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母・真奈が帰ってきた夜、家の空気は異様に静かだった。
それは、「喜び」や「安堵」に包まれた静けさではない。
むしろ、どこかの部屋で誰かが音を立てないよう、息を殺して何かを隠しているような……そんな沈黙だった。
「おかえりなさい、お母さん」
妹の羽奈は、声を震わせながら母の手を取った。
その指先が震えていたのを、奈々は見逃さなかった。
母の目は開いていた。微笑んでもいた。
けれど、どこかずれていた。笑っている口元と、冷たく乾いた目の奥。
それは、どこか”演技”に見えた。
「……おかえりなさい」
奈々もそう言った。でも、言葉は宙を滑り、母には届かなかった気がした。
まるで「それ」は、”楡野真奈”という名の皮を被った、まったく別の存在のようだった。
祐介は何度も「奇跡だよ……」と呟いていた。
医師も驚くほどの劇的な回復だったという。
しかし奈々の耳には、母の声がまるで別人のものに聞こえた。
柔らかくて、優しくて、けれど、どこか芯がない。空洞の中から響いてくるような声。
「奈々……学校は、楽しい?」
問いかけはごく自然だった。
しかし、奈々は一瞬、心臓が冷たくなるのを感じた。
——その言い回し。
——その言葉の、”抑揚”が、母じゃない。
「あ、うん。まあまあ……」
奈々は目をそらした。
手のひらに、じっとりと汗が滲んでいるのを感じた。
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夜遅く。
奈々は目を覚ました。
妙な音がしていた。ずるっ、ずるっ、と何かを引きずるような音。
布団から起き出し、足音を殺して廊下に出る。
すると、階段の下のほうにぼんやりと光が見えた。
リビングの電気がついている。
誰かが起きているのだ。
静かに階段を下りて、ドアの隙間から中を覗いた。
そこには母がいた。車椅子を自ら動かして、何かを探すように部屋の中を回っていた。
しかし、その動きは異様だった。
肘から先を不自然にねじりながら、ギシ、ギシと音を立てて車椅子を動かしている。
まるで、機械仕掛けの人形のように——。
奈々は息を止めた。
そのとき、母がふと立ち止まり、冷蔵庫のほうを向いた。
「……あそこ、違う……あれじゃない……」
母は誰に話しかけるでもなく、ぶつぶつと呟いている。
「もっと奥……あの匂い……あの時の、灰の……」
奈々はゾッとした。
“灰の”——その言葉に心が跳ねた。亮太の母も、同じ言葉を残したという。
母の声は、次第にうわ言のように小さくなり、やがてぴたりと止まった。
そして、まるでセンサーに反応するように、母がゆっくりと奈々のほうを向いた。
目が合った。
黒目がほとんどなく、白目が大きく広がっていた。
「……見てたの?」
その声は、確かに母の声だった。
けれどそこには、人間の”感情”がまったくなかった。
奈々は一気に階段を駆け上がり、自室のドアを閉め、鍵をかけた。
心臓が壊れそうなほど鼓動を打っている。
呼吸がうまくできない。吐きそうだった。
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翌朝。
リビングに降りると、何事もなかったかのように朝食が並んでいた。
母は、優しい微笑を浮かべ、羽奈にパンを渡している。
「ほら、今日はチョコクリームもあるわよ」
あの夜のことを、誰も口にしなかった。
父も、妹も、そして母も。
まるで、あの夜はなかったことになっている。
いや、違う。
覚えているけれど、”わざと”触れていない。
そう直感した瞬間、奈々の携帯に着信が入った。
《赤井亮太》の名前が画面に浮かぶ。
「……もしもし?」
『楡野さん、ちょっと……今日、どうしても話したいことがある。放課後、駅裏の旧倉庫まで来てくれない?』
「どうしたの?」
『……あの”灰の女”、きっともう君たちの家の中にいる。』