンジジュース。
どれにしようか。どれでもいいが、よくない。
……どれならコトちゃんは飲んでくれるか。ミコトは考えた末、これ以上は聞いた方が早いと判断し、コトコに目線を向ける。
「コトちゃん、何飲みたい?」
「プロテイン」
「前にも言ったけど、支給品として頼まないと無いよそれは」
軽くツッコミをいれると、コトコは分かりやすく悔しそうな顔をする。それを見たミコトの口元がふっ、と緩み、笑顔になる。
「何ならあるの」
「コーヒーと紅茶、牛乳とオレンジジュース。あと水」
コトコは少し悩んでいるらしく、んー、と声を漏らしている。そんな所も可愛らしい。そして決まった、という顔をし、口を開く。
「カフェオレ」
「かふぇ…おれ?」
ミコトは最初、彼女が何を言ったのか全く分からなかった。頭の中は、?マークでいっぱいだった。そんな脳内を見透かしたのか、コトコはとても自慢げな顔をして、
「コーヒーと牛乳あるんだから、作れるでしょ?」
と言った。
「確かに……牛乳とコーヒーで…カフェオレ作れる」
ミコトは彼女の言葉を聞いた瞬間、世界が明るく見えた。いや、コトコが光り輝いて見えた。お得意の腕組みをし、今にもドヤ!という効果音が出そうな顔をしている。
ハッキリ言って可愛すぎる。今すぐお部屋にお持ち帰りしたいぐらいだ。
天性の可愛さにフリーズしてしまったミコトを、コトコは?という顔で見つめる。上目遣いで、少し幼げに見えるそんな姿も可愛すぎる。
いつまでもフリーズしてはいられないので、レッツトライの精神でコップにコーヒーを注ぎ、その後に温めた牛乳を注ぐ。おいしい牛乳ならとことん使ってあげましょうと入れてみたが、その欲張りが原因で牛乳の割合が多くなった。
カフェオレの出来たふたつのコップをトレーに乗せ、ミコトはコトコの場所へと向かう。
「どーぞ、ちょっと甘いかも。ごめん」
「別に」
自分もイスに腰をかけて、作ったカフェオレを飲もうとする。コップを近づけると、甘い香りがふわりと立ちのぼり、あぁ、牛乳多めに入れて良かったな、と思う。
コトコも大満足しているようで、いつものポーカーフェイスが崩れている。可愛い。
「ふー、落ち着くなあ。やっぱりこういう時間も大事だよね」
「何が落ち着くのよ、ここで」
隣でふわふわしていたコトコが、はっ!とすぐにポーカーフェイスを戻し、呆れたように言う。彼女は腕を組んで、周囲を鋭い目で見張っている。
…多分、素顔を誰にも見られていないか確認しているのだと思う。残念ながら、ミコトには丸見えだったのだが。
「コトちゃん、そんなに警戒しなくても、今日は穏やかだよ」
「油断したときが一番危険。あなたも少しは自衛意識を持ちなさい」
「ふふ……はーい。コトちゃんの忠告は聞いとくよ」
それはブーメランでしょ、と言いたくなったミコトだが、言ったらあと数日は話をしてくれなさそうなので心の中に止めておく。
ミコトが笑うと、コトコはわずかに顔をそらした。
耳が少しだけ赤い。
すると——
「うるせーな。イチャイチャするなら部屋でやれよ」
つり目が特徴の、フータが声を掛ける。どうやら彼もここで休んでいたらしい。ミコトとコトコを睨むように見た。
「へえ、休憩してたんだ?フータにもリラックスタイムってあるんだね。意外」
「はぁっ!?あんまり俺をバカにすんなよ。」
「そっか、嫌だったらごめんね。でもさ〜、そうやって高圧的な態度見せるってことは、怯えてるんでしょ?」
ミコトは、せっかくの2人きりの時間を崩してきたフータに対しちょっかいをかける。フータが嫌がりそうな言葉を選んで。
コトちゃんの可愛いお顔を影から見ていたのだから、別にこれぐらい良いだろう、という気持ちで。
「はぁ?!?」
「……軽すぎるわよ、ミコト。そうやって簡単に相手を挑発するなら、何か起きても私は助けないわよ」
コトコが小声で釘を刺すが、ミコトは悪びれず笑っていた。反省の色など全く持ってない。
そんなやりとりを遠巻きに見ながら、一人の女性が近づいてくる。
──ユノ。
「ねぇ、ミコトさん。その飲んでるやつって、ホットカフェラテ?」
「うん、そうだよ〜。ゆんちゃんも飲む?」
「うれしい!あたし、こういうの好きなんだ〜」
ミコトがササッと作り、コップを差し出すと、ユノはにこにこと受け取った。彼女の顔には、ほんの少しの油断と、ほんの少しの計算が混じっている。
「……油断させて、何か探ってるつもり?」
コトコが低い声で問いかける。
さっきのほわほわはどこにいった、あれは別人格なのか、というぐらいだ。
「え〜違うよ?ただ、皆と仲良くなりたいな〜って。」
「少しだけど……表情に見えてるわよ。」
「わっ、鋭いな〜。さすが“正義の人”って感じ」
「……」
コトコは目を細めたが、ミコトがすっと立ち上がる。
フータとユノには悪いが、これ以上、2人の時間を邪魔されるのは…嫌だ。いつもは表に出さない嫉妬心が、大きくなりすぎた。
「まぁまぁ、みんなちょっと落ち着こうよ。ここで喧嘩しても何も進まないし」
「そもそも“進める”って、何をだよ。全員、審判前なんだろ?本音なんて誰も出すわけないだろ。」
フータが荒々しく言う。
ミコトはそうじゃないんだよなぁ、と思いながらも、顔には決して出さない。
「でも、それでも話すことで、何か見えてくるかもしれない。ね、コトちゃんもそう思わない?」
「……そうね」
コトコはそっと目を伏せた。
1本1本のまつ毛が長い。大人な顔がとても綺麗。って、そんなこと考えてる場合じゃないか。
「話せば分かるなんて、理想論よ。けど……それでも、ミコトがそう言うなら、試してみる価値くらいはあるわ」
「……コトちゃん」
ミコトは思わず笑ってしまう。
コトコが少しだけ自分の言葉に寄り添ってくれる、それが妙に嬉しかった。
…そして、ミコトが嫉妬していることすら気づいていない純粋さが、愛おしかった。
フータもユノも、ミコトが止めに入った時に彼からジリジリと伝わる嫉妬心に気づいていた。いつもなら、もっと会話がヒートアップし、殴り合いが始まる寸前まで彼がコトコと周りを止めることは無い。だが今日は、いつもの遠回りな心理戦の時点で止めに入っていた。つまり、
<邪魔するな>
ということだろう。意外と察し良いフータとユノはそれに気づいたが、ただコトコだけが、それに気づくこと無いでいる。コトコの本能が、それを感じ取るのを拒んでいるのだろう。
嗚呼、なんて可愛い子。
──そう、ミコトはコトコに対して、恋心を超えた、独占欲と執着を持っている。コトコが感じ取っているのは1部に過ぎない。本当は黒く、深い、忌まわしい感情を持っている。それを押えながらも、たまに爆発するのだ。今みたいに。
「——ったく。ほんと気持ち悪ぃ空気だな」
フータが吐き捨てるように言いながら、その場を離れる。ユノも少しつまらなさそうに、その後を追って出ていった。
二人きりになった部屋。
良かった。この時間を取り戻せた。
「ありがと、コトちゃん」
「何が」
「僕のこと、ちゃんと信じてくれて。嬉しかった」
「……別に、信じてるわけじゃない。あなたのその性格が、単純に“損”してると思ってるだけ」
「ふふ、それでも嬉しいよ」
「……バカ」
───ほんとに損してるのは、どっちかな?
ミコトが笑っていると、不思議とコトコも口元が緩んだ。彼の笑みが、自分とは違うとも気づかずに。
この監獄の中で、誰が赦され、誰が赦されないのか。
その答えは、まだ何一つ分からない。
でも確かに今、この瞬間だけは。
誰かと繋がっていたかった。
——透明な昼下がりに、少しだけ生まれたぬくもり。
それが、彼らの距離を、わずかに縮めていた。
▢▢▢▢▢
ある日、ミコトは珍しく、黙っていた。笑顔も、冗談も、すべて封じ込めたように。
それが妙に不気味で、コトコは自分でも驚くほど、気にしてしまっていた。
「…何よ。今日は話しかけてこないの?」
「……うん。なんか、嫌われたくないなって思ってさ」
「いつも通りでしょ。気にしないのに」
「ううん。……今日、夢を見たんだ。コトちゃんが、僕のことを『好き』って言ってくれる夢」
「……。」
コトコは視線を下へ向けた。ミコトにとって、私からの愛が、ミコト自身の行動を変えるほどの価値があるのか。そう、疑問に思ったからだ。
「起きたとき、ああ、これ夢なんだって……すごく、がっかりした。なんか、情けないよねぇ、僕」
「……バカ。」
小さな声だった。
「ほんとバカよ、ミコト。そんなことで黙るなら、最初から私に近づかなきゃよかったのに」
「……それでも、近づきたかったんだよ。コトちゃんが、冷たくても、怒っても、それでも好きでいられるって、思ってた」
悲しそうに、ミコトが俯く。そんな彼を、コトコは見捨てることは出来なかった。まるで、あの時の女児の様だったから。
「……ミコト」
「僕ね、コトちゃんのこと、本当に好きなんだ。冷たいところも、優しいところも、強がるところも、他人に厳しいくせに自分に一番厳しいところも、ぜんぶ」
「……。」
か細い声、だけれど気持ちがこもっている。
「一審で、僕たちの罪がどう裁かれるかなんて、わからない。僕は記憶が無いし。ヒトゴロシなんてしてないし。だから……コトちゃんの言う、『弱者』の中に、少しでも僕がいてくれたら、って思ってる」
「……いるわよ」
その言葉は、小さく、けれど確かに──届いた。
告白のあと、二人の距離は劇的に変わったわけではない。コトコは相変わらず無愛想で、ミコトは戸惑いながらも、笑顔で空気を読んでいる。彼女に対する、強い独占欲と嫉妬心を隠しながら。
けれど、その間に流れる空気は、どこか柔らかくなった。他の囚人は気づかない、だが、確かに、ミコトとコトコの緊迫感は、緩んでいた。2人だけが、それを感じ取っていた。
「ミコト。……ありがとう」
「え?何のこと?」
「……夢の話、してくれて」
「へへ、それじゃあ、今日も夢見たいな時間にしよっか。コトちゃんが一緒にいてくれるなら、それだけで、僕は幸せだから」
ミコトが微笑む。優しい顔で。
心の奥に潜める、黒くドロドロした感情を押さえ込みながら。
「……ほんとに、救いようのない馬鹿ね」
「コトちゃんが言うなら、本望だよ」
そして、再び静寂が流れる監獄の中、二人だけの時間は続いていく。その愛が、赦されるものかどうかは、まだ誰にもわからない。
けれど、檻の中で交わしたその想いは——確かに、そこにあった。
──こんなに簡単に行くものだとは思わなかった。
もっと怪しまれると思った。
だけれど実行してみれば、コトちゃんは自分から、僕の手の内側に、少しだけ入ってきてくれた。恋愛の駆け引きとはどういう事なんだな、と納得する。
これまではひたすらアタックして、愛を伝えて、振り向いて貰えるようにしていた。だけど、最近は「僕がコトちゃんを諦めようとしたらどうするんだろう」と思い始めていた。
押してダメなら引いてみろ。
か弱い僕を演じれば、コトちゃんはとっても分かりやすく心配してくれて、心を開いてくれた。嬉しすぎる。
─そう、全てはミコトの甘い罠だったのだ。コトコはそれに引っかかりに来た。それが罠だとも知らずに。
次はどうしようかな、とミコトは心を踊らせている。そんな彼を、彼女が知ることは無い。
2人だけの時間はつづく。
──この愛は決して赦されるものでは無い。
▢▢▢▢▢
時は経ち、監獄の廊下には、審判を終えた囚人たちの、気まずい雰囲気が薄く漂っていた。
最初の頃とは段違いの、空気の重さ。
5人が赦され、3人が赦されなかった。
そして次は、誰なのか。
──誰が肯定され、誰が否定されるのか。
ミコトは、壁にもたれながら空を仰いでいた。
赦さない。判決は理不尽な物だった。尋問をしていても記憶が途絶え途絶えで全く弁解する事ができず、此様だ。判決を聞いた日は、流石にショックで部屋に籠った。『赦されなかった』という事でコトコに構ってもらうことも出来たが、そんな気にはなれなかった。
だが、そうショックを受けていたのもつかの間、翌朝には「別にいいか」ぐらいに思うようになった。
我ながら切り替えが早すぎる、と痛感する。
でもしょうがないじゃないか。あわよくば、赦されなかった、という事で慰めてくれたりするかもしれない!と思った瞬間、モヤモヤした気持ちは突風の如く吹き飛び、チリとなり消えてしまった。というか慰めて欲しかった。
虚ろな灰色の天井に、陽の光は届かない。
だが、それが良い。
2人だけの時間を満喫出来る。早く会いたい。
「ミコト」
声がした。
凛とした、冷たい、でもよく耳に馴染んだ声。
嗚呼、やっぱり来てくれた。
「……コトちゃん」
ゆっくりと視線を向けると、そこにはいつも通り背筋を伸ばしたコトコの姿があった。
「赦されなかったのね、ミコト」
「うん。…そう、みたい。」
はは、とミコトが軽く笑う。諦め、呆れに近い愛想笑い。…それは、表面だけだが。コトコが気づくことは無い。
何故なら、いつものような明るさは全くもって無いからだ。コトコは観察力に優れている。だが裏を返せば、相手が表面上を完璧に取り繕っていれば、本心を知ることが出来ない、という事だ。
ミコトもそんな事に気づけないほどの間抜けでは無い。それに気づいた時は、なんでもっと早く気づかなかったのかと悔やんだ。それぐらい、コトコには絶大な効果があった。
そして今も、彼は生きてきた中で身につけた、表面上の作り方を最大限にフル活用し、コトコを騙そうとしている。
「……あなたみたいな変人も、赦されなかったら大人しくなるのね。」
ミコトは一瞬だけ目を細めた。
変人。僕は、元から変人じゃなくて、コトちゃんのせいで変人になっちゃったんだけどな。
大人しくもなってないよ。今だって本当は「会えて嬉しい!だーいすき!」って飛びつきたいくらいなんだから。
そう思いながら、いつものように笑って見せる。
そして、声色を変えて……同情を誘う。
「そっか。変人、か。
でも僕、いつも笑うくらいしかできないし。泣いたら……全部崩れちゃいそうでさ」
「たまに、自己犠牲がすぎる気もするけど。」
「だって……他人に負担をかけるよりは、自分を責める方がずっと気が楽なんだよ」
その作った言葉には、笑いよりも深い“疲れ”が見えるようにした。
するとコトコは黙ったまま、分かりやすく目を泳がせ、困ったような顔をしている。きっと顔が見えていないと思って、気を抜いているんだろう。ミコトの前に立っているのだから丸見えのはずなのに。
「……あなたを赦さなかったのは、エス。私じゃないわ」
「うん、分かってるよ。……でも、コトちゃんがどう思ってるかの方が、僕にはずっと……」
発する言葉をわざと弱々しくし、最後を曖昧にする。曖昧にすることによって、探究心の強いコトコが自分からこちら側に近づいて来るように仕向けている。
そして、コトコはやはりそれを見逃さなかった。
「言いなさい。曖昧にされるのは、嫌い」
「……コトちゃんが僕を見捨てなかったら、それでいいなって。そう思っただけ」
───かかった。
思わず笑みが零れそうになった。咄嗟に手で顔を隠し、うーん、と、わざと困った振りをする。そして、コトコが1番、言われると突き放せなくなるであろう言葉を選んだ。
その瞬間、コトコの表情が少しだけ揺れた。
動揺している。彼女は、弱者が虐げられるのを過度に嫌っている為、ミコトの言葉に心が揺らいだ。
けれど、すぐに戻る。
冷たく、毅然と。
ああ、まだ堕ちないか。まぁそうか。と思いながら、彼はコトコの目をじっと見つめる。
「……私の審判、まだなの」
「うん」
「だから、今はまだ、あなたを“どう思うか”、“どうするか”は決められない」
ミコトは、その言葉に少し眉を寄せた。
心は、コトコの心を弄ぶことが出来ている喜びでいっぱいだったが。
「……コトちゃん」
「私の審判がどうなるか。赦されるか、赦されないか。
──それによって、あなたへの接し方も変わるわ」
はっきりと、そう言った。
それは脅しではなく、宣言だった。揺らぎのない、彼女なりの“覚悟”だった。
─そうこなっくっちゃ。コトちゃん。
こんな程度でコトコがこちら側に堕ちてくるとは、そもそも思っていなかったので、ミコトにつまらなさは無い。逆に、彼女に覚悟を決めさせるぐらい、自分が彼女の心に影響しているかと思うと、優越感が堪らない。
「そっか。コトちゃんは、白黒つけないと前に進めない人だからね」
「ええ。」
彼女が発した言葉の“本当の意味”を、ミコトはイマイチ理解していない。そして彼女も、ミコトが裏で何を考えているか知らない。
お互いに少しズレている。
ふっと、ミコトは目を細めた。
「じゃあさ、コトちゃんが“赦されたら”、そのときは僕のことをどうするの?」
「そのときは……あなたを“罪人”として、裁くわ。私は“赦された者”だから。あなたの事も、きっと嫌いになるわ。」
「そっか」
「でも——」
言葉が、少しだけやわらかくなる。
「もし、私も赦されなかったら……そのときは、少しだけ、同じ立場で向き合ってあげる」
「“あげる”、なんだ」
「当然でしょ。上からで悪いけど、それが私の正義だから」
ミコトは、小さく笑った。
少しづつ、こちら側にコトコが堕ちてきているのが感じ取れるから。主導権を握っているのはあっちだが、おびき寄せるのはこちらだ。
犬が飼い主を飼っている、というのと一緒の状態。
「……ありがとう、コトちゃん」
「別に、感謝されるようなことは言ってないわ。
…過程の話だから、期待されても困るし。」
そう言いながら、コトコは背を向ける。
そして、歩き出す。
たかが過程。されど過程。
ミコトは、その日がいつ訪れるか楽しみでたまらない。その背に、ミコトは満面の笑みで、小さく手を振った。
「コトちゃんがどんな答えを選んでも、どんなに変わっちゃっても、僕は──コトちゃんのことが、好きだよ」
立ち止まった肩が、一瞬だけ、かすかに震えた。
きっと、コトコにはものすごく甘い言葉なのだろう。どうなろうと、否定しない。ただ聞けば、とてもやさしい言葉だと思う。だが、それは「いつでも堕ちてきていい」という、深い愛が込められている。彼女がそれに気づくことは、もっと遅くなりそうだが。
コトコは振り向かずに去っていった。
——その姿の、強さと脆さを、ミコトは知っていた。
▢▢▢▢▢
扉が閉じた音が、部屋に響いた。
その音を合図にするように、杠コトコはゆっくりと足を踏み入れる。
榧野ミコトがいる。
……いや、いたはずだった。
しかし、そこに立っていたのは、いつもの温和なミコトとは、明らかに「違う何か」だった。
グレーの瞳が鋭く光り、口角がわずかに吊り上がっている。
姿形は同じなのに、目つきも、気配も、まるで違っていた。
「よう、コトコ」
声が低く、荒い。
ミコトはもっと高くて、柔らかいのに。
皮肉げに笑う、その男が、一歩前へ踏み出した。
「ミコト……じゃないわね」
「察しがいいじゃねぇか。」
「人格が違えば、赦されるとでも?」
「さぁな。」
もう1人のミコトは笑った。
「俺は、ミコトを守るために出てきた。それだけだ」
「そのために、私と戦うってわけ?」
「そうだ。僕が“好き”だからな。お前に壊されるわけにはいかねぇ」
一瞬の沈黙。
「ハッ、赦されたから、僕に対して暴力振るおうとしてんだな?なにも知らない、分かっていない僕に。」
「お前には関係ない。……そもそも、『赦されなかった場合は、貴方を罪人として裁く』と伝えてあるから、不意打ちじゃない。」
「なんだよそのプライドの高さ。
……このイカレ女が。」
その発言が引き金だった。
コトコが先に動いた。
正義の意思のもと、真っすぐに蹴りを繰り出す。鋭く、躊躇のない一撃。
だが——
「遅ぇよ、コトコ!」
ミコトが身体をひねり、寸前でそれをかわす。
─嘘。なんで。
少し戸惑いを見せるコトコを見て、笑いながら、彼女の背後へと回りこむ。
前回よりも、学習能力が着いたのか。動きは、コトコがミコトの尋問に乗り込んだ時よりも明らかに変わっていた。
「“赦された”からって、調子に乗ってんじゃねぇぞ!」
振るわれた拳は鋭く、重い。
けれど、コトコは即座に身を沈めてかわす。
「こっちこそ言っておくわ。赦されなかったくせに、“私”に手を出すなんて、正気じゃない!」
次の瞬間には、二人の攻防が爆発した。
拳と蹴りが交錯する。
空気が揺れ、壁に風圧が叩きつけられる。
——ガンッ!
コトコの蹴りと、ミコトの膝が正面からぶつかる。
どちらも一歩も引かない。
どちらも、本気のはずなのに。
ミコトであろう何かが舌打ちをした。
「くそ……マジで強ぇな、お前。細せぇ身体の割に、よくこんな暴力が隠れてたもんだ」
「バカにしないで。私は赦された。エスの牙となっているの。あなたみたいな罪人を、正しく罰する資格があるのよ」
それを聞いたミコトが笑う。嘲笑う様に。コトコはそんな彼の態度が一番気に入ら無かった。
「じゃあ聞くがよ、コトコ。
“自分の事を好きでいてくれる奴”に対して、本気で拳振るうヤツが、正義って呼べんのか?」
「……っ!」
言葉が、胸に刺さる。
ミコトが顔をしかめる。
さっきまでの憎まれ口とは違う、真剣な瞳だった。
「お前は変わったな。……一審の頃の方が、人を平等に見ていた気もするぜ」
「うるさい」
コトコは、戸惑いも混じりながらミコト?を睨みつける。
「俺も僕も、お前が好きだ。片方が大怪我を追うだなんて嫌だから、ミコトの代わりに出てきた。
……だから、お前を“壊す”ために戦う気はねぇ。…僕と同じだよ。」
「……だったら、なぜ避けたの?」
「お前に怪我させて、“ごめん”とか言う僕、見たくねぇからだよ!」
一瞬、時が止まる。
コトコはその場に立ち尽くす。
拳は、いつでも振るえるはずなのに——振り下ろせなかった。
ミコトでは無い何かも、また攻めなかった。
いや、攻められなかった。
拳は交わしても、心まではぶつけきれない。
──それが、引き分けの理由だった。
互いに一歩、距離を取った。
息が荒い。
けれど、どちらも傷ひとつない。
「……なんだよ、引き分けかよ」
ミコトがつぶやく。
けれど、その声に怒りはない。
「コトコ、お前、……本気で誰かを粛清─ いいや、殺すのが怖いんじゃねぇの?」
「……黙れ」
「それが、お前の弱いとこじゃねぇの。
でも、俺もそんなとこもあるけどな。お前に対して、“本気でぶつかって、もし壊れちまったら”って思うと、拳が止まっちまう」
コトコは黙っていた。
その拳は、まだ震えていた。
けれど——今度は、恐れからじゃない。
迷いと、未練と、感情の揺れが、そこにあった。
「……また来いよ、暴力は無しな。」
コトコは背を向け、ドアに向かって歩き出した。
「次は、ミコトじゃなくて、俺に会いに来い。……好きなんだよ、俺はお前が」
その言葉を残し、彼は去っていった。
コトコはその場に立ち尽くしたまま、拳を見下ろす。
やはり、自分は変われなかった。赦されたからと言って、ミコトへの、少しばかりの恋を、完全に消去することは出来なかった。
そして、
──赦されなかった者の、悪の、まっすぐな想い。
それが、心の奥に静かに降り積もっていった。
▢▢▢▢▢
薄暗い監獄に、冷たい足音が響いていた。
─その足音の主はコトコ。
一審で「赦された者」そして「エスの協力者」として、赦されなかった囚人たちに制裁を加えることが出来る者。
彼女の目には確信が宿っていた。
[自分は正しい]
コトコは一審で赦された。つまり、エスは協力関係を望んだ。
弱き者を守る正義は、この監獄ではエスの牙となる。エスに肯定された限りは、役目を果たさなくては。
最初の標的、ミコトでは、十分な痛みを与える事は出来なかった。力も同等な所もあり、引き分け。
一番の原因は─ 心の揺らぎ。
だけれど、今度こそは仕留めてみせる。
2番目の標的の、独房の前で立ち止まる。
中には、椎奈マヒル。赦されなかった囚人の一人。
ベットへ腰掛け、虚空を見つめていた彼女が、ふと気配に気づいて顔を上げた。
「……コトコちゃん?」
「おとなしくしてて。これは、あんたのためよ」
その瞬間だった。
コトコの握り拳が躊躇なく振るわれた。
鋭い蹴りが、マヒルの体に何度も何度も落とされた。
ガンッ!!
コンクリート製の壁に彼女の身体が叩きつけられる。頭を打ち、足は折れている。
「ひっ、っ、いたい……!!」
「赦されなかったってことは、罪があるってこと。
なら、償う必要があるでしょう? これは教育よ。正義の、ね」
感情のない声。
それは冷たい水よりも鋭く、痛みよりも鈍かった。
マヒルが呻く。
何かを言いかけるが、次の瞬間にはコトコのミリタリーブーツが腕を踏みつける。
「黙って」
ゴキ、と鈍い音がなる。腕の骨も折れたのだろう。
そんな中、コトコは表情を変えない。
まるで、それが当然であるかのように。
「赦された私は、赦されなかったあなたたちを粛清する義務があるの。
あなたたちが自分が犯した罪の重さを実感できるまで、私は止めないわ。」
コトコの目には、狂気がない。
そこにあるのは、あまりにも純粋すぎる正義。
それが、最も恐ろしい。
⸻
数日、時間が経ち、3番目の標的は梶山フータ。
以前には正義について語り合った彼にも、容赦はなかった。
「コトコっ、なにを——」
「あなたは赦されなかった。
つまり、罪があるとみなされた。
これは、エスの望みなの」
ズリ、と微かに聞こえた後に、ゴン、と鈍い音。コトコの蹴りがフータの目に命中した。フータの目からは大量の血が出ている。
「やめろ…っ、やめてくれ!!」
フータは倒れこむようにして身を縮める。けれど、コトコは拳を振り上げ、容赦なくフータを傷つけ続けた。異変に気づいたカズイが来るまでは。
「その痛みが、あなたの誤りを正すの。
わからないのなら、わかるまで殴ってあげる」
それは、悪でも暴力でもない。
彼女にとっては“矯正”。
正義のため。赦された者の使命のため。エスの期待に応えるため。
だから、もう、躊躇いはない。
⸻
そして、またしても——榧野ミコトの前に立ったとき。
コトコは、手を止めた。
彼は独房の奥で、静かにこちらを見ていた。
座っていた。逃げない。反論もしない。
怯えた素振りもない。
「あんた……」
「ねぇ、コトちゃん。僕も、“粛清”されるの?」
その声は、明るかった。
笑ってさえいた。
「赦されなかった僕は、罰を受けるべきなんだよね?それがコトちゃんの言う、“正義”なら」
彼の笑顔は、どこまでも穏やかだった。
─何故?
コトコが前に、自分を襲撃した事を周りから知らされているはずなのに。なのに、ミコトはいつもと変わらない、微笑んだ優しい笑顔のままだった。
それが返って、薄気味悪かった。
「僕、今度は逃げないよ。別、人格…?に任せたりしない。コトちゃんが正しいなら、僕はそれを受け入れるよ。……全部、ね。」
沈黙。
痛々しい静寂が続く。
足は前に出なかった。
手は、上がらなかった。
彼の顔が、優しすぎた。
その無垢さが、コトコの正義を迷わせた。
まるで、小さい子のように。母親から愛を待つ、赤ちゃんのように。はにかんだ口、透き通った瞳で、じっと見つめられた。
「……粛清したいのは、あんたじゃない」
そう呟いて、彼女はその場を去った。
心臓の音が早くなる。焦っているのか、恥ずかしいのか。
彼女は、本当に粛清するつもりは無かったのか。それとも、元々粛清するつもりだったけれど、心が揺らいでしまったのか。
あるいは、なんの罪もない上に、自分のことを受け入れようとしてくれている「ミコト」だけには、振るえないと分かってしまったのか。
コトコ自身にも、答えはなかった。
───
空調の効いた無機質な部屋。
音もなく扉が開くと、コトコはゆっくりと足を踏み入れた。
「……ミコト」
「コトちゃん、おかえり。今日は少し遅かったね」
榧野ミコトは、床に膝を立てて座り、読書をしていた。本は、他の者から貰った配給品。
視線を上げ、にこやかに笑う。その笑顔には、傷ひとつない。─嬉しい、嬉しい。コトちゃんが自分から会いに来てくれた。
ミコトは最近、彼女がこちらをまじまじと観察しているのに気づき、とても嬉しかった。この間は、部屋まで来てくれて、久しぶりに目を合わせてくれた。思わず、笑顔を隠すのを忘れてしまうぐらい、胸が高鳴った。
コトコはそれに動揺し、その日は帰ってしまったのだから、今日はもっと長くここにいてくれるようにしないと。
そう思いつつも、ちょっかいを出したくて堪らない。…少しくらい良いよね。
「なんで、僕には手を出さなかったの?」
「っ!」
少しの沈黙の後、コトコが気まずそうに口を開いた。
「他の二人には、手を出したわ。赦されなかった人間には、罰が必要だもの」
「……うん、知ってるよ」
ミコトは立ち上がる。
彼女の目の前に行き、頬にそっと触れ、優しく撫でる。帽子をかぶっていて少し顔は見えずらかったが、コトコは決して拒否しなかった。
赤子に問うように、頭を撫でながら、優しくゆっくり耳の横で囁く。
「だけど、僕にコトちゃんが手を出せなかったのは……どうしてなの?
不意打ちは良くないって、身を引いちゃったの?でも、一審の時に言ってくれてたよね。だから不意打ちじゃないよ。あの頃の僕は、裁くって意味、よく分かってなかったけど。」
「……変に勘違いしないで。貴方は多重人格者。貴方がまだ、確実に人を殺したとは分からないから、罰を下さなかっただけ。」
「そうなんだ。
……でも、もしコトちゃんが僕を叩こうとしたら、僕は——それすら、きっと受け入れるよ」
これは嘘じゃない。
ミコトは、彼女に殴られたって良かった。骨を数本折っても、責任取って介護して、と甘える気でいたから。もし跡が残ったって、コトコがつけてくれた跡ならマーキングと同じ。つまり、キスマークと同じ。だから嬉しい。甘んじて受け入れる。
「……気持ち悪い」
そう言って、コトコはミコトから離れる。そして壁にもたれかかった。
白い壁。真っ白な彼女の正義。けれどその裏側が、心の奥に影を落としている。
赦されて、変わってしまったコトコ。
赦されなかったミコト。
そのくせ、いつもと同じように人懐っこくて、やさしい。
と、彼は思われているのだろう。実際は人懐っこいのも独占欲で、優しいのも彼女を落とす為の罠だ。
それに気づくことなく、コトコは彼の優しさに溺れていった。
────
数日後、休憩スペースの一角。
他の囚人たちは、それぞれ距離を取っていた。
杠コトコが正義の名のもとに「粛清」を行ったことは、誰もが知っていた。
そんな中、ただ一人、ミコトだけが変わらず、彼女に近づく。友情という名の、愛情を込めて。
「今日はプロテインバー、持ってきたよ。コトちゃん、プロテイン好きだったよね?」
「……。」
「ほら、これはチョコ味!チョコは、疲れたときにいいらしいよ」
「……なんで私に近づけるの?」
「僕がコトちゃんのことを、好きだから」
即答だった。真っ直ぐな目で見つめられる。嘘など付いていない、誠実な目。
「赦されなかった僕が、赦されたコトちゃんに惹かれるのは、間違ってるのかな?」
「……正気じゃないわよ」
「そうだね。コトちゃんが正義で、僕が罪なら、こんな感情は間違ってるのかもしれない」
ミコトは笑う。
その笑顔が、あまりにも綺麗で。
コトコはなぜか、視線を逸らすことができなかった。
「でも、間違ってるって知っててもさ……好きって気持ち、止まらないんだよね。
コトちゃんが、僕を嫌っても、赦さなくても」
「……。」
ミコトが少しずつ距離を詰めてくる。目を見つめあったまま。まるで、獲物が逃げないか様子を伺いながら近づく獣のように。
「……だから。僕を殴っても、拒絶してもいいよ。それがコトちゃんの“正義”なら、赦されたコトちゃんからの“裁き”なら、僕はその痛みすら、喜んで受け取るから」
静かに、けれど狂気を含んだ“優しさ”が空気を圧迫する。逃げられない。
元々こんな奴だったっかしら、という事がコトコの脳内で過ぎる。確かにミコトは優しかった。いつも純粋無垢に、彼女を追いかけ回していた。まるで子供のように。先日だって、子供みたいな笑顔でこちらに笑いかけてくれた。
だが、今のミコトはどうか。たしかに優しい。優しいが、その奥には歪んだ何かがある。透き通った目が、返って自分を見透かしているようで怖い。何かがおかしい。でも、何がおかしいのか分からない。
…赦されなかった男が、赦された彼女を、崇拝している。
コトコは——その熱に、無意識に揺れていた。
───
その夜、部屋の明かりは落とされ、薄暗い廊下の片隅に、二人だけの沈黙があった。
「……本当に殴られたかったの?」
「うん。だって、それで少しでもコトちゃんの気が晴れるなら、僕にできるの、それくらいしかないし」
甘やかそうとしても、コトちゃん逃げちゃうじゃん。と心の中で呟く。実際に声に出すと、せっかく捕まえたのに逃げられてしまうので、絶対に言いはしない。
自分よりも少し背が低い彼女の顔を、少し見下ろす。まつ毛は長く、今日は少し濃いめのアイメイクをしているのだろう。大人っぽさが出ていて綺麗。
うちのコトちゃんはかわいいなぁ、などと考えていると、彼女は気難しそうに口を開いた。
「……ねえ、ミコト。
あんた、自分が“赦されなかった”こと、どう思ってるの?」
いつか聞かれると思っていた。答えはもう決まっている。
「……辛いよ。身に覚えのない罪で否定されてるんだから。」
今にも泣きそうな顔で、ミコトはコトコを見る。するとコトコはつられて苦しそうな顔をする。彼女はああ見えて共感性が高いのだ。そこに、ミコトは漬け込む。
苦しいのだとアピールすれば、彼女がこちらを向いてくれるのは想定済み。それがミコトの計画。
しばらくの沈黙の後、「でも、」と続ける。
「コトちゃんに嫌われることが、一番怖いよ。
赦されないことなんて、その次。その次の次、くらい」
これは嘘でもあり、嘘でもない。嫌われるのは怖いが、また振り向かせればいいだけの話だとも思う。そもそも、赦されない事なんて候補に入っていない。
「……ほんと、どうしようもないわね。あんた」
そう言ったあと、コトコは戸惑いながら少し黙り、そしてミコトの顔を見て言葉を継ぐ。
「……あんたが、私に殴られなかったのは。
たぶん、貴方が私の中の、弱者にあたるからだと思う。」
「……え?」
危ない。「そうだよね〜!」と言ってしまいそうになった。そんなこと言ってしまったら、今まで彼女を騙してきたのが水の泡になる。咄嗟に驚いた振りをし、顔を崩さないようにする。
「私の正義に、あんたが踏み込んでくるのが、怖かった。ミコトみたいな…弱者を……殴ってしまったら、壊れてしまいそうだったの。私の中の、何かが」
ミコトは何も言わなかった。
ただ、表情を変えずに、穏やかに微笑みながら、彼女の言葉を全て受け止めていた。
もうすぐで堕ちてくる。
そう確信した。自分がコトコの弱者の立ち位置にいて、彼女の心を変化させているということは。
赦されなかったミコト。
赦されたコトコ。
その境界線は、簡単に越えられない。
でも、そこを超えてしまえば後は全て簡単。
彼女が正義という大義名分を掴み取る事ができず、こちらに堕ちてくるのであれば、その体を掴んで、2人で一緒に堕ちればいい。やっぱり、その時が待ち遠しい。
今も足元で、確かにコトコの感情は芽生えていた。そして、ミコトの芽と雁字搦めになっている。
名前のつかない、愛とも罪とも言えないものが——。
翌朝、ミコトは静かにコーヒーを飲んでいた。
いつもの笑顔。いつもの気配り。
コトコは隣に座った。
まだ寝起きなのか、髪の毛が所々ぽやぽやし、目も少しとろんとなっていて、まるで猫のよう。
こんなにも可愛い彼女を見れるのは、朝早く起き、1番最初に会った者だけ。ミコトはその座を監獄生活が始まった頃からずっと維持し続けている。つまり、この少し抜けている、寝起きのコトコを見たことがあるのはミコトだけ。
早起きは三文の徳とはこういうことなんだなぁとしみじみ感じ、ミコトは彼女に声をかける。
「ねえ、コトちゃん」
「……何?」
「赦されなくても、赦されても、
僕は、コトちゃんの隣にいたいよ」
「……知ってる」
短く、でも確かにそう返す。寝起きで頭が冴えていないのか、いつもの毒舌を捨てている。
赦しも、正義も、完全じゃない。
ひとつの定義が決まるものじゃない。
でも、どんな状況になろうと、この感情は——揺るがなかった。
そこにあったのは、正しさでも罰でもない、それでもなお、隣にいたいという、愛であり、独占欲だった。
それが、彼なりの答えだった。
▢▢▢▢▢
冷たい空気が、監獄の廊下を流れていた。
ミルグラムの空間は相変わらず、どこもかしこも灰色で、現実との時間の感覚は狂ったままだ。
第二審。
今度の審判はより、エスが囚人の心に入ってくる。だが、コトコの粛清の事もあってか、誰もが疑心暗鬼になっている。
そんな中でも、審判は続いた。そして、もうそろそろコトコの尋問が始まる頃だった。
一審で赦されなかったミコトは孤独だった。赦されたはずのコトコもまた、孤独だった。
他の囚人たちは、距離を置く。
「正義」を名乗る彼女の目に、牙に怯え、時に反発し、時に無視する。
彼女自身、それを受け入れていた。
……はずだった。
でも——
「……コトコ」
低く、威圧的な声が、背中から響いた。
その声を、聞き間違えることなどない。
コトコが咄嗟に振り返る。
監獄の端、誰も通らない回廊に、立っていたのは──榧野ミコト。
いや、その中の“ジョン”。
エスがそう名ずけたらしい。ジョン・ドゥから来ている、センスは良い。
「……またあんた?」
「ああ。俺だよ」
ジョンは両手をポケットに突っ込み、無防備に近づいてくる。
前回のような戦闘の構えはない。
けれど、その目は一切、油断していなかった。
「まさか、こんなに早く会うとは思ってなかったぜ。……ま、来たかったんだけどな。お前に、さ」
調子になっているのか、とイラつく。だが、同時にコトコの胸が、わずかに痛んだ。
それが何の感情か、まだ自分でも掴めない。
「……また殴られにきたの?」
「今は、そんな事しねぇよ。……お前、ちょっと元気なさそうだったから、来てやったんだよ」
「は?なにそれ。気持ち悪い。監視でもしてたの?」
「ちげぇよ、バカ。……たまたまだ。偶然。俺に変わった時、お前が部屋の横を通り過ぎたから、話しかけただけだ。」
…明らかに嘘くさい。
でも、その言葉の奥に、揺るがない“気持ち”があるのは分かる。
コトコは眉を寄せて、少しだけ視線を逸らした。
「……私は、赦された側よ。エスに肯定されたの。きっと、今回も赦される。あんたとは違う。」
「それが、寂しいのか?」
「……ちがう」
即答したのに、声が震えていた。
ジョンはその震えに気づいたが、追及はしなかった。
代わりに、そっと一歩だけ近づいた。
「なあ、コトコ」
「……なに」
「前に、お前に拳を振るえなかったのは、本気で好きだったからだ。……それだけは、嘘じゃねぇ」
一瞬、息が止まる。
それは、あの日の戦いの“後始末”だった。
「けど今は、本当に、拳を出す必要はねぇ。
お前がまだ、“自分に赦されてない自分”を責めてるのが、目を見りゃ分かるからな」
「……私は、自分を責めてなんか——」
「じゃあ聞くがよ、コトコ。
お前、本当に“自分で自分を赦せて”んのか?」
コトコは言葉に詰まった。
赦された。
それは事実だ。エスの審判が、全てを「無罪」だと示した。
けれど。
自分より力のない囚人に、暴力をふるったこと。
正義の名のもとに、マヒルやフータを傷つけたこと。
そのことを、コトコ自身が一度でも許せたか?
「……分からない」
ようやく絞り出したその言葉は、彼女の中で初めての“弱さ”だった。
ジョンは、ふっと笑った。
それは、からかうような、でも、ミコトに似た優しい笑みだった。
「それでいいんだよ。今は、分からなくて」
「……本当に、あんたは乱暴で、不真面目で、めちゃくちゃで……嫌い。」
「ありがとな」
「でも……私は、あんたのそういうとこ、…全部否定できないのよ。あんたはヒトゴロシなのに。赦されざる者なのに。」
その瞬間、二人の間の空気が、ふっと変わった。
張りつめていた距離が、少しだけ、やわらいだ。
「コトコ」
「……なによ」
「2審が終わったらさ。……ちゃんとミコトで会いに来る。けど、その前に、“俺”が消える前に、もう一回くらい、“俺”で会ってくんねぇか?」
「……考えておく」
そう言って、彼女はわずかに視線を下げた。
でも、拒絶の色は、なかった。
それだけでも、ジョンは嬉しかった。
灰色の監獄に、ふたりきりの空白があった。
赦された者と、赦されなかった者。
その境界に立つふたりの、どこにも届かない、未熟な恋。けれど、それは確かに、名前のつかない何かとして、ここにあった。
▢▢▢▢▢
夜の独房は、いつにも増して静かだった。
ミコトは、部屋の壁に寄りかかるように座っていた。
その壁の向こう側の部屋にはコトコがいた。
壁越し。距離はあるのに、声は届く。
——心までは、届かないかもしれないけれど。
「……コトちゃん」
「なに?」
「また、審判が下るね。今度は……二審?だっけ」
何度も何度も審判して何になるのか。と言いたくなるが、壁越しの彼女は判決に対して妙にこだわりがあるので、声には出さない。というかコトちゃんには地雷がそれはもうお花畑のように沢山ある。それをひとつひとつ避けて通ることが出来るのは、ミコトだけと言っても過言ではない。
「…ええ。ミコトも、私も。」
「なんだか不思議だよね。赦されなかった僕も、赦されたコトちゃんも、またゼロに戻される。3回も答えをやり直せるなんて、都合が良すぎる気がするなぁ……」
「確かにね」
「コトちゃんは……怖い?」
「……いいえ、怖くないわ。私はエスと、協力関係にあるのだから。正しいのだから。」
ミコトは、少しだけ苦笑した。
コトコの謎の自信はどこから湧いてくるのか。だけどその自身の裏には、少しの不安が混ざっていることをミコトは知っている。
「さすがコトちゃん。強いなあ」
「強い、……ね。
…ただ、自分のままでいたいだけ。」
自分のままでいるのが1番コトちゃんらしい、とミコトは思う。だが、そんな事は社会が、ミルグラムが、赦しちゃくれない。
…だから、僕だけが赦してあげる。受け入れてあげる。
早く堕ちておいで。
君がちゃんと堕ちてこれるように、今日も弱々しい僕を演じてあげる。
「……コトちゃんが一審で赦されたの、僕はすごくホッとしたんだ。好きな人が認められてよかった、って。……でも、僕自身は赦されてなくて……なんだか、全部がごちゃごちゃに思えて」
“弱者”のミコトに、コトコの心は揺れる。拒否はするも、見捨てきれない性格な為、相手が離れるのを待つ他無い。だが、ミコトも彼女に対しては諦めが悪いため、アドバンテージを持っているのはミコトの方だ。
ミコトはコトコの隙を見逃さずに、すかさず彼女の心に入り込む。
「赦すとか赦さないとか、なんなんだろうね。人なんて殺してないのに、審判されてもこまっちゃうなぁ……」
ミコトは黙ったまま、壁へ顔を向ける。向こうでどんな顔をしているのだろうか。どんな顔をして言おうと、可愛いのに変わりは無い。今すぐ顔が見たいが、見ようとすると追い払われる。そんなツンツンした彼女も好き。
「……もしさ、コトちゃんがまた赦されたら、僕のこと…どう思う?」
答えはひとつに決まっている。だけれど、何度も聞きたい。何度も聞いて、何度もコトちゃんの心を迷わせたい。
「それは……前にも言ったはずよ。私が“赦された側”で、あなたが“赦されなかった側”なら、線を引く。そして裁く。それが、私とエスの正義だから」
「うん。覚えてる」
「でも——」
コトコの声がわずかに震えた。
「私が……今度、赦されなかったら。きっと私は、あなたに……」
そこで言葉が途切れる。
あぁ、あと少し。
あと少しでコトちゃんが手に入る。僕だけの物になる。
ミコトの口は弧を描く。壁越しで本当に良かったと思う。でないと、幸福に満ちた満面の笑みを見られるところだった。あと少し。あと少しの辛抱。
コトコが赦されなければ、全てが手に入る。それだけでミコトは有頂天に達していた。体の熱が収まらない。顔を戻そうとしても、上がった広角は戻らない。嬉しい、嬉しい。
壁を爪で引っ掻いて、無理やり頭を正常に戻す。
いつまでもこのまま黙っていてはいけない。彼女に感ずかれるかもしれないから。何も分からないような素振りと声色で、聞き返す。
「コトちゃん?」
「いや、なんでもない。」
なんでもないはずがない。コトコの心は着々とミコトに向かってきているのだから。脳がそれを理解するのを拒み、それに気づかないようにしている。でも防ぎようの無い違和感は抱いているのだろう。どうにか制御している様だ。
「そっか。僕は、いつでも、コトちゃんの味方だよ」
ミコトの手が、コンクリートの壁を優しく撫でた。まるでそこに彼女がいるように。あるのは冷たい感触だけだが、きっと彼女もそこに寄りかかっているのだろうと思って。
─おいで、おいで、こっちにおいで。
そう囁くように、甘く甘く撫でる。
「僕、コトちゃんが赦されなかった時は、多分、責めれないなぁ」
うん。責めれないや。絶対に。
ミコトは、全世界がコトコを否定しようと、彼女の味方でいると心に誓っているのだから。
「コトちゃんを責めて、おあいこに出来ないなんて、男としては情けないよねぇ…。でも、無理だなぁ…。」
…おあいこにするつもりなんてない。そもそもコトちゃんから何も責められてないしね。
ふたりの間に、しばし静けさが落ちる。
——その静けさは、恐らく“不安”とも“愛”ともつかない、不確かな感情だった。
もうすぐ、また審判が下る。
ミコトとコトコは赦されるのか、それとも赦されないのか。
だが、そのときまで——この会話は、小さな灯だった。
▢▢▢▢▢
監獄の空気が、乾いていた。
まるで誰かの“赦し”が、誰かの“犠牲”を代償に成り立っていると、明確に告げているような空気だった。
こんな時間は好きじゃない。嫌いでもない。
——榧野ミコトは、赦された。
——杠コトコは、赦されなかった。
審判を知った時、ミコトは声を失った。
周りは皆、ミコトが落ち込んでいると勘違いをし、心配してくれたり、励ましたりしてくれた。
だが、それは違う。
物事が自分の思い通りになり過ぎて、驚愕と共にこの監獄を心配したからだ。嬉しさよりも、困惑が勝った。こんな僕の計画通りに進んでいいものなのか。嬉しいが、この監獄は自分の心を見透かしているんじゃないかと、意味のわからない不安を感じた。
「……コトちゃん」
薄暗い独房の奥。
そこにいたのは、手足を拘束され、ベッドの縁に身を横たえたままのコトコだった。
髪はさほど乱れておらず、無機質な部屋にただ一つあるベットも、いつも通りきちんとしていた。
けれど、彼女の瞳は、初めて見るほどに静かだった。
美しい赤色が、ミコトの水色の瞳を撃ち抜く。
拘束され、動くこともままならず、自分で何も出来ない。綺麗で、可愛くて、惨めで……色んな感情が高ぶった。
「……赦されたのね、あなたは」
「…うん。でも、それが嬉しいかどうかって言われると……よく、分からないよ。」
適当な相打ちを言い、ミコトはゆっくりとコトコに近づき、ベットの前で膝をつく。
またしても目が合う。以前は全然目を合してくれなかったので、とても新鮮で少し楽しい。そんな喜楽な感情を押し込み、眉毛を下げいかにも弱々しい雰囲気にする。
「コトちゃんが赦されなかったって聞いたとき、僕……胸がぎゅってなった。…なんでだろうね。それに……なんで、こんなふうに、審判が逆になっちゃうんだろうね…」
コトコは返事をしない。その言葉は、事実を述べただけのように冷ややかだった。けれど、その裏には、どこか自嘲のような翳りが潜んでいた。
いつも僕は、嘘は決してついていない。遠回りに言っているだけ。審判が逆になるのも辛い。僕だって2人で痛みを分け合いたいのに。
「マッピーやフータは怪我をしたから赦されたのかもしれない。……でも、僕は無傷だったよ。コトちゃんの牙は、届かなかった。
なのに、赦された。嬉しいはずなのに、何も感じないなぁ……逆に、どうしようって、不安になってる。」
ミコトの声は、かすかに震えていた。それが余計に、コトコの心の揺らぎに作用する。全ては計画犯だが。かつて“罪人”とされた彼の手が、そっとコトコの指先に触れる。
コトコは、拒まなかった。
けれど、視線だけは逸らしたまま、彼を見なかった。
まだ、堕ちない。あと少し。
「あなたの不安には寄り添えない。……見て…あなたが、弱者だと気づきたくないから。」
「見なくていいよ。大丈夫。ずっと恨んでていいよ。」
そう、見なくていい。
ずっと恨んでいてもいい。
だから、こっちへおいで。
「……ずるい」
「ミコト」
しばらくの沈黙の後、ようやくコトコが、彼の名前を呼んだ。
そしてゆっくりと、視線を合わせる。
「一審後のとき、私が“上”で、あなたが“下”だった。私はその立場に依存していた。自分の正しさを、あなたを見下ろすことで保っていた」
そうだ。コトコはミコトを見下す事で心を保っていた時もあった。別に気にしてないし、そのままで良かった。だが、彼女本人は気になるようで、悔しそうな顔をしている。
「だけど、今……あなたの方が“赦された側”で、私は“赦されなかった側”になった。逆の立場になって、ようやく分かったわ」
「何が?」
ああ、やっと。やっとだ。やっと来てくれた。
コトちゃんが、可愛いお口をゆっくりと開く。
「私は……あなたに、赦されたかった。
私が守るべき弱者の、あなたに」
ミコトは、息を呑んだ。
こんなに上手く行きすぎていいものなのか。コトちゃんが、自ら自分の手の内側に入ってきてくれた。嬉しい。歓喜が抑えられない。
はっ、はっ、と息が上がる。それを上手くバレないようにし、コトコの瞳を見つめ返す。
「コトちゃん……」
「審判なんてどうでもよかったの。私が本当に望んでいたのは、“弱者”が、私を見捨てないこと」
ああ、こっちに来てくれた。嬉しくて堪らない。興奮が収まらない。長かったけど、短かったような。堕とすために、何度も何度も甘やかした。いつでも自分の所へ来れるように。決して、彼女を見捨てたりなんかはしなかった。
「見捨てるわけないよ。僕は——僕も、コトちゃんが、ずっと……」
言葉が途切れる。
けれど、それ以上は言わなくてよかった。
沈黙の中で、ふたりはただ見つめ合っていた。
ベルトの拘束具に似た、動きづらい服。
罪人の印。
赦しと罰。
そのすべてを越えて、ふたりの間に確かに残っていたものがある。
——それは、恋にも似た、痛み。
「……また、私たち、同じ立場じゃないわね、真逆よ」
「でも、それでも、僕は変わらないよ。何か欠けてしまったみたいで……苦しいし、不安だし、寂しいけど。だけど、コトちゃんのことは好きなままだよ。」
決して、見区切ったりなんかしないよ、安心して。と彼が付け足す。安心するも何も、コトコは彼を信じているのでなんの問題もない。
「そう」
コトコの口元が、かすかに緩む。
それは、ほんの少しの、かすれた微笑だった。
静かな、白い部屋だった。
▢▢▢▢▢
ミコトの足音が、規則的に床を打つ。
手に持っているのは、簡素なトレイと、その上のカップ。あたたかい紅茶の香りが、ほのかに漂っていた。
部屋の中央にあるベッドには、コトコが拘束されたまま横たわっていた。
足には金属の拘束具が嵌められ、両腕はベルトで固定されている。逃げようとすればできないわけではない——けれど、それは意味のない仮定だった。
彼女は、もう“逃げる”気力など、とっくに失っていた。
「はい、コトちゃん。今日の紅茶はカモミールだよ」
「……どうせ、あなたが配給で選んだんでしょう。…鬱陶しい子守歌みたいな香りね」
「うん、コトちゃんが少しでも落ち着くかなって思って」
ミコトはベッドの下にトレーを置き、ゆっくりとコトコの手前に近づいた。そして彼女の口元へ、あらかじめカップにさしておいたストローを近づける。
「少しずつ、ゆっくり飲もうね。まだ少し熱いから。」
「…お節介」
「うん、分かってる。でも…火傷なんかしちゃったら大変でしょ?それに、僕が、そばにいてこうしないと、危ないでしょ?」
「……本当に、イカれてるわね」
コトコの瞳が、静かに彼を見つめる。
その視線には、責めるでも、問いただすでもなく、ただ“自分では何も出来ないけれど、これ以上そばにいて欲しくない”、“でもひとりで置いていかれるのは寂しい”という複雑な気持ちが宿っていた。
ミコトはそれに気づきながらも、知らないフリをし続ける。そうした方がいいと、これまでの出来事で知ったから。
「そっかぁ…ちょっと悲しいなぁ……。でも、コトちゃんが言うなら、そうかもね。」
「分かったなら、夕ご飯の時まで出ていってて」
コトコは嫌そうに眉間に皺を寄せる。そんな所も可愛いな、と感じながら、
「……でも、僕は、ここにいたいなぁ…。コトちゃんの隣に」
といい、ミコトは口輪のような拘束具のついた、可愛い顔をそっと包み込むように撫でた。ほんの少し冷たいその肌を、指先で確かめるように触れながら。
「……コトちゃんは嫌かもしれないけど…、こうやってそばに居ると、罪とか赦しとか、どうでもよくなる。……コトちゃんがいて、僕がそばにいられる。それだけで、気は楽になるんだよ。」
「あなた、はね」
「そう、だね…僕は、そうだ……」
一瞬、沈黙が流れる。
そうだ。これは僕のためであり、自己欲求による行動に過ぎない。彼女がそれで良いのか良くないのかなんて二の次になっている。だけれど、ミコトは彼女の傍にいたかった。彼女の存在をずっと感じていたかった。やっとこっちに来てくれたのだから。
…コトコはそっと目を伏せた。
そのまま、ぽつりとつぶやく。
「動けないって、結構……心に来るのよ」
「……うん」
だろうね。体は当然の如く動かない。世話人が居ないと生きていけない。そんなの、屈辱の他ないだろう。でも、そんな彼女も、ミコトは大好きだった。
コトコの気持ちとは裏腹に、自分だけが付きっきりでお世話するのも悪くない、逆に独り占めできて嬉しいと感じている。
「ずっと、人の手を引いて歩いてきた。みんなを導いて、助ける側だと思ってた。
でも今は、誰かに何もかもしてもらって、食べさせられて、髪も洗ってもらって……」
「僕がしてるよ、全部」
そう。ミコトが全てしている。ご飯をスプーンにすくい、口に運ぶのも、飲み物を取ってくるのも。御手洗に行くのも、体を洗うのも、髪を乾かすのも。全部全部、彼がしている。この上ない優越感。
「ええ。あなたが、してくれてるわ」
「嫌?」
「……分からない」
ミコトは、紅茶を置いて、コトコの髪に指を差し入れた。朝洗ったばかりの髪は、艶やかで少しだけ甘い香りがした。彼女の分からない、や別に、は好評価の意味。ミコトがお世話するのも、悪くないらしい。
あ、そうだ、と前置きをして、ミコトはコトコと目を合わせる。
「……昨日ね、僕とそっくりな人が、夢に出てきたんだ」
「…。」
「それでさ。“死にたくなる程の無理はするな。それと、コトコをもっと大切にしろよ”って言われたよ。コトちゃんのこと、すごく、想ってたよ。」
ミコトの夢に出てきたのだ。ドッペルゲンガーが。
大切にしろよって…僕はこの世で誰よりもコトちゃんを大切にしてる自信があるのに、結構な喧嘩売りだなぁと感じる。ソイツは言いたいこと全部言うと、まるで何も無かったかのように消えちゃったから、なんにも言い返せなかったけど。
「……アイツ、私のこと殴ろうとしたくせに」
「そうなんだ、…僕、…夢遊病、じゃなかったんだね」
多分、アレが、コトちゃんの言ってたもう1人の、暴力的な人格なのかな?と思う。
ミコトはとりあえず、もう1人の自分にコトコとどういう関係なのか聞きたかったが、聞くまもなく消えていった。
なるほど、殴ろうとした。DV系か。僕もソイツを殴ってやればよかったな。と言葉を漏らすと、コトコの唇が、微かに笑ったように動いた。いや、笑っていた。
「アイツもあなたも……私に甘すぎるわ」
なんでアイツと僕が同じにされないと行けないのか。僕は何も悪くないし、世界一コトちゃんを愛しているのに。と、ミコトは腹を立たせる。でも、ここで怒ってもただの八つ当たりにかならないので、口調を戻して彼女に優しく言う。
「甘くていいよ。今は、甘いくらいじゃないと、壊れそうだから」
「あなたがね」
「コトちゃんもだよ」
迷いのないその声に、コトコは初めて、静かに目を閉じた。ミコトは額に優しくキスを落とす。コトちゃんが赦されて、拘束具が外れたら唇にしよう。
そしてしばらくのあいだ、ふたりの間には会話も音もなかった。ただ、心音だけが、時間の中でそっと打っていた。
やがて、コトコがぽつりと囁いた。
「……こんなにも弱くなるなんて、思ってなかった」
「弱くなっても、僕の大切なコトちゃんには変わりないよ」
「…違う。私は強いわよ。今すぐにだって、あなたに噛み付ける。」
コトコの中で矛盾する心。自分は強くてはならない。けれど今の自分は弱い。そんな自分が嫌い。いいや、嫌いじゃない。だからと言って、好きでもない。ぐちゃぐちゃだ。
ミコトは、それを全て愛し尽くしたい。
「うん。そっか。」
ミコトは、彼女を受け入れる。そっと横になっている彼女の肩に頬を寄せた。
拘束された身体が、かすかに震えながらも、その体温を受け入れるように静まっていく。
白い部屋の中で、ふたりは静かに呼吸を重ねていた。
それは、罪の償いでも、赦しの証明でもなかった。
──消えてしまわないように。
ただ、ひとつの“存在の確かさ”だった。
▢▢▢▢▢
「……飲める?コトちゃん」
いつものように、コトコにミコトが差し出すコップ。中には水と、赤いストローが揺れている。
拘束されてから、どれぐらい経ったのか、どれくらいミコトに世話をされているのか、コトコは知らない。部屋にも出れていない。ミコト以外の囚人と話してもいない。
コトコは、動けない。視線だけで、ミコトを見る。
ミコトはそれに気づいて、ゆっくりとストローを彼女の唇へと当てた。
「……ちゃんと飲まないと、
体、…弱っちゃうよ?」
無理やりではない。でも逃れられない。
彼の「やさしさ」はどこまでも優しく、そして圧倒的だった。
「……ありがと」
小さい声で感謝を伝える。
それでも、心の奥には苛立ちと混乱が渦巻いていた。
(どうして、私は、赦されなかったの?)
赦さないと判決が下ったと知った時や、拘束がついて間もなかった時は、自分でも珍しく焦っていたので、審判について深く考えようとはしなかった。
だが、時間が経ってから、この生活に慣れてきたのもあってか、自分がなぜ赦されなかったかと考えるようになった。
ミコトが赦されたのは何となくわかる。
ヒトゴロシをした記憶が無い上、一審で赦されなかった効果もあり、追い詰められていたミコトを、エスはさらに責めることは出来なかったのだろう。
それか、別人格との取引が行われたのかもしれない。コトコには関係ないことだけれど。
どんなに否定されたとしても、彼は笑顔でい続ける。周りの囚人に避けられたとしても、愛想笑いをして自分の部屋に籠り、緊張感が薄れて来た頃に、またリベンジしに行く。
まるで日本人の鑑だ。無理な事もYESといい、人当たりもよく、愛想笑いだったとしても、笑顔を絶やさない。
そんなミコトでさえ、今では周りに対する笑顔が薄れ、不安な雰囲気を纏っているのだけれど。
そして──
今のコトコに向ける笑顔の奥には、得体の知れない何かが潜んでいることを、彼女は知っていた。
いや、今だけじゃなかったのかもしれない。
ずーーーっと前から、ミコトの笑顔や悲しんだ顔の中に、黒いドロドロした物があったのかもしれない。それを、自分の脳が本能的に理解するのを拒んでいただけなのか。
何がともあれ、ミコトの笑顔は、ただの「優しさ」では無いと感じてきている。だが、それに気づいたとしても、本人に聞くのは気が引ける。何か知りたくないものが知れそうだから。
コトコは、ただ疑問に思う他なかった。
──次の日。
「コトちゃん、今日はね、キノコのスープ?だよ。栄養あるし、優しい味で美味しいよ。多分ね!」
ミコトは、他の囚人には見せないであろう笑顔を浮かべながら、スプーンでスープをすくう。
拘束されたままのコトコの口へ、それを丁寧に運ぶ。
─たった1口。
たった1口だったとしても、口に運ぶには数十秒かかる。口輪の間にスプーンをうまく通し、しかもそれを零れないようにするのだ。結構な精神集中が求められる。なのに、ミコトはそれを平然と、一日三食こなしてみせる。コトコは「やらなきゃいいのに、」と馬鹿にする気持ちもある反面、「申し訳ない」という気持ちもある。
「……ほんとに、やるつもりなの? こんな大変な事」
「うん。僕がやらなきゃ、誰がコトちゃんの世話するの? 他の皆に触らせたくないし」
確かにそうだ。コトコは元々人と関わらないタイプだったが、2審の前に粛清行為を行った事で、いよいよ近ずく人さえいなくなったのだ。誰も世話をしてくれない。
ミコトを除いて。
「……支配欲」
ミコトは二審で赦されてから、コトコに対する支配欲が強くなった。欠けた心に、ピッタリはまるのが彼女だったのだ。きっと、逃がしたくないのだろう。
それに、コトコが気がついたのは、ほんのつい最近だが。
「でも、コトちゃんも好きでしょ、僕のそういうとこ」
「……好きじゃない。…でも、嫌いでもない」
その言葉に、ミコトの笑みが少しだけ緩んだ。
あたたかい。けれど、どこか恐ろしい。
「赦されなかった人間が、赦された人間に世話されるって……屈辱、よ。わかってる?」
「うん……でも。僕、コトちゃんが死んじゃったらもっとイヤだから…、せめて快適にしてあげたいなって思っててお世話してるだけ」
「……本当にそれだけ?」
ミコトはスプーンを止めた。少しの間をおいて、囁くように答える。
「……僕ね、コトちゃんのそばにいられるなら、何でもいいんだ。
たとえ、コトちゃんが檻の中でも、心だけでも、僕のものなら」
ぞくり、とした。
それは“優しさ”の皮をかぶった、コトコに対する強烈な独占欲だった。けれど、その執着が——奇妙な安心感をもたらすのも、また事実だった。
─ねぇ、僕、今まで我慢したよ。
これからは、いいよね。
甘く甘く囁かれるその言葉は、脳内を溶かし、恐怖心と共に承認欲求も満たした。
その夜、ミコトはコトコの髪を梳いていた。
細く、柔らかく、それでいて芯の通った彼女の髪。艶が出ていて、これまで美容意識を下げた事は無いんだろうと感じさせるぐらいの綺麗な髪。
「……すっごい昔、小さい頃、妹の髪もこうして梳いてたんだ。なつかしいなぁ」
「私を妹扱いしないで」
妹扱いしないで、なんて。どれだけ僕を煽れば、コトちゃんは気が済むのだろう。
そうミコトは思いながら、上機嫌で会話をする。
「…違うよ。妹より大事だもん…。コトちゃんは」
「……それも、軽くて気持ち悪い」
「じゃあ……、もっと重く言おうか?」
ミコトの声が低くなる。
囁くように、耳元で。
彼は、コトコが拘束されてからというもの、独占欲を隠さなくなった。今までなら、言ったら回し蹴りを食らうであろう事も、平然と言ってみせる。
「僕はね、コトちゃんの罪も、罰も…全部受け入れたいよ。赦されたことに、ほんとは意味なんてないんだよ。
……逆に、赦されたことで、なにか消えてしまった感じもするんだ。1人で抱えきれない部分もある。
だから……今の僕の中じゃ、コトちゃんがすべてなんだ。」
「……本気で気持ち悪い」
コトコは吐き捨てるように言った。
でも、唇の端がわずかに震えていた。本当に恐怖心を抱いているのだろう。
─ああ、可愛い可愛い僕のコトちゃん。やっと手に入れた、僕だけのコトちゃん。
ミコトの手が、彼女の腕の、足の拘束具に触れる。
「ねぇ……これとこれを外して逃がしたら、どうする?」
「さぁね。…興味無い。外れないし。」
もうコトコには、拘束された、ミコトに監禁された期間が、長すぎて、逃げるという気は失せた。いや、そもそも無かったかも知れない。今となってはどうでもいい事になっている。
可哀想で、とっても可愛くて愛おしいコトちゃん。
「……そっか。もし…逃げても、また探しに行くからね。…なんせ、ここは狭いんだから。」
ミコトの瞳は、暗く濁んでいる。だが、少しの穏やかな光をたたえたまま、何も恐れていない。彼は、コトコを逃がす気はない。1度掴んだ獲物は、決して逃がしはしない。彼女だけが、心の拠り所なのだから。
──欠けている場所があるなら、埋めてしまえばいい。
ただ、それだけ。
数日後。
いつものように世話を焼くミコトの手を、コトコが視線で止める。
「……ストロー、角度変えるね」
彼女の口元にストローが来ると、コトコはわずかにうなずき、口をつけた。
ん、ん、と懸命に飲む姿を、ミコトは優しい顔で見守る。そんな心の奥には、黒く澱んだ気持ちがある。
ゆっくりと飲み干したあと、彼を見上げて言う。
「……アンタのこと、好きよ。……でも、ハルカみたいに、エスに私を赦してなんて、絶対言わないで」
「うん、言わないよ。コトちゃんの望みなら。」
彼は微笑んだ。
その優しさは、狂気と紙一重の温度をしていた。
やっと堕ちてきてくれた。嬉しい。
─君が僕に堕ちるまで、長かったなぁ
そうしみじみ感じながら、ミコトはコップを元の位置に片付ける。2人きりの生活は続いていく。
檻の中、拘束の下。
それでも、確かにあった。
欠けた者と、それを埋める者。
受け入れられたい者と、優しさで受け入れる者。
──ひとつの恋のかたち。
──されど複雑な恋のかたち。
赦しの外に咲いた愛は、決して清らかではない。
でも、誰よりも優しかった。