「―はい。確かに受理しました。この度はご愁傷さまでした。」マニュアル通りに若い職員がそう言った時、ようやく終わった、という気持ちが一番大きかった。
毎日親父との少ない記憶を懐かしんで、それだけの事なのに、どうにも苦しくて、泣きたくなる。そんな日々も終わる。考えると、どこか寂しいような気がした。
それから俺は家に帰って、遺品整理を続けた。親父が面倒にも遺していった物を一つ一つ捨てていく。親父が学生の頃にお袋としていた文通の手紙、どこで買ったかも分からない海外旅行の土産の人形、早い内に弾かなくなってインテリアと化したアコギ。
どれも見覚えは無くて、本当に自分の父親なのだろうか、と可笑しな疑問が脳を掠めた時、一冊のアルバムに目が行った。
「『 記録、晶の。』……ふっ。」
おおよそアルバムのタイトルとは思えぬ名前に思わず吹き出す。そんな所がまたなんとも親父らしい。
そういえば、写真の好きな人だった。何かあればカメラを構えて、何でも撮っていた。けれど、アルバムを作れる程、撮られた記憶は無い。そもそもあの人との記憶はあまり無いのだが。
俺と親父はいわゆる「親子」とは違ったように思う。普通のことなんてあまりなくて、遊んでもらった記憶も、一緒に食事した記憶も、話した記憶すらも乏しい。それでもいくつか、わざわざ覚えなくとも忘れられない思い出はあった。
いくつの頃だろうか、デパートの屋上で、アイスを買ってもらった。当時の俺は喜びながらも驚いて、親父に尋ねた。
「お父さん、今日はどうして優しいの。」
親父は確か、頬を赤く染めながら笑って言った。
「何でだろうな。俺にも分かんない。」
俺はその答えが余計に不思議で、再度尋ねた。
「変なの。大人にもわかんないことってあるんだね。」
それを聞いて、親父は優しく笑った。
「そうだなあ。お前さん、大人だって完璧じゃないんだ。命の美しさって、そこにあるんじゃないか。」
「……やっぱり、変なの。」
幼い俺にその言葉の意味は読み取れるはずも無かった。
「うーん。そうだ、お前さん、空が今赤いのは何でだと思う。」
唐突な親父の問いに、俺は答えられなかった。
「それはな、今、俺達が見てるからなんだ。」
やっぱり、意味がわからなかった。
「夕陽が出てるからじゃないの。」
今度は上手く言葉に出来た。
「ハハッ、確かにな。でも、それは俺達が見ていなかったら赤いとも感じられないってことだ。分かるかい。」
「うーん。ほんのちょっとだけ。」
「そうか。でもそのほんのちょっとでいいんだ。そのちょっとが、俺の優しさの答えなんだ。今、君が感じた俺の優しさそのものなんだ。」
俺は納得がいかなかった。そしてそれを顔に出して親父を見つめていると、親父は珍しく微笑んで続けた。
「一つ、なぞなぞを出そう。空が赤いのは俺の優しさと同じだ。じゃあ、その赤さはいつも俺の目に何を写すんだろう。いつまでも待ってやる。お前さん、よく考えろよ。」
アイスは溶けて落ちそうになって、慌てて舐めた。
久々に思い返してみても分からない。あの時親父は、何を伝えたかったのか。思い出に浸ってみる。
「クソ親父、せめて教えてから逝けよ……。」
柄にもなく泣きそうになったから、慌てて押えて、アルバムを開いた。
そこには、俺が生まれてから12、3歳になるまでの写真が綺麗に貼られていた。その多くがこちらを向いていなくて、素直に写真を撮らせてくれと言えない親父の不器用さがよく見える。
正午から始めた作業は、アルバムのせいで気付けば夕暮れ時だった。燃えるほど真っ赤な、まさにあの時のような夕陽が部屋に差し込んで来ていた。長々と眺めたアルバムも終わりの方で、これは取っておこうかな、などと考えながら、最後のページに衝撃を受けた。
どこの空だろうか、星が無数に輝く夜空だ。何故こんな写真が紛れ込んでいるのか、分からなかった。そして次の瞬間には、なんとなく、本当に意識せずにその写真を剥がしていた。
これは俺の成長記録で、この写真は違う。要らないはずだ。言葉は後から浮かんできた。しかし、全部が微妙にズレているような気がして、捨てようとは思えなかった。数分放心して、何気なくこの写真の裏を見て、また驚いた。
「答えは見つかったかい、晶。これはヒントだ。」
いつだったか、親父は、人のことを愛せないと言っていた。息子に言うには流石に酷すぎると思うが、俺は何故かすぐに納得できた。確かに、親父は人を愛すなんて出来ないだろうな、と。お袋には悪いが。それでも俺は親父が嫌いでは無かった。周りと比べれば最低で、父親として何かしてくれたことなんて片手で数えられるほどしかない。
そんな親父が俺に唯一遺してくれたと言えるのが、あのなぞなぞだ。先程とは違って、真剣に考える。
―空の赤さは見ていないと感じられない。それと優しさも同じ……。
ゆっくりと考えた。点と点を繋げるように。
―空の赤さが目にいつも写すもの……。
ゆっくりと飲み込んだ。少しも見落とさないように。
―なんで星空なのか、星……光……。
答えは親父の問いと同じく、唐突に現れた。人を愛せないと言っていた親父の限りない愛情。俺にだけ向けられたそれは、きっと親父の生涯で唯一のものだったろう。
不思議と涙は流れなくて、代わりに誇らしく思える。夕陽はいつの間にか沈んで、満天の星が眩く輝いていた。