テラーノベル
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ただ一人川のほとりに取り残された僕は、もう一度、川の中に入ろうと、疲れた体に鞭打って体を起こす。裸足が故に足元の土が冷たく感じる。頭にチラつく希望を拭い去る事ができず、上代くんはまだ生きている。思考はそれで埋め尽くされた。自己暗示に近いだろう。川の水の冷たく無情な全く熱の籠らない様子に僕は、すくんでしまった。しかし、僕は助けなければならない、紛れもない責任がある。そう思ったのだけど。僕の足はピタリと止まってしまった。自己暗示をかける反面諦めている自分がいた。
でもそれって人間として普通のことじゃないか。とても理にかなっている。そういえば結構僕は合理的なんじゃないか。自己犠牲は馬鹿馬鹿しいとは思はないが全くして不合理だ。人間が生きる、生き残るのに全く邪魔なプログラムだと思う。前に歩みたいのにその道から外れるなんて問題外だ。というか、今僕は何の話をしているんだ。どうしてこんなところに居るんだろう。なんだあれは。竹の先に糸が吊るされている、近くには水色のバケツ、釣りか。僕は釣りなんかするか、別に好きではない。では何故。
気まぐれか。いくら合理的な僕でも暇潰しをしたくなったのだろう。何か考え事でもしていたのだろうか。なら、それは合理的な暇潰しと言える。僕はそそくさと道具を片付けて、池の近くにある僕の自転車を見つけては荷物を乗せる。かなり乗りづらい荷物を無理やり乗せながら思う。こんな面倒な事わざわざしようと思うか。僕もたまには無理をしたくなるのだろうか、自分の複雑さに溜息をつかざるおえなかった。そして池のほうを振り返る。やけに太い縄が水面に浮き上がる。全く身に覚えがないのでそのままにすることにした。
「全く迷惑な人がいたもんだな」
思わずそう口にした。そうして僕は荷物を落とさないよう気を使いながら自転車のペダルに足をかける。発進しようとした時、少しだけ、足が止まった、気がした。
僕はいつものように、自分の頭が葛飾北斎の富嶽三十六景、神奈川県沖浪裏の波のようになっているのを鏡越しに見て溜息を吐く。夏休みの最中なので、特に直そうとは思はない。口いっぱいに開け、あくびを放ちながら、既に両親が出かけていて、一人のリビングに向かう。テーブルのは書き置きがあった。
食パンがあるから、朝はそれで。
との事だ。ここのところ朝は一人で大体いつも食パンだから、この書き置きも使い回しである事を知っている。もう置かなくても良いと思う。しかしその書き置きはテープで四角い紙のうち一つの対角が固定されている。剥がすのも面倒くさいのだろう。僕は食パンに何も付けず焼かずそのまま齧り付いた。いつもと何も変わらない日常を咀嚼している。いつもと違う事といえば少し世界が霞んでいて、食パンがいつもよりしょっぱいくらいだった。
突然呼び鈴の音が鳴る。無機質な音が怠惰な空間に響き渡る。僕は重い腰を持ち上げて玄関へ向かう。リビングから出た瞬間に、声が聞こえる。
「御免下さい、上代奈良の母です。誰かいらっしゃいますか」
聞いたことのある声で聞いたことのある名前を呟いている。僕はその呼びかけに応じようと声を上げようとした。しかし、素振りの殻からは抜け出さなかった。何故かは分からないが、直感が、いや自分なのかも定かじゃない何かに、口を糸で縫われたように口が、というより喉が震えなかった。せめて扉を開けようと足を踏み出そうとしたが、誤って泥沼に足をもってかれてしまったように、動かなかった。扉一つの先にしているはずの声が、消えていく。
秒針が規則的に、音を刻む、その音が聞こえた。気がつけば、もう昼の11時を回っていた。しかし、僕は今まで何をしていたのかそんなことに考えを巡らせていた。僕は自分の部屋で呑気に寝転んでいた。何故呑気という表現を使ったのか、分からない。僕は欠伸をした、途端に吐いてしまった。吐かれたのは吐瀉物だけではなかった。
それから数日で僕ら家族はその町を出ることになった。父親が転勤になったからである。本当に突然の出来事だった。
あれから4年近くが経つ。あれ以来、自分が何であるか、自信が持てなかった。それが今、ひとまずの解を得ようとしている。
神社の鳥居の前に居たのは、僕だ。
何故なのか、それは自明の理だ。
「僕も、亀の被害者だったんだな」
僕は体の力が抜け落ちていくのを感じながらなんとか喋った。
「どうやら気付いたみたいだし、その様子だと限界そうだね」
八幡は強引に僕を木から引き摺り下ろした。
「僕は殺したんだ、人を、上代くんを」
八幡は無表情で尋ねてきた。
「どうやって」
「川に潜ったまま出てこないのを見限ったんだ」
「君は一度も助けようとしなかったのかい」
「一度潜って、気付いたら陸に上がっていた」
八幡は例のような鼻笑いではなく、大きく高らかに笑った。腹を抱えて言った。
「安心したよ、まあもとより心配なんてしてなかったんだけど」
「何を言って」
八幡は僕の呼吸を待たずに言った。
「僕がなんと言おうと、結局は君の受け取り方次第だから、参考程度に聞いて欲しい。そろそろ君も、妖怪の類に慣れて来ただろう。君は過去の事実を知った以上知らなければならない事があるんだ」
待ってくれ、八幡。僕は自然と、無意識に、僕の意識とは別に耳を塞いでいた。
八幡は言った。
「手をどけなよ、蕪木くん、君自身の意識で」
そんなこと言われても。僕は言った。
「俺にはできない」
八幡は訝しげに目を細めて言った。
「自我が混合してるみたいだね、それなのになりかわろうとしないのは生き永らえようということかな」
自己の存在が薄まるのに耐え切れなくなったのか、亀は後ろからこう言った。
「滑稽だな、まさに寄生生物、最もそれが鳥の本質なのだが」
八幡は瞬間的に手を組んだ。冷たいような暖かい風が吹いてきた。
「蕪木くん、手助けはするけど、君自身で君の意識で気づく必要がある」
何に気づかなくてはならないのか。いや、分かっているのかもしれない。まるで何かに閉ざされた僕の意識の中で、それを自覚している、はずなんだ。何か。
八幡が僕の頭を触る。とてつもない圧迫感、今すぐ離れろ、と命令されている。毛が逆立ち、心臓の拍動がまるで言葉のように聞こえる。
逃げてもいいよ。そんなふうに囁かれている。
婉曲とは程遠い程に確かだ。僕が後退りしようとした瞬間八幡は言った。
「蕪木くん、君は、誰なんだ」
何を言って、そんなの決まっているだろう。
「僕は」
自分の手足がはためく音が水の中で響く。これはきっと僕の意識の外で行われている事なのだろう。じゃあ誰が、僕は多重人格だったのか。それだけでは説明がつかない。この翼は一体何だろうか。そして次の瞬間その翼は水中が故のぎこちなさを含みつつ、圧倒的力量で、水を弾き飛ばし、一羽ばたきで水面から浮かび上がるのではなく、水面を消しとばし、川の水面にできた歪な大穴の上でまさに鳥瞰していた。あまりに突飛な記憶が突発的に飛び込んできて、これは何の小説だと呆然としていたがこれが記憶と自覚している時点でこれは僕に関わる事なのだろう。
そしてふと、気がつく。川、ここは川。この命の危機のような、ぼくの人生の重要な局面において飛び出してきた記憶。
これは
僕か。
そして八幡の問いかけに対する答えは、解はこれだ。
「俺は、鳥だ」
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