「⋯⋯おい、何だよこの状況は」
不機嫌さを隠すこともせず
低く唸るような声が空気を裂いた。
血と焼け焦げた肉の匂いが漂うその場所へ
ソーレンは
苛立たしげな足音を響かせてやって来た。
視線の先では──
血と肉片に塗れた時也が
地面に膝をつきながら
ほぼ肉塊となったアリアの頭を膝に抱え
そしてその隣には
見知らぬ人間の頭も横たえていた。
見るに堪えない光景に
ソーレンは舌打ちを一つ、重く響かせた。
「⋯⋯こいつ、女か?
いや、股間が女じゃねぇな。誰だよ?」
問いを投げた相手──
時也は、どこか困り顔で微笑を浮かべながら
首を傾げた。
「⋯⋯僕にも解りません。
⋯⋯産まれました?」
「は?
お前、アリアが行方不明になったもんで
頭イカレたのか?」
罵倒に近い言葉も
時也の笑顔は揺るがなかった。
自分でも理解が追いついていないことを
素直に認めるしかなかった。
ソーレンは肩を竦め
鬱陶しげに頭を掻いたが
それでも黙って立ち尽くす彼の前で
時也が静かに語り始める。
「掻い摘んでお話しいたしますと⋯⋯
青龍を襲ったフリューゲル・スナイダーに
あの後、アリアさんは遭遇したのでしょう。
しかし、何らかの異能で
アリアさんは拐かされてしまった⋯⋯
彼女を救出して
リーダー格を倒したまでは良いのですが
この方だけは謎でして。
ただ、転生者なのは間違いないでしょう。
教会の追手が来る⋯⋯
そのように仰ってましたので」
「⋯⋯転生者、ね」
その単語に
ソーレンの眉根がわずかに動いた。
口元が引き結ばれ、視線に影が宿る。
「チッ。じゃあ、連れて帰らねぇとな」
口調はぶっきらぼうでありながら
どこか諦めを帯びたその声音。
それでも、彼は文句一つ言わず
謎の男の身体を抱き上げ
持参した衣服を手早く着せていった。
「⋯⋯お前、そんな状態のアリアを見て
良く耐えたな」
ふと、彼の声が低く呟かれた。
時也の身体には
焼け爛れた痕が無数に刻まれていた。
焦げた着物の下から覗くその傷は
ただの火傷ではない。
アリアの
再生によって生まれた高熱によるもの。
不死であるとはいえ
並の人間では即死に至るような代物だった。
その傷の中から
小さな若葉のようなものが蠢き
じわじわと皮膚を修復している。
ティアナは、そんな時也の膝元に身を寄せ
彼の痛みを労るように隣に寄り添っていた。
ソーレンは、その姿を見てしばし沈黙し
やがて顔を逸らす。
「⋯⋯ありがとうございます。
アリアさんが⋯⋯一番辛い状況の中で
弱ってなどいられなかっただけです」
時也の返答は
穏やかで、どこまでも真っ直ぐだった。
感情に流されず
ただアリアを想って立ち続けた男の声。
「⋯⋯そうかよ」
短く、ソーレンはそう返した。
それ以上、何も言葉にはせず──
ポケットから煙草の箱を取り出し
ライターと共に時也へと投げた。
「一服してろよ。運んでやるから」
軽く言い放つようにして
彼はアリアの肉片と男の身体を浮かせた。
重力が捻じれ
空中に漂うようにその二人が宙を滑る。
その背を、時也は見つめる。
ふと、表情が綻び
受け取った煙草を唇に咥え、火を灯した。
紫煙が、ほのかに香る。
その傍らには
ふわふわとした白い毛並みのティアナが
彼の腕に収まり丸くなる。
歩き出すソーレン。
その後を、ゆっくりと、時也も歩を進める。
血の匂いも、痛みも、疲労も──
すべては
帰り道の静けさに吸い込まれていった。
帰ろう、喫茶 桜へ。
彼らの居場所へ。
すべてが、戻るべき場所へ。
⸻
傷が癒えぬまま、高熱を宿したアリアと
血塗れの謎の男を両脇に浮かせ
ソーレンは不機嫌そうな顔でも
重力の歪みを丁寧に操り
時也と共に──
ようやく、喫茶桜の扉を潜った。
静まり返った居住スペース。
だが、その空気はどこか優しかった。
誰もいないリビングが
帰還を知っていたかのように
温かさを滲ませていた。
扉を開けた瞬間
控えていた青龍がすぐに出迎える。
「お帰りなさいませ、時也様」
その声は、いつも通りの毅然とした口調。
だが、その声音の裏には──
主の無事を心から安堵する色があった。
「青龍、ありがとうございます。
傷は⋯⋯もう良いのですか?」
「はい。
アリア様の血を賜りましたおかげで
完治しております」
「⋯⋯良かった。
そんな状態で申し訳ないのですが
お二人のことをお願いします。
些か⋯⋯僕も、疲れました」
青龍は静かに一礼し、時也の言葉に従う。
その鋭い山吹色の瞳を僅かに横へ──
ソーレンへと向ける。
ソーレンはそれを受け
ため息を一つだけ吐くと
無言のまま二人の身体を浮かせ
青龍の後をついて階段を上がっていく。
アリアの肉体の熱は未だ高く
謎の男の意識もまだ覚めそうになかった。
その背を見送りながら
時也は力が抜けたように
ソファーへ身を沈めた。
程なくして──
白く柔らかな毛並みの猫
ティアナが音もなく跳び乗ってきた。
小さな身体で
彼の腹の上にそっと身を預ける。
まるで、寄り添うように。
主の最愛の者の痛みを、労るように。
「時也さん、お帰りなさい!
お風呂沸かしてあるけど⋯⋯後にする?」
キッチンから顔を覗かせたレイチェルが
少し心配そうに声をかけてくる。
その明るさに
どこか張り詰めていた空気が
少しだけ緩んだ。
「お気遣い頂いて、ありがとうございます。
では⋯⋯ありがたく頂戴しますね」
時也はゆっくりと立ち上がり
ティアナを撫でてから
湯気立つ浴室へと足を向ける。
脱衣所の灯りは柔らかく
バスルームからは
心地よい湯の匂いが漂っていた。
彼は焼け焦げた着物を脱ぎ
傷だらけの身体に触れながら
静かに湯に身を沈めていく。
湯の温もりが、皮膚から、筋肉へ
そして心の奥へと染み込んでいく。
まるで、張り詰めていた全てが
解けていくようだった。
彼は一度、完全に頭まで湯に沈み──
水面越しに天井の灯りが揺らめくのを
ただ、無言で眺めていた。
(⋯⋯あの男は、誰なのだろうか)
思考の中に、静かに浮かび上がる。
前世の記憶を
完全に継いでいるような言葉。
今までの転生者たちとは
明らかに〝異質〟だった。
(アリアさんに敵意は無さそうですし⋯⋯
彼が目を覚ましてから
お話をゆっくり伺いましょう⋯⋯)
思考を整理するようにゆっくりと息を吐き
湯から顔を出す。
肺に湿気を帯びた空気が、満たされていく。
だがその瞬間──
静かに、だが確かに
心の奥底から、黒い何かが這い出してきた。
(⋯⋯⋯⋯⋯あの糞野郎)
胸の奥から
灼け付くような怒りが立ち上がる。
思い出すのは──
あの壮年の男。
アリアを
あの神聖な身体と尊厳を、穢した存在。
(アリアさんが手を下す前に⋯⋯
〝俺〟が殺してやりたかった──⋯っ!)
その感情は理性を超え
時也の身体を突き動かす。
湯の中で、彼は無意識のうちに
自分の首を激しく、何度も掻き毟っていた。
爪の先に、皮膚が裂け、血が滲み出す。
『時也様⋯⋯
どうか、お心をお鎮めくださいませ⋯⋯』
その時、頭の奥に響いたのは
青龍の静かな念話だった。
我に返った時也の目に映ったのは──
紅く染まり始めていた浴槽の湯。
「⋯⋯⋯⋯すみません。青龍」
彼は震える手で浴槽の栓を抜き
流れ落ちる紅い湯を見送った。
湯がすべて流れ落ちた空の浴槽。
その中に、彼は静かに膝を抱えたまま──
手足は静かに震え、皮膚は再生を始める。
だが、その心は──まだ、疼いていた。
何も考えぬように、何も感じぬように。
時也はただ、深く息を吐きながら
冷え始めた浴室の空気の中に
身を沈めていた。
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癒える肉体と癒えぬ魂。 アリアを抱き締めた腕に宿るのは、刻み込まれた怒りと無念。 時也は、己を焼く激情を抑え、ただ静かに謎の青年の目覚めを待つ。 胸奥で燻る怒火は、まだ消えない──