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◆第十二章【愛しい生き物】
知らない記憶が、私の中を駆けていった。
ひどく胸が痛んで、自然と涙が溢れていた。
目を覚ますと、光に包まれた部屋にいた。
上半身を起こすと、カーテンに仕切られたベッドに寝かされていることがわかった。ここは病院であるらしい。
「やあ、お目覚めだね」
足元のカーテンが開かれると、硯利が顔を出した。
「ここは?」
「ここは洋館の一室だよ。病室といっていい場所だ。影彦もいるよ」
硯利は私の左側のカーテンを少しだけ開けてくれた。
隣のベッドには、すよすよと眠る影彦の姿があった。
「無事なんですね。よかった」
「紅娘山で彼を保護した時は、けろりとしてたんだけどね。検査をして食事を摂らせたら、こてんと眠ってしまったんだ。初めて抜刀《ばっとう》したから、疲れたんだろうね」
「え」
「影彦は沼黄泉を追い払う時に、抜刀したらしいんだ。そもそも影彦はいつ抜刀してもおかしくない程度には、妖術書を理解していたのかも知れないね。でもこのタイミングで抜刀できるようになったのはきっと、ここ数日妖術書に向き合っていた成果だろうね」
私が安堵の表情をみせると、硯利はカーテンを閉めた。
それとほとんど同時に「お嬢様?」と、スミさんが足元のカーテンを開けた。
「今、起きたところだよ」
硯利はいった。
「よかった。お目覚めになられたんですね」
スミさんはそういって、私の手を握ってくれた。
「君は角仙娘の御神体近くで倒れているのを、君のお母さんに発見されたんだ。僕とオババ以外の妖将官は、今も紅娘山で現場検証中だよ。もうほとんど終わってるとは思うけどね」
母に保護された記憶は、なんとなくあるような気がした。
「あの。暁《あきら》がどうなったか、わかるでしょうか」
「暁?」
硯利とスミさんは顔を見合わせた。
私は二人に暁の説明と、角仙娘の祖先である少女の記憶に触れたことを話した。
「角仙娘は本来、贄《にえ》を必要とする呪いだったわけか。鬼の子を孕んで、一人でそれを生み、鬼を食って生き延びていたなんて、想像を絶する修羅《しゅら》だろうね。そんな少女を、この村の呪いとしたくなかった気持ちは、わからないでもないよ」
硯利のいうとおり、彼女を呪いとするのはあまりに救いがないように思った。
それでも彼女がこの村を呪ったのは本当で、そして自分の子どもをこの村に託したのも事実だった。
人の心はいつも一つではないし、矛盾を抱えているのかも知れない。
「つまり暁ちゃんは、角仙娘に捧げられた贄《にえ》の集合体だったのかな。しかし、なぜ七才の姿なんだろうね」
「そういえば、そうですね。私ははっきりと、暁を七才だと認識していました」
「暁闇《ぎょうあん》が死んでからの十年は、絹香が影彦の世話役をしていた十年です。その十年、絹香は欠かさず黒瀬家の地蔵堂に手を合わせてくれました。地蔵堂には、黒瀬家の水子が祀られています。それにならって影彦も手を合わせている場面を、私は何度も見ました。それらの行動が、暁闇になんらかの影響を与えていたのかも知れません。その十年が暁闇を癒やし、そして浄化してくれたのだと仮定すれば、暁がお嬢様のいる離れ座敷に出入りできても不思議はないように思います」
「そうだね。暁ちゃんは不浄のものじゃないから、神域に出入りできたのかも知れない。そういえば影彦が、なにかを自分の式神にしたとかいってたよね。それって暁ちゃんのことだったりするのかな」
硯利はスミさんをみた。
「そういえばいっていたな。疲れているせいか、いつも以上に言葉足らずで、話半分で聞いていたが」
スミさんは影彦の扱いを充分に心得ているようであった。
「式神というのは、人間と契約した妖怪とか神様という認識であっていますか」
私は聞いた。
「はい、その認識で問題ございません。しかし得体の知れぬ人外を使役することは、本来なら絶対にしない行為です。相手の力量を見誤ると最悪の場合、こちらが食い殺されかねません。もしくは知らぬ間に式神に侵食され、人間側が異形か化物になることもあります」
それは思っていた以上に最悪であった。
「でも暁ちゃんを式神にしていた場合、その心配は不要だろ。明らかに影彦の方が格上だし、彼は暁ちゃんを沼黄泉から救った恩人になるわけだからね」
「そうだな。それに影彦に式神を見せてもらえば、なんらかの対処もできるだろ」
私はそれらの言葉に胸をなでおろした。
「沼黄泉は絹香さんが呼んでしまったんだろうと影彦がいっていましたが、実際にそうだったんでしょうか」
「うん。ちゃんと話を聞いたわけじゃないけど、そうだと思う。沼黄泉はすべての沼に通じているとされるから、絹香の自責の念と妙なかたちで繋がってしまったんだろうね。そして暁ちゃんの存在を感知して、紅娘山に現れたんだと思う。影彦と旭灯ちゃんが沼黄泉に長く拘束されていたのも、そのせいだろうね。影彦と暁ちゃんは元々双子だったわけだから、沼黄泉が精査に時間を要していたのかも知れないね」
私が一度、沼黄泉と思われるなにかに飲み込まれた時はすぐに吐き出された。しかし二度目は、影彦と一緒だったから長く拘束されたらしい。
「山に凶兆がでたのは、沼黄泉が山の均衡を乱す可能性があったせいかな」
硯利がいうと、スミさんは浅くうなずいた。
「絹香の後悔が消えることはないかも知れないけど、影彦が暁ちゃんを式神にしていることが確認できたら、報告してあげてもいいかもね」
「そうだな。暁闇や、今まで間引かれた子どもたちが影彦とともにあるならば、私もどこか救われる」
「二十歳前に亡くなっていった角仙娘たちにも、なにかの救いになっていることを願わずにはいられないね」
硯利は静かにいった。
二人は黒瀬家の人間で、彼らも朝比奈家と同様に、呪いとともにあった一族である。
そんな彼らが今、なにを思っているのかは想像もできなかった。
「私は妖術書を学んで、抜刀できるように努力します。なにもできない私によくして下さり、本当にありがとうございます」
私は二人に頭を下げた。
「お嬢様がお目覚めになられたこと、改めてうれしく思います」
スミさんの目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「僕もうれしく思っているよ。きっと君が思う以上には、みんなそう思っているはずだよ」
洋館の病室で検査を受けた後、私はスミさんとともに朝比奈邸へと帰った。
影彦は私が検査を受けている間に、自分の足で家に帰ったらしい。
朝比奈家に帰宅すると、両親はすでに帰宅していた。
母は私を強く抱きしめてくれた。
母に触れた瞬間、私はこの人から生まれたんだなと、生まれ変わったんだなと、そう思った。
◆
家族と母屋で夕餉を食べた後、私は離れ座敷に戻って一人、妖術書を読んでいた。
周囲がどれだけ変化しても、自分がやるべきことはいつも大して変わらない。
集中力が切れてしまうと、私は縁側でホタルを見つめた。
そうしているうちに、庭先には影彦が現れた。
もしかしたら顔を出すかも知れないと思っていたので、それほど驚きはなかった。
「大丈夫だった?」
私は縁側を下りて、影彦に駆け寄った。
「大丈夫。運がよかった」
――運がよければ、また会える
影彦がどんな方法で沼黄泉を追い払ったのか、どうやって暁を式神にしたのかはわからない。しかし病室では気付けなかったが影彦の頬と腕にはガーゼが貼られており、彼が奮闘してくれたことは見て取れた。
「抜刀できたって、聞いたけど……」
私が影彦の頬に手を伸ばすと、彼は私の手に触れた。
彼は愛しくてたまらないという仕草で、私の手を口につけた。
私は彼を直視することができずに、思わず目を逸した。
「うん。抜刀できた。だから俺は、妖将官になる。今までは別に、妖将官になれなくていいと思ってた。でも沼黄泉に飲み込まれた時、もっと知識と経験が必要なんだって思った。俺は妖怪が好きだから、ちゃんと殺すし、共存できる種族とはそうしたい」
影彦は宣言するようにいった。
「私も、抜刀できたら妖将官になると思う。この世界がどれだけ呪いに満ちているかわからないけど。そういう人たちを助けることができるなら、やってみたい」
私の中には、ずっと昔に消えてしまった少女の顔が浮かんでいた。
「でも合わないと思ったら、ちゃんと別の職業を探して生きてみたい」
誰かに失望されても、なりたかった自分になれなくても、自分が消えるわけではない。
それでもただ、生きていたいと思った。
この世界で出会った人たちが、私にそう思わせてくれていた。
そして意思疎通の図れない沼黄泉が、二度も私を解放した。私はこの世界で生きる覚悟をしてもいいのだと思えた。
「俺は、旭灯が何になっても一緒にいる。暁みたいに、死んでもずっと側にいる」
私の額には、まだ小さなツノがある。
しかし以前とは少し違っていて、そのツノは指を曲げるような感覚で、出し入れすることができるようになっていた。でもツノは落ちていない。
私が抜刀した際には、これが落ちることもあるかも知れない。
しかし今はまだ、未来のことはなにもわからなかった。
「そういえば暁《あきら》は、影彦の式神になったの?」
「うん、式神にした。今はまだ眠ってるけど、何日かすれば起きると思う」
「得体が知れない妖怪を使役するのは危険だって聞いたけど。なんともない?」
「なんともない。それに暁が旭灯の呪いを解いてくれるなら、いてくれないと困る。俺がちょっと変な生き物になるくらいは、問題ない」
影彦は、本当になんでもないことのようにいった。
「怖くないの?」
「旭灯がいなくなる方が、ずっと怖い。俺は旭灯といられるなら、今の自分じゃなくてもいいんだ」
――今は知らない人みたい
転生する前に、母にそういわれたことを思い出した。
私はきっとこれからも、色んな人と出会って、色んな経験をするだろう。
そしてその度に、知らない自分に出会っていく。
今はそれを楽しみだと思える。
「それに俺は、旭灯と出会ってから、今までの自分とは違う生き物になった気がするんだ。だから別に、化物《ばけもの》になってもいい。こんな風に思う俺は、もう化物なのかもしれない」
影彦は「怖い?」と、挑むような視線で私を見つめた。
「ううん、うれしい」
私がいうと、影彦は屈託のない顔で笑った。
ずっと観察していたいと思うほどには、愛しい生き物だと思った。
【 了 】