テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
開店時間前だったが営業中の札が掲げられ赤提灯には明かりが点いていた。嵐山龍馬が簾暖簾を挙げるとその音で「あら、権蔵さん。まだお店は開いていないわよ」由宇は鍋に落としていた視線をこちらに向けた。
「あ、のゆう」
由宇の顔色が一瞬変わった。然し乍ら水商売の女性らしく「いらっしゃいませ」と笑顔で迎えられた。そこにはこれまでにない距離を感じた。嵐山龍馬はどう声を掛けて良いものか戸惑った。
「どうぞ、お掛けになって下さいな」
「あ、はい」
桔梗の花を手渡そうと横目で見遣るとそこには白磁の一輪挿しが寂しげに置かれていた。この2週間、1度くらいは店に顔を出す事も出来た筈だ。自分が由宇に対して甘えていたのだと心から悔いた。
「桔梗の花、持って来ました」
「あらまぁ、ありがとうございます。生けますね」
白磁の花瓶は埃を被っていた。由宇はそれを布巾で拭い取ると青紫の桔梗をカウンターの端に飾った。
「いつもありがとうございます」
「あの、ゆ」
由宇さんと声を掛けるタイミングで数人の客が入店した。予約の客だったらしく嵐山龍馬は一番端の席に追いやられ、由宇と言葉を交わすタイミングもなくお猪口2杯の日本酒をちびちび呑み、蕗と油揚げの煮物を摘んだ。
心の声A(美味くないな)
心の声B(味がしませんね)
心の声C(自業自得)
心の声D(これガン無視だよな)
心の声一同(ーーーですよねぇ)
流石に居た堪れなくなった嵐山龍馬は「お勘定お願いします」と席を立った。
「1,550円になります」
「じゃ、これで」
「450円のお釣りになります、またいらして下さいね」
その微笑みが仕事上のものであると感じ胸が締め付けられた。いつかの夜は「お代はこれで」と由宇に唇を奪われたがそれも遠い昔か幻の様に思えた。嵐山龍馬は年甲斐も無く店の軒先に座って暖簾が下される時間を待った。
「なんだあれ」
「酔っ払い?嫌だぁもう」
「いい歳して恥ずかしくねぇの」
何組かのグループやカップルが嘲り笑い指をさして通り過ぎたがそんな事はどうでも良かった。ただ夜風はまだ冷たくコンクリートは尻を凍えさせた。
(何時だ)
腕時計を見たが金曜日の夜はまだこれからという時間をさしていた。そこで声を掛けられた。
「あれ、部長、入らないんすか」
「も、|源文《もとふみ》くん」
心の声A(ぎゃーー!でた!)
心の声B(これは腹を括るしかないですね)
心の声C(フルボッコ確定)
心の声D(ーーーーー)
心の声B(あれ、Dさん?Dさん?)
心の声C(あいつ逃げやがったな)
源文は|平生《へいぜい》とは異なるものを感じ取った。1週間程前から母親の様子がおかしく如何したのかと尋ねても歯切れが悪い。そして目の前には私服姿で締まりの無い面持ちの|母親の恋人《嵐山部長》が店先に座り込んでいる。
「如何したんすか」
店の中を覗けば空席が見えた。これはなにか有ったと考えた|源文《もとふみ》は嵐山龍馬の腕を引っ張り上げ力尽くで隣の路地に連れ込んだ。
「あんた、なんかしたんすよね」
「それが」
「母ーちゃんおかしかったんすよ。あんたが仕事に来ているのか如何か気にしてたし鍋焦がしたり茶碗割ったり、あんな母ーちゃん見た事無いっす」
「なんと言えば良いのか」
「なにしたんすか!」
源文は嵐山龍馬の襟首を掴むと思い切り壁に押し当てた。
「なにしたんだよ!あぁ!?」
「ちょっと、女性と」
「浮気したのかよ!」
「そ、そうとも言う」
「ざけんな!」
源文の振り上げた拳が嵐山龍馬の左頬を激しく殴り付けた。ヒキガエルが潰れた様な呻き声があがったところでもう一発拳が入った。
「ぐぅっ!」
源文は掴み上げていたTシャツの襟首を手放すと積み上げられたビールケースの山に倒れ込んだ嵐山龍馬の背中を右足裏で何度も踏み付けた。
「約束したっすよね!良い大人がなにやってんすか!」
「すまない」
「謝るんじゃねぇよ!」
「すまない!」
表通りではこれは何事と覗き込む姿がありその騒ぎを聞き付けた笹谷が由宇を連れ立ち路地へと入って来た。薄暗闇のビールケースの谷間に埋もれた嵐山龍馬と乱れたスーツ姿の源文の姿を見た由宇は「ヒッ」と短く悲鳴をあげた。
「もっ、源文、なにしてるの!」
「こいつが悪ぃんだろ!」
「なにが!」
嵐山龍馬は笹谷の肩に支えられ、路地を出ると表通りにへたり込んだ。その有り様は散々なもので後ろに撫で付けた髪は乱れTシャツの襟首は伸び背中には28cmの革靴の痕が付いていた。頬骨は赤く腫れ銀縁眼鏡は押し潰されてレンズにヒビが入っていた。
「あんた、なにやってんの!」
由宇は源文のスーツの襟を正しながらその顔を睨み付けた。
「母ーちゃん浮気されたんだろ!あいつそう言ってたぜ!」
「だからって、殴っちゃ駄目でしょう!」
由宇は思い切り源文の頬を平手打ちし、その身体はよろけて壁に突き当たった。
「母ーちゃん悔しく無いのかよ!」
「子どもが親の事に口出ししないの!」
「あぁそうかよ!悪かったな!」
「源文!」
源文は表通りの野次馬に悪態を吐きながら夜の雑踏へと姿を消した。由宇は「大丈夫ですか」と声を掛け、店の奥の六畳間に座布団を敷いた。
「これ、使って下さい」
「すみません」
嵐山龍馬の手には布巾に包まれた保冷剤が手渡され店内は賑やかになった。
「あの子、女将さんの息子さん?」
「そうなのよ、幾つになっても落ち着かなくて」
「血気盛んだねぇ」
「仕事もあれくらい頑張ってくれれば良いんですけど」
「ところであの人は?」
「《《お客さま》》、息子の知り合いの方みたいです」
心の声A(あーあ、やっちまったな)
心の声B(源文に一票、殴られて当然!)
心の声C(お客さまだってさ)
心の声D(もう駄目ぽいがな)
心の声B(あっ、Dさん!何処行ってたんですか!)
和室の天井を眺める嵐山龍馬の目頭は熱く電灯が滲んで見えた。
心の声一同(はぁ、今更泣いてもしゃーないがな)