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『昨日の夜、寝てしまってました。すみません』
紫雨は朝起きてから20回ほど開いたメール画面を睨みながら、自分の椅子をくるくると回した。
「4時半…ね」
言いながらデスクに向き直り、頬杖を突く。
(こんな早くに起きて、何やってんだこいつ)
思いながらやっと決心をしてメールを打つ。
『夜、飯いかない?』
「……………」
(くそ。さっさと返信してこいよっ!)
しかし待てど暮らせど返信は来ない。
(休みでヒマなくせに。忙しい忙しい天下のセゾンマネージャー様のメールを無視するとは…!)
「……あの~、“天下のセゾンマネージャー様”」
顔を上げると、飯川が引きつった顔でこちらを見ていた。
「だだ漏れですから。心の声。うっさいっす。いい加減」
「…………」
紫雨は飯川を睨んだ後、デスクの下で足を組んだ。
「……メールじゃなくて、電話してみたらいいんじゃ―――」
「してる。昨日の夜も、今日の朝も」
被せ気味に否定する。
「携帯どこかに置きっぱなしででかけ―――」
「既読にはなるからそれはない」
「――――」
「――――」
紫雨は小さくため息をついた。
会いにくくなることは覚悟していたが、連絡がとれなくなるとは思っていなかった。
会社を辞めたとしても、夜は実家に帰らなきゃいけないとしても、電話で話はできるし、飯も行けるし、次の就職先のことを話したり、紫雨の仕事が早く終わった日には、ちょっとくらいこっちのマンションに寄ってくれるものと思っていた。
「あ―――」
マンションと言えば……。
紫雨はデスクの引き出しを開けて、ソレを見た。
「――――」
(……こいつの出番はまだ遠そうだな)
と、そのとき事務所の電話が鳴った。
「はーい。セゾンエ……。ああ!お疲れ様です!」
電話をとった猪尾の声が明るい。
「はいはい!いらっしゃいますよぉ!今変わりますね!」
保留音を押している。
ドッドッドッドッドッドッド。
(なんだ、この胸の高鳴りは)
あいつがこの事務所からいなくなって、まだ24時間も過ぎていないのに。
「紫雨さーん!」
猪尾がこちらをニコニコと見ている。
「あーはいはい」
何でもないように手をあげる。
「よかったすね。あちらからかけてくれて」
飯川がやれやれという様に視線をパソコンに戻している。
(なんで外線でかけてくるんだよ!勤務中だって気を遣わずに携帯にかけてくればいいのに!)
紫雨はにやつく顔を抑えつつ、受話器を取った。
『あ、紫雨さん!お疲れ様です!!』
「…………」
『あれ?紫雨さん?もしもーし』
その明るい声に、紫雨は静かに受話器を置いた。
◇◇◇◇◇
『無言で切るなんてひどいじゃないですかー』
懲りずにもう一度かけてきた新谷は、声を低めて言った。
「うっせえな。こっちは忙しいんだよ。さっさと用件だけ言え」
『こわっ。俺、何かしました?』
(そうだ。そもそもこいつがアプローチ練習なんかさせるから悪いんだ。こいつさえいなければ、林は今も俺の隣で、パソコンに向かっていたのかもしれないのに…)
理不尽な逆恨みで、もう一度受話器を置きたくなる。今度は乱暴に。
『待って待って、切らないで!実は、ちょっとご案内したい講演会がありまして!』
「講演会ぃ―?」
紫雨は膝を立てながら受話器を耳から離して睨んだ。
「そんなの眠たくて聞いてられっかよ!てめえ1人で聞いてこいよカス!」
「――紫雨さん。それじゃただのチンピラですよ」
「全く。恥ずかしい…」
飯川が目を細め、
「いい加減にしろ!紫雨!」
その隣の室井がため息をつく。
『お願いだから最後まで聞いてくださいよ…』
電話口の新谷の声も呆れている。
「なんだよ。さっさと言え!」
『じゃあ、言っちゃいますね。その講演会、和モダンがテーマなんですよ』
眼球の奥がグワンと揺れた気がした。
自分が林を罵倒するきっかけとなった言葉。
林がセゾンエスペースを去る決心をさせた言葉、だ。
『俺も行くし、金子も細越も行くんです。もしよかったら、ですけど。林さんもどうかなって思って―――』
「――――」
(そうか。林はまだ有給消化中で退職してない。他店のヒラ社員にはまだ伝わっていないのか)
昨日秋山発信で各店舗のマネージャーには、林が退職することと、欠員の補助は今のところ考えていない旨が書かれたメールが来た。
(篠崎さんって口硬いんだな。別に新谷にくらいなら、いいのに)
妙に感心しながら、受話器を持ち替える。
「新谷。俺の口から言うのもなんだが、あいつ今、有給消化中なんだよ」
『え?』
「有給消化!辞めんの。あいつ」
『っっっっっ!!えええええ?!』
「そーゆーことだから。じゃあな」
『待って下さいよぉ!!それ、どういう――』
新谷の叫び声でついに紫雨は受話器を置いた。
「――うっ」
受話器を置いて数秒後、紫雨は胸を押さえてデスクに倒れこんだ。
「………あー、はいはい」
向かい側の飯川が笑う。
「林が辞めるって言葉に出したら、想像以上に自分にダメージが返ってきたってことすね?」
「――さすが営業マン。状況の言語化がうまいな…」
紫雨は頭だけ一瞬起こして飯川を見た後、またデスクに突っ伏した。
「ああ。俺、林に対しての罪悪感で、今なら死ねる」
言うと斜め向かいに座った室井が鼻で笑った。
「自意識過剰なんだよ、お前は」
「――――?」
紫雨は顔を上げた。
「他人からの影響なんて、受けてるようで受けてないんだぞ。結局決めるのは自分だ。林の人生、林の好きなように歩いてんだ。お前が気に病むことはない」
「――――」
(なるほど。さすが年の功。言うことに重みがある…)
紫雨は初めて室井の言葉に感心しつつ、顎をデスクに置いた。
(でも俺が、あいつの人生に影響を与えられないっつーのは、ちょっと寂しいような……)
紫雨は唇を前に突きだしつつ、いまだに赤い字で林のペナルティを告げているシステムのトップ画面を睨んでため息をついた。