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楡野奈々は、今日も雨の音で目を覚ました。
ただ、それは本当の雨ではなかった。
寝ている間にどこかで聞いたような、遠い記憶の中に染みついているような雨音。
それが脳の奥を濡らして、彼女を毎朝、同じ場所へと引き戻す。
——あの日の、あの音だ。
目を閉じていても、白く煙った視界の向こうから聞こえてくる。
車のクラクション。妹の悲鳴。ガラスの割れる音。父の叫び。
そして、自分の体が宙を舞い、重力が突然なくなる瞬間。
世界がぐしゃぐしゃに潰れた、その最後の一瞬の記憶。
「奈々、朝ごはんできたぞ」
階下から声がする。父、楡野祐介の声だ。
温かく、けれどどこか無理をしているような張り詰めた声。
奈々はゆっくりと布団から起き上がり、少しだけ開いたカーテンの隙間から外を見た。
灰色の空。濡れた路面。近所の柿の木が、風に煽られて小刻みに揺れていた。
1階のキッチンに降りると、父がキッチンカウンターに座って新聞を読んでいた。
足には金属の装具が嵌められ、杖が傍らに立てかけてある。
足を引きずる姿にはもう慣れた。事故の後、祐介は心理療法室の診療日を週3に減らして、家のことをほとんど一人で担っていた。
「おはよう」
奈々が挨拶をすると、祐介は目を細めて微笑んだ。
「おはよう、奈々。今日は学校、無理しなくていいよ」
「ううん、行く。今日は美術があるから」
嘘だった。今日は、美術なんてない。
けれど、家にずっといると、呼吸が浅くなるのだ。
彼女の視線が一瞬だけ、食卓の隅に置かれた写真立てに向いた。
母・真奈の写真。事故以来、目を開けることもなく、どこかの時間に取り残されたままの人。
そして、その写真の横に、妹の羽奈の座る席がある。
羽奈は、ゆっくりと朝食のパンにジャムを塗っていた。
右半分の顔に大きく焼け跡が残る。皮膚が突っ張り、片方の瞼は閉じたままだ。
事故のことは、妹のほうがずっと覚えていない。
覚えていないのか、語ろうとしないのか——奈々にはわからなかった。
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学校までの道のりは、いつもより湿っていた。
薄曇りの空の下、街全体が静かに沈んでいるようだった。
奈々が信号待ちをしていると、後ろから自転車のブレーキ音がした。
振り向くと、見慣れない少年がそこにいた。
「楡野さん、だよね?」
少年は人懐っこい笑みを浮かべていた。黒髪で、瞳が妙に赤っぽい。
けれど、それよりも先に、奈々はその目の奥にある、何か切実な「探しているもの」を感じ取った。
「……誰?」
「赤井亮太。中学は隣だったけど、君と同じ高校。転校してきたばっかりで、覚えてないかも」
「うん……ごめん」
「いや、いいんだ。あのさ、話したいことがあって」
奈々は一瞬、立ち止まった。
声には焦りも、裏もなかった。ただ、真っ直ぐだった。
「うちの母さん、今、病院に入院してるんだ。急に体中の皮膚が剥がれ始めて、原因がわからないって。誰もわからない。医者も、研究者も」
奈々は息を呑んだ。
それは、最近テレビのニュースでも小さく報道されていた奇病の特徴と一致していた。
「でさ、母さんが言ったんだよ。最後に、”灰の女に会った”って」
「灰の……女?」
亮太はゆっくりと頷いた。
「君の家の近くに、灰の女がいるって——言ってた。だから、来たんだ」
言葉の意味は、すぐには理解できなかった。
けれど奈々の中に、微かな記憶の糸が、震えるように揺れた。
それは事故の前、彼女が見た夢の中で、何度も現れた「誰か」の姿と重なっていた。
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その夜。
祐介は家の前で電話をしていた。
病院から連絡が入ったという。母・真奈が、5年ぶりに反応を示したと。
翌日の夕方。
玄関のドアが開き、祐介が車椅子に乗せた母を連れて帰ってきた。
「奈々、羽奈。……お母さんが帰ってきたよ」
その瞬間、奈々の体の奥で、冷たい何かがはじけた。
母は、確かに目を開けていた。口も、笑っていた。
けれどその目は、奈々を見ていなかった。
そして何よりも、あの人は笑っていたのに——
まったく、母の匂いがしなかった。