レンズの曲パロです。
桃白
喉を締めて、沈めたはずだった。
弱い僕は、水の底に押し込んで、息ができなくなるまで数を数えて、それで終わりにしたつもりだったのに。
――見つけてしまったのは、君だった。
「初兎ちゃんさ」
柔らかい声。
いつも通りの、間違いようのない声。
「無理せんでええんやで」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がひくりと痙攣した。
無理をしている、と言われたわけでもない。
責められたわけでも、哀れまれたわけでもない。
ただ、見透かされた気がした。
「……無理なんか、してへんよ」
笑って返す。
癖になった、上手な笑顔。
欲しいものはわかっているから、その通りに生きてきた結果の、完成された表情。
君はそれを見て、満足そうに頷いた。
「そっか。ならいい」
それで終わり。
それ以上踏み込んでこない。
――それが、どれだけ残酷かも知らずに。
ないちゃんは、いつだって正しい。
正しい距離を知っていて、正しい言葉を選んで、正しい表情で笑う。
拍手喝采の大団円。
誰も傷つかない物語。
君の人生は、最初から最後まで、そういう筋書きでできている。
「初兎ちゃんの手、ちょっと筋張ってるな」
ある日、不意に言われた。
指を取られた。
何気ない仕草。
体温が、じかに伝わる。
「男の手って感じ。嫌いじゃない」
本当は。
本当は、その手は、何度も震えていた。
消えない傷が、いくつも残っていた。
夜中に爪を立てて、確かめるようになぞった跡。
でも君は言った。
「それでいいんだ」
「それがいいんだ」
――だから、信じてしまった。
君が笑う隣に、僕を置いてくれるから。
選んでくれるから。
必要としてくれるから。
喉に絡みつく糸の存在に、気づかないふりをして。
ありふれている日々を、君は彩った。
朝の挨拶、帰り道、コンビニで買う同じ飲み物。
どれも特別じゃないのに、君がいるだけで意味を持った。
それが、どれだけ危ういことかも知らずに。
「なあ、初兎ちゃん」
夜、並んで座っていたとき。
君は何気なく、こう言った。
「俺さ、幸せなんだ」
胸の奥で、何かが腐り始めた。
「……そ、か」
言葉が、遅れる。
君は気にしない。
「初兎ちゃんも、そうだろ?」
違う。
そう言いたかった。
でも、言えなかった。
欲しいものはわかっているから。
君が欲しい答えは、いつも一つしかない。
「……せやな」
その瞬間、胸の中で、膿が音を立てた。
「でもね、あのね」
言い訳の前触れ。
自分を守るための、曖昧な言葉。
それが、君の胸じゃなく、僕の胸で膿んでいく。
君は知らない。
知らないまま、幸せでいられる。
それが、どうしようもなく、許せなかった。
「君だけが幸せになれるなんて、思わないで」
声に出したわけじゃない。
喉の奥で、何度も反芻しただけ。
拍手喝采の大団円。
その景色を、壊してみたい衝動。
眺めながら、汚してしまいたい欲望。
――あの日みたいに、抱き合って。
「初兎ちゃん」
急に、腕を引かれた。
抱き寄せられる。
「どうした?」
大波乱さ、当然。
こんな感情を抱いた時点で、もう詰んでいる。
ともに誓い合った運命なんて、最初からなかったのに。
君は、勝手に未来を信じている。
背中に回された腕。
その力が、少しだけ強い。
――首に、糸が絡む。
「……ないちゃん」
名前を呼ぶ声が、震えた。
「ん?」
「……離して」
君は、少し驚いた顔をした。
でも、すぐに笑った。
「冗談だろ?」
ありふれているセリフ。
その口が、どうしようもなく嫌いだった。
「幸せでいて」
その言葉が、祝福じゃなく、呪いだと気づいたのは、その瞬間だった。
――これで、終わりじゃない。
まだ、夢は醒めない。
まだ、花は咲かない。
ただ一つだけ足りないものが、何なのか。
それに気づいてしまった僕は、もう戻れなかった。
夢は、醒めないままだった。
目を閉じても、開いても、隣にはないちゃんがいる。
笑って、正しい言葉を吐いて、正しい未来を信じている顔。
それが、どうしようもなく――歪んで見えた。
「初兎ちゃん、最近元気ない?」
心配しているふり。
本当に心配しているのか、それとも壊れていないかの確認なのか。
僕にはもう、区別がつかなかった。
「……そんなことないで」
嘘は、息をするより簡単だった。
欲しいものはわかっている。
君が欲しいのは、“平穏な初兎ちゃん”。
だから、その通りに振る舞う。
「それでいいんだよ」
君は言う。
いつもの調子で。
――それが、いちばん残酷だと知らずに。
本当は、ちょっとおかしいなって。
ずっと、気づいてた。
君の言葉は、いつも正しい。
でも、正しすぎて、逃げ道がない。
悲しむ自由も、怒る資格も、壊れる権利も。
全部、「それでいいんだ」の一言で奪われる。
「初兎ちゃんはさ、強いよ」
強い、という言葉が、嫌いだった。
弱い僕を、喉を締めて沈めたのは、僕自身だ。
でも、その沈みきれなかった残骸を、
君は「それでいい」と拾い上げた。
――拾い上げて、飾った。
ありふれている日々を、彩っていたのは、
君じゃなくて、僕の我慢だったのに。
「なあ、ないちゃん」
ある夜、僕は聞いた。
逃げ場のない問い。
「もしさ」
君はテレビから目を離さない。
「もし、僕が壊れたら、どうする?」
一瞬の沈黙。
それから、軽い笑い。
「何言ってんだよ。壊れるわけないだろ」
その言い切りが、決定打だった。
――ああ、そうか。
君の物語に、
「壊れた初兎ちゃん」は存在しない。
「……そっか」
胸の奥で、完全に何かが腐りきった音がした。
君だけが幸せになれるなんて、思わないで。
その言葉が、今度は、はっきりと形を持った。
拍手喝采の大団円。
周囲は君を祝福する。
優しくて、真面目で、正しい人。
誰からも愛される主人公。
その隣にいる僕は、
ただの背景だ。
「幸せでいて」
その言葉を、君はよく使った。
それが、どれほど身勝手な呪いかも知らずに。
――なら。
汚そうか。
拍手喝采の真ん中で、
その舞台を、ひっくり返そうか。
あの日みたいに、抱き合って。
いっしょに堕ちるなら、平等だろ。
「初兎ちゃん?」
声をかけられた瞬間、
僕は、もう決めていた。
「……なあ、最後にさ」
君は振り向く。
「お願い、聞いて」
その言葉に、君は微笑んだ。
「もちろん」
――ああ。
その笑顔が、いちばん嫌いだ。
「君だけが幸せになれるなんて、思わないで」
初めて、声に出した。
「……は?」
君の顔が、固まる。
「拍手喝采の大団円、惜しいやろ?」
僕は、笑った。
ちゃんと、君が好きな笑顔で。
「それほど、君に染まってたんや」
「初兎ちゃん、何言って――」
抱きしめた。
あの日と同じように。
でも、今度は、優しさじゃない。
「離して」
君が言う。
「離してって」
――遅い。
首に絡む糸は、
最初から、君が結んだ。
「もう少し、笑えばよかったな」
耳元で囁く。
「もう少し、話せばよかった」
君が暴れる。
「もう少し、触れたらよかった」
一つ、掛け違えた傷。
僕は、なぞるように確かめた。
「やめろ、初兎……!」
美化すんな、過去を。
あれは毒だろ。
「幸せでいて、なんて」
――呪いやん。
背信。
愛に、はい真犯人。
壊したのは、僕だけど。
作ったのは、君だ。
徒花みたいに、
綺麗で、意味がなくて、
散るしかなかった。
力が抜けるのを感じて、
僕は、ようやく手を離した。
君は、床に崩れ落ちる。
拍手は、ない。
歓声も、ない。
ただ、静かな終幕。
僕は、君を見下ろしながら思った。
――欲しいものが、いくつあっても。
足りなかったのは、
対等な愛だったんだな。
「でもね、あのね」
誰に向けるでもなく、呟く。
それでも、僕は君を想っていた。
最後まで。
夢は、醒めない。
花は、咲かない。
これで、お終い。
コメント
2件
…あのえっとすごい 曲の受け取り方?っていうか考察っていうか…ほんとにすごいなって 1フレーズにたくさん詰まってるみたいな感じ 自分が思ってる「レンズ」の受け取り方とゆいが思ってる「レンズ」の受け取り方ちがくて、 いい発見になりました👀がち目にすきです