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いつも同じ電車。
行きと変わらず車内は混みあっている。
仕事終わりの人。
部活終わりの学生。
遊びから帰る人。
混み合っているのと同時に、車内は色んな会話で朝より賑わっていた。
いつもと同じ場所に腰を下ろして、
はァ、とため息をついた。
一日が終わった、という安心感が、少しだけ体を軽くする。
顔を上げると、向かいの窓に自分の姿が映っていた。
疲れた顔。
少し猫背になった姿勢。
毎日見慣れているはずの、帰宅中の自分。
……の、はずだった。
電車が揺れる。
窓の中の自分も、同じように揺れる。
その奥で――
もう一人、立っているように見えた。
反射だ。
ただの映り込み。
後ろに立っている誰かが、重なって見えただけ。
そう思って、振り返る。
けれど。
自分の背後には、吊り革が揺れているだけで、
誰も立っていなかった。
もう一度、窓を見る。
そこには、ちゃんと自分一人しか映っていない。
電車は次の駅に滑り込む。
ドアが開き、人が乗り降りする。
さっきまでの違和感は、
雑踏の音の中に、簡単にかき消されていった。
――ただ。
発車のベルが鳴ったとき。
耳元で、誰かが小さくため息をついた気がした。
自分と、まったく同じタイミングで。
ぼんやりしてるうちに電車は最寄り駅に着いた。
さっきのため息はなんだったのだろう…
考える事はしなかった。
改札を出ていつもの帰り道、いつもと変わらない歩幅出歩く。
スーパーの店内音楽。
コンビニの入店音。
今は全ての音が遠く聞こえる。
家に着いて靴を脱ぎ、カバンを下ろした。
スーツを脱いで、ハンガーにかけて
私はお風呂に入り、髪を乾かした。
その時、ふと思った。
もういいかも。
ドライヤーの音だけが、洗面所に響いている。
温風が頬に当たっている感覚も、
指の間をすり抜けていく髪の感触も、
どこか現実味がなかった。
鏡を見る。
そこには、いつも通りの自分が立っている。
濡れた髪。
少し疲れた顔。
何も変わらないはずの、今日の自分。
――本当に?
ドライヤーのスイッチを切る。
急に静かになる。
静かすぎて、耳鳴りのような音が残った。
いや。
違う。
これは耳鳴りじゃない。
遠くで、何かが鳴っている。
カチ、……カチ、……カチ。
どこかで聞いた音だった。
思い出そうとした瞬間、
胸の奥がざわつく。
昨日。
会社で。
誰もいないオフィスで聞いた、あの音。
時計の音。
リビングに出る。
壁には、時計なんて掛けていない。
なのに音だけが、少しずつ近づいてくる。
カチ、カチ、カチ、カチ。
まるで。
部屋の中に、見えない時計があるみたいに。
音は、背後で止まった。
振り返る。
何もない。
ただ、自分の影だけが床に落ちている。
その影が。
ほんのわずかに、遅れて動いた。
影が、遅れて動いた。
一瞬だけ、呼吸の仕方を忘れる。
見間違いだと思いたかった。
もう一度、足を動かす。
影も動く。
今度は、遅れなかった。
……気のせいだ。
そう思ったときだった。
カチ。
音が鳴る。
そこで、すべてが止まった。
冷蔵庫のモーター音も。
外を走る車の音も。
さっきまで確かに聞こえていた生活の気配が、
きれいに消えていた。
静か、というより――
切り取られたみたいな無音。
スマホを見る。
画面には、18:10と表示されていた。
電車に乗った時間と、同じだった。
指で画面を触る。
時刻は変わらない。
もう一度、見る。
18:10。
秒が、進まない。
その瞬間。
知らないはずの記憶が、頭の奥に浮かんだ。
小さい頃の帰り道。
夕焼けの色。
誰かの声。
思い出しているんじゃない。
勝手に、流れ込んでくる。
まるで。
終わる前に、順番に再生されているみたいに。
スマホの表示は、18:10のままだった。
変わらない。
何度見ても、変わらない。
時間が止まっていることに、
不思議と焦りはなかった。
ただ、静かだった。
音のない部屋の中で、
ふいに、景色が重なる。
今いるはずのない場所。
昔の台所。
湯気の上がる味噌汁。
誰かの後ろ姿。
名前を呼ばれた気がした。
振り向こうとして――やめた。
振り向かなくても、それが誰か分かっていたから。
次の瞬間には、もう別の景色が混じる。
夕焼けの帰り道。
電車の窓。
何度も繰り返した、今日と同じような一日。
特別なことなんて、何もなかった。
でも。
それで、よかったんだと思った。
カチ。
また、音が鳴る。
時計の音。
遠くからじゃない。
すぐそばで鳴っている。
カチ、カチ、カチ。
視界がゆっくり暗くなっていく。
最後に見えたのは――
いつかと同じ、会社のデスクだった。
パソコンの画面を見つめたまま、
時間だけが過ぎていった。
夕方、続々と帰宅する社員が増える。
私はまだデスクの上で、パソコンの画面を見つめる。
午後十八時ーー
記録番号:001
対象者:佐倉美咲
終了確認時刻:午後六時十分
最終発言:「遅刻しないですか?」