スタジオの空気は、いつもと変わらなかった。でも、変わっていた。
音も、距離も、視線も、すべてが。
滉斗が弦を張り替えている間、元貴はひとつも音を鳴らさなかった。
ただ、じっと彼の背中を見つめていた。
「……滉斗」
「ん?」
「控え室のカメラ、回ってたよな」
その瞬間、ピンと張っていた弦が、プツンと切れた。
それがまるで、2人の境界線の“最後”を断ち切ったようだった。
「……見たのか」
「お前……いつからだよ」
滉斗はギターをゆっくり床に置き、
逃げることもせず、正面から元貴を見た。
「ずっと……声だけだったんだ。最初は、盗聴器だけで。
でも、聴いてるうちに、顔も欲しくなった。表情、動き、喘ぎ声……」
「ふざけんな」
「ふざけてねぇよ」
声を荒げた元貴に、滉斗はまるで罪悪感のないまま言った。
「全部……お前が、俺に与えたんだよ」
「……は?」
「歌う声も、笑う声も、感じてる声も……
お前が俺のなかに植えたんだ。ずっと、壊れるくらい……」
「盗撮していい理由になるかよ、それが」
「ならない。でも、止まらなかったんだよ。
お前が、俺の欲望を刺激してくるから……」
「俺は……ただ、歌ってただけだ」
「それがヤバいんだって。お前の“普通”は……俺の理性を殺すには、充分だった」
元貴は言葉を失った。
でも、拳は震えていなかった。
代わりに胸の奥で、何かが破裂しそうになっていた。
「……なんで、お前はそんなに俺に執着してんだよ」
「わかんねぇよ。
でも……あの声は、もう誰にも渡したくない。
ステージのマイクに乗る声も、夜中にひとりで漏らす声も……
全部、俺だけのもんにしたかった」
静かに、けれど確かに滉斗は言った。
元貴は唇を噛んでいた。
でも、それを止めるように、滉斗の手が頬に触れる。
「嫌なら、今、叩けよ。拒めよ。
でもそうしないなら、もう一度……あの時みたいに……」
「……ほんとに……最低だな、お前」
「でも、お前の声を世界で一番、欲しいと思ってるのも俺だけだよ」
その言葉が、胸を貫いた。
拒絶と快感の境界で、元貴の足がわずかにすくんだ。
「……今回だけだ。次はねぇからな」
「……もう録音、録画はしない」
「信じられるか」
「……信じて」
滉斗は、まるで初めて触れるかのように、優しく元貴の首にキスを落とした。
「……声、出して。もう絶対しないから…」
「……っ……バカ……ッ」
その夜、ふたりはスタジオの床で絡み合った。
⸻
数日後、滉斗はすべての録音と映像を削除した。
「……もう、いらない」
それでも、机の引き出しの奥には、ひとつだけ新品のボイスレコーダーが入っていた。
未開封のまま、タグも切られずに。
ただ、貼り付けられたメモには――こう書かれていた。
『また欲しくなったら、使ってもいいよ』
――元貴の字だった。
END
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