次の日出社すると、いつも以上に早く来ていた紫雨と、珍しくすでに来ていた秋山が同時にこちらを振り返った。
「おはようございます」
言うと紫雨は自席に戻っていき、秋山が口元に少し寂しそうな微笑みを浮かべながら「おはよ」とやけに小さな声で言った。
朝礼が終わると、
「林君、いいかい」
秋山がこちらの返事を待たずに展示場に入っていった。
「―――」
立ち上がると、同時に隣で紫雨も立ち上がった。
「行くぞ」
林の肩に紫雨の手が置かれる。
その異様な光景に、勘づいたらしい飯川と室井が顔を上げた。
「――はい」
林は大きく息を吐くと、紫雨とともに展示場に入っていった。
◇◇◇◇◇
入社した際に書かされた山のような書類とは裏腹に、退職の手続きは簡単なものだった。
秋山が持ってきた3種類の書類に判を押し、有給と退職金の話をされた。
加入していた会社の保険を解約され、火災保険の募集人資格も、地盤調査員の資格も無効となることの説明を受けた。
さらに、転職先が他のハウスメーカーではないこと、セゾンエスペースの内部情報を他社に漏らさないことなどの誓約書にもサインと押印をさせられた。
「―――手続きは以上だけど」
淡々と説明と書類整理をした秋山が、やっと林を見上げた。
「林君。最後に、想像してみてほしい」
言いながら、和室のテーブルの上で手を組む。
「君は今日から一念発起して、紫雨マネージャーの下で、アプローチ練習を中心に、思い切り接客能力を鍛える」
「―――え?」
「知識を一から習得し、他のメーカー周りにも紫雨が付き合う」
「支部長……?」
「工事課の技術を工事長から、設計のノウハウを小松設計長から、それぞれ1ヶ月ずつ徹底的に仕込んでもらう」
わけもわからず、視線を秋山と紫雨の間に往復させる。
「紫雨と僕としては、これくらいのことをしてあげる準備はある。君がもし、セゾンエスペースに残りたいという気持ちが1%でもあるなら」
「――――」
紫雨を見つめる。
彼も金色の目でこちらを見つめた。
「それを踏まえても。決心に変わりはない?迷いはない?」
「――――」
林は秋山を見て、そしてもう一度紫雨を見つめた。
紫雨が小さく頷く。
林ももっと小さく頷き返した。
そして、掘り炬燵から足を引き抜き、踵をそろえて正座に直すと、秋山を正面から見つめた。
「秋山支部長、紫雨マネージャー、大変お世話になりました」
両手を前に付き、頭を下げる。
「そっかぁ」
秋山が息をつく。
「―――新しい門出だね。おめでとう、林君」
頭を押し付けた畳からは、不思議とい草に似た香りがした。
「退職日は、給料締め日の4月20日になるから」
秋山が立ち上がりながら言った。
「荷物もその時にまとめて、とりあえず今日から有給消化してね。作業服と作業ジャンバーだけ、クリーニングを済ませた状態で、20日に持ってきて」
「はい」
「その間わからないことがあったら、いつでも連絡してきていいからね」
微笑むと秋山は和室を出た。
「…………」
林は交わした書類の自分の控え分をまとめて角を揃えた。
泣かないつもりだったのに。
散々会社に迷惑をかけて、泣く権利なんてないのに。
どうしても胸に熱いものがこみ上げて―――。
「……無理だな。警察は」
「―――は?」
唐突に口を開いた元上司兼、現恋人を見下ろす。
「何言ってるんですか?」
「再就職先だよ。お前みたいな鉄仮面、公務員くらいしかできないんじゃないかと思って」
紫雨は大まじめに腕を組んで天井を見上げた。
「だからと言って体力のいる警察、自衛官、消防官は無理だろー。だとやっぱり役所関係か?お前筆記試験は何とかなりそうだもんなー」
「―――何を勝手に話を進めてるんですか」
林は呆れてため息をついた。
「せっかく人が感傷に浸ってるのに……」
「バーカ」
紫雨は腕をほどいて両手を後ろに付き、こちらを見上げた。
「感傷になんか浸るなよ。秋山さんだって言ってただろうが。“おめでとう”って」
「――え」
「お前にとってはめでたいことだ。なんの罪悪感も悲壮感も感じる必要はない。次だ次!」
「紫雨さん……」
紫雨はふっと笑うと林から目を逸らした。
「感傷に浸るのは、お前じゃなくて俺の仕事だ」
「―――え?」
「一番そばにいたのに」
紫雨の目に涙が溜まる。
「お前にこの仕事の楽しさを教えてやれなくて、ごめんな」
「――――」
彼の金色の目から涙が一粒、白い頬を伝って顎から落ちた。
―――違う。
『俺が建てた家で、他人に誇れないような恥ずかしい家なんて、ただの1棟もない!』
違うよ、紫雨さん。
あなたはいつも教えてくれていた。
全身全霊で、家と向き合いながら。
全力で顧客に尽くしながら。
いつもあなたは教えてくれていた。
林は畳についた紫雨の手に自分の手を重ねた。
「4年間、すごく楽しかったです」
紫雨が顔を上げてこちらを見つめる。
「ありがとうございました」
林の目からも、涙が伝って、顎から落ち、樹脂製の畳に弾けた。
◆◆◆◆◆
事務所に戻ると、この数分のうちに秋山が話したらしく、皆、改めて聞いてきたりはしなかった
荷物まとめは最後の日に、と言われたので、とりあえずデスクの中から貴重品と携帯電話の充電器を回収し、鞄に入れる。
「業務は?」
目の前に座っている飯川が顔を上げた。
「引き渡しとか、1年点検とか、大丈夫なの?」
林は慌てて頷く。
「はい、大丈夫です。1年点検は来月以降に控えているお客様はいるんですが…」
「じゃあ、いいや。それはこっちの仕事」
飯川がまた顔を戻す。
「追いかけてる客は?」
今度はその脇に座る室井が顔を上げた。
「あ、それも、大丈夫です」
苦笑いしながら言うと、室井は軽く頷く。
「林。おとといの養生、手伝ってくれてありがとうな」
「あ、いえ」
林は頭を掻いた。
「結局昨日はあんまり風吹かなかったですけどね」
「それでも、客は、迅速な対応に喜んでた」
めったに笑顔を見せない室井が微笑む。
「助かったよ」
「―――いえ」
荷物を詰め終わると、隣で見守っていた紫雨が軽く頷いた。
「では。何かあればご連絡ください」
「おお」
言いながら椅子に片膝を立てた。
「アシナガバチが出たら電話するよ」
「―――は?」
「ムカデ退治も頼むな」
室井が顔を上げないまま言う。
「ちょっと」
「ジョロウグモが巣を作った時もお願いしまーす」
飯川がキーボードを叩きながら言う。
「……皆さん、俺を害虫駆除係としか見てなかったんですね……」
林が目を細めると、皆一斉に彼を見上げて笑った。
「送別会は追って連絡するから、ゆっくり休めよ!」
飯川が言う。
「紫雨さんがうまいのご馳走してくれるから」
「はあ?」
紫雨が飯川を睨む。
「お前らは自分で金出せ!」
「ええ~そんな~」
笑い声が事務所を包む。
林は微笑みながら鞄を掴んだ。
「楽しみにしてます。それでは、お疲れさまでした!」
「お疲れー」
「オツカレ」
「お疲れ様」
皆の声で背中を押されるように林はドアを開けた。
昨日までの不安定な天気が嘘のように、早春の空は晴れ渡っていた。
「ちょっと。いい大人が、泣かないでくださいよ」
飯川が頭を掻きながら笑う。
「ほら、紫雨!」
室井がコーヒーメーカーから取り出した紫雨のカップをデスクに置く。
「紫雨さーん!」
猪尾が顔を上げようとしない紫雨の肩を揉む。
「紫雨さんが泣いたら、しんみりしちゃうじゃないですか~!」
林がいなくなった事務所で、紫雨はデスクに頭を突っ伏して泣き続けた。
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