一人の奇妙な格好の男が、山の頂に蜷局を巻く黒々とした雲を見つめている。夜を纏ったようなという形容では足りない。ただの暗黒ではなく、古き智慧を思わせる星々の煌めきや内奥に神秘を封じた星雲の靄まで再現された豪奢な長衣を身に纏っており、目深にかぶった鍔広の帽子で顔もまた暗黒の陰に隠れている。もしも男の顔を覗き込む者がいれば、その金属質の頬に雲の形の札が貼られていることが分かる。
男は山の麓に広がる新しくも賑わい盛んな市の大通りの端に佇んでいた。時折好奇の視線を向けてくる行き交う人々、古式ゆかしい浮彫の施された木造の街並み、人間の視界の外で不安そうに空を見上げる卑小な魔性には目もくれず、記念碑の如く微動だにせず立ち尽くしている。
「ねえ、おじさん」と声をかけた少年は貧相な身なりで、困窮を身に纏ったような出で立ちだ。幼気な、それでいて面目なさそうな笑みを浮かべている。「お腹が空いて仕方がないんだ。少しばかり恵んでくれない?」
男は星々の衣をまさぐり、「何かあったかな」と呟く。
そしてそれぞれ別の土地で鋳造された銀貨を五枚取り出すと差し出し、少年の小さな掌に無造作に落とした。
少年は目を丸くしてしばらく銀貨を見つめ、慌てて自身の懐に仕舞い込む。すると芋虫の死骸を見つけた蟻のようにわらわらと子供たちが男の元へ集まってきた。男はさらに何かないかと衣をまさぐる。集まって来た子供たちもまた勝手に男の衣をまさぐり、見つけた物を片っ端から勝手に持っていく。黄金の布切れ、虹色の鱗、玉虫色の牙。男はこれに気づかず、盗人の子供たちは咎められる前に忍び足で去って行き、それに気づいた大人も何人かいたが間抜けな余所者に忠告の一つすら与える者はおらず、やはり密やかな嘲笑を伴って歩き去って行く。
長らく男は立ち続け、夕暮れの薔薇色の裾が現れてもその場を動かなかった。富める者に嘲られ、貧しい者に罵られ、時折野良猫に餌をあげて服を引っ掻かれ、蜜の流れるように時間が過ぎていった。残照を絞り出して日が沈み、代わるように男の衣に似た夜が東の空から大股でやってきて、空の半分を覆い尽くす。
「射る者! あんたこんな所で何をしているの!?」
男の背中に怒鳴りかけたのは男の腰丈の背の少女だった。男に負けず劣らず奇妙な夜の布を目隠しに使っているが、他はありふれた麻布の衣に毛皮の外衣という旅装だ。見上げる顔の目隠し越しでも少女の鋭い睨みはよく分かる。朱に色づく蕾の唇はしかし今は酷く捻じれている。
男は久々に身じろぎし、少女を見下ろす。
「帳と鞠。君がここで待っていろって言ったんだろ?」
「言ってないわ! 言ったかもしれないけど、それは適当にここら辺で時間を潰していてっていう意味に決まってるでしょ! 馬鹿!」
「だから適当にここら辺で時間を潰していたんだ。何かまずかったか?」とメラトークスは不思議そうに答える。
「もういいわ」とリス・オ・ルクは溜息をつく。「何もされてない?」
「されてないよ。子供に施して野良猫に餌をやったくらい、かな。ルクこそ一人で大丈夫だった?」
「ええ」ルクと呼ばれた少女はメラトークスに歩み寄るとメラトークスの衣をまさぐると、さらに深い溜息をつく。「私は一人で大丈夫だった。あんたは……施し過ぎよ」
ルクの探った場所をメラトークスも探り、ようやく気づいたようだった。
「一体誰が……?」
「運が悪かったわね。もういいから食事にしましょう? そこで食堂を見かけたの」
「それで首尾はどうだった? 山鬼鳥のこと何か分かったか? 色は? 形は? 弱点は?」とメラトークスが尋ねる。
「何も分からなかったわ」皿の上の煮込み過ぎて蕩けた豆を匙で圧し潰しながらルクは答える。「誰に尋ねても何も教えてくれなかった。絶対に知っているはずなのに。余所者だからって馬鹿にして」
リス・オ・ルクは食堂と飲み食いする人々を睥睨する。円い食卓が幾つか並び、それぞれに油燈の仄かな明かりが揺らめいていた。沢山の人々とその影が一日の内最も豪勢な食事と欠かすことのできない酒でお互いを労っている。行商人や他の土地の人間も混じっているが、二人の余所者――余所者の中でも特別に縁遠い常夜ヶ原からやって来た余所者――の周囲には誰も近寄らない。
「やっぱりオレもついていった方が良かったんじゃない?」
「余計に見くびられるだけよ」ルクは忌々し気に豆を呑み込み、恨みを込めて咀嚼する。「良いことをするだけならまだしも失敗ばかりのあんたなんて。あんたはあんたのやるべきことをすればいいのよ」
「もちろんそのつもりだ。その時は絶対失敗しないさ。山鬼鳥って言うくらいだ。あの山に住んでるんじゃないのか?」
「そんなことは分かってるわよ」ルクはじろりと旅の連れを睨みつける。「でも見た目が分からない。それじゃあ見つけられないでしょ」
「ああ、だから聞き込みか」とメラトークスは深く頷く。
「そんなことも分かってなかったの!?」
「ちょっといいかい? お二人さん」と声をかけたのは食堂の主人だった。膨れた腹を揺らして二人の余所者を見下ろしている。「そっちのあんた、何も注文しないなら出て行ってくれないか? 座席を提供している訳じゃあないからな」
「何よ。満席じゃないんだから別に――」
ルクの言葉を遮るように「ああ、すまない。大丈夫。とっておきがある」と言ってメラトークスは懐を探り、一枚の金貨を取り出す。「これで何か飲み物をくれ」
「ちょっと待ちなさい!」とルクが言い終える頃には食堂の主人はにこやかに奥へと引っ込んでいた。矛先はメラトークスへと向かう。「ねえ! いつになったら物の価値ってものを覚えられるの!?」
「あれはオレの小遣いだってルクがくれたやつだよ」
「そんなことは分かってる! どれだけ大量の葡萄酒を呑む気よ!」
「別に飲めなくはないんだぜ? 何の意味もないだけで」
「そうじゃなくて……、もういいわ」といつものように諦める。
しかし運ばれてきたたった一杯の葡萄酒を見るとルクは顔を赤くする。
「ぼったくりじゃない!」と目隠しの少女は怒りを露わにする。
「だがあんたの連れが何でもいいって言ったんだぜ?」と食堂の主人は悪びれることなく言い放つ。
「言ってないわ! 何か飲み物をって言ったのよ! そうよね!? メラトークス!」
「どうだったかな? オレは別に何でも良いけど」
メラトークスは葡萄酒を一気に音もなく流し込む。
「だとよ。嬢ちゃん。良い飲みっぷりだな、兄ちゃん」
立ち去ろうとする主人をルクは呼び止める。
「じゃあせめて山鬼鳥のことを教えなさいよ!? 百回語り尽くしてもお釣りがくるでしょ!」
「ああ、そうだな。何か知らないか?」とメラトークスも尋ねる。
「山鬼鳥? 何でそんなもんのこと知りたいんだ?」と主人は不思議そうに問いかける。
「この子の目の治療に山鬼鳥の尾羽が必要なんだ」とメラトークス。
「あんたは黙ってなさい!」とリス・オ・ルク。
「ほお」と呟き、食堂の主人はにやりと笑みを浮かべる。「そりゃ大変だ。是非とも知りたいんだろうなあ。だがなあ。価値あるものは価値あるものとしか交換できないもんだよな」
そう言いながら食堂の主人は親指と人差し指を擦り合わせる。もっと催促しているのだとルクは察するが、メラトークスは察せない。
「もう持ち合わせがほとんど無いの」とルクはしおらしく答える。「さっきの金貨で勘弁してくれないかしら」
「とは言ってもなあ。相場ってものがある」食堂の主人は大袈裟に両腕を広げて、天井を指し示す。「燦々と輝く太陽、夜を照らす麗しき月、美しき都に星影に染まる丘陵。目に映る世界の価値など計り知れんだろう?」
別の客が遠くから口を挟む。
「さっきの金貨じゃあ葡萄酒一杯ってところだぜ」「山鬼鳥を知りたいなんて、それはそれは大それた話だな」「俺ならその金で宮殿を立てちまうな」
「そんな訳が……」
ルクは食堂の酔客たちのにやけた顔を睨みつける。皆して余所者を揶揄っているのだ。
リス・オ・ルクが目隠しに指をかけるとメラトークスが腕を掴んで制止する。
「もういいだろう、ルク。山にいる全種類の鳥を捕まえて尾羽を引っこ抜けばいい」
食堂は笑いに包み込まれる。「そりゃ大仕事だ」「よほどの腕自慢と見える」「獲り過ぎないでくれよな」
しかしメラトークスとリス・オ・ルクは別のことに気を取られる。夜の小さな窓から昼間のような明かりが差している。窓を覗き込もうと立ち上がったその時、陽気な食堂を引き裂くように、突如壁が破壊され、一本の巨大な鳥の足が飛び込んで来たかと思うと一人の酔客を掴んで連れ去った。笑いの消え失せた食堂で、長い悲鳴が静かな夜に引き延ばされる。一瞬間を置いて人々が店の奥へと逃げていく。
「今のじゃないか? 山鬼鳥」とメラトークスが食堂の主人に尋ねるが、食堂の主人は腰を抜かして倒れていた。
「まさか、本当にいるはずがない」食堂の主人は青い顔で呟く。
「迷信だと思ってたのね」ルクは感心したように呟く。「馬鹿にされたのはそういう訳か」
「尾羽だけ引っこ抜くって訳にはいかなそうだな」
メラトークスとリス・オ・ルクは食堂を出て、夜空を見上げる。辺りはまるで昼間のように輝いている。夜空を覆い尽す山鬼鳥のその顔が太陽の如く光り輝いていたからだ。時折、人と血が降ってくる。犠牲になっているのはさっきの一人だけではないらしい。
「言っておくけど一羽で十分よ」とルクは念を押す。
「そうも言っていられなそうだ」
メラトークスは何もない宙を掴み、鳥刺しが鳥黐に込める祈りを唱え、目に見えない矢を番え、鷹匠の験担ぎの呪文を紡ぎ、弓弦を引くように右手を引き絞る。すると陽炎のように空間が歪み、神弓イズヌエの影、異形の大弓の輪郭が現れた。呪文によって産み落とされた獰猛な矢は、メラトークスが一呼吸置き、繋留の呪文から解き放たれると共に空へと放たれた。猛り狂う魔術の矢は鏃をぎらつかせて曲線を描き、幾つかの屋根を飛び越え、今まさに人間に掴みかからんとしていた一羽の山鬼鳥の心臓を射抜いた。羽ばたく力を失った山鬼鳥は顔の光を失い、地に叩き落とされる。
しかし山鬼鳥たちは変わらず空を覆い、得物に狙いを定めて急降下する。が、メラトークスの放つ矢は街のどこにいても、死角にあっても正確に、山鬼鳥を射抜く。裏通りの最奥。屋根の下。地下水道。メラトークスの矢から逃れられる場所はない。それでもなお山鬼鳥は次々に、光明の顔貌を地上に向けて飛来する。
「駄目じゃない。恐れを知らないみたい」とルクはメラトークスの陰でぼやく。
「じゃあ全部脅そう」
再び魔法の矢を番えたメラトークスだが、不倒の大樹に捧げられた祈りの言葉で呪文を結ぶ。すると引き絞った空間が引き裂かれ、中から星を鏤めた暗黒が漏れ出した。放たれた暗い矢は真っすぐに天に上り、そして破裂し、無数の流星となって光条は枝分かれし、眩い夜天を覆い隠す山鬼鳥の群れの尽くの尾羽を引き千切る。
ようやく身の危険を察した山鬼鳥たちは山の向こうまで飛んで帰った。
「さあ、ようやく山鬼鳥の尾羽を手に入れられたぞ」とメラトークスは嬉しそうに尾羽を回収する。「きっとこれで治るはずだ」
そこへ街のあちこちから人々が集まってきた。誰が助けてくれたのかは皆分かっている様子だった。未だ消えない絶望と安堵の表情が入り混じっている。
人々はメラトークスとリス・オ・ルクの所へやって来て、口々に謝り、頭を下げる。助けてくれたことへの感謝以上に、至上の弓の使い手を嘲っていたことに対する恐怖の方が勝っているようだった。しかし二人の目的は尾羽だったので挨拶もそこそこに街を去ることにした。
二人は尾羽を眺めながら街を離れ行く。いつまでも視線を感じたが、目的を果たした二人が気にするものではなかった。
「馬鹿よね。早く教えてくれれば山鬼鳥が山から降りてくる前に狩ってあげられたのに」
「知ってたらそうしただろうさ。ただの不運だよ」
「お人よしね。そう、不運と言えば私たちも不運よ。少し調べたけど、この尾羽では治りそうにないわ。次は砂呑み蜥蜴の牙ね」
「まだ希望があるなら不運じゃないよ」
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