日中はやっと温かくなってきたが、やはり陽が沈むと、スーツだけでは肌寒い。
しかも今夜は強風注意報だけあって、さらに寒い。
紫雨は風から逃れるように、コンクリート造りの階段に背をつけながら、軽く鼻を啜った。
オメガの腕時計は、22時を指している。
室井から連絡があり、現場の養生は19時前には終わったことは知っていた。
それから会社を出たとして―――。
(どこに行ったんだ?あいつ……)
林の性格上、あんなに紫雨に怒られた手前、自分から訪ねてくるなんてできないことは知っていた。
(だから来てやったのに…。あのバカ。どこをほっつき歩いてんだよ)
アプローチ練習に林が混ざると決まった時点で、ああなるような予感はしていた。
何も林のアプローチのレベルが低いのは今に始まったことではない。
それは、興味がないまま、経験がないままに、植え付けた膨大な知識と、彼自身が気づいていないプライドの高さに起因する。
おそらく学生時代、成績は良かったのだろう。
普段から読書をする彼は、情報の吸収や理解も早いし、それを自分でも知っている。
そのプライドが邪魔をして、営業としての技術を吸収するスポンジが機能していない。
そして何より一番に―――。
金子には、挑戦しようとする熱意がある。吸収し、成長しようとする精神がある。
しかし林は―――。
外観だけ取り繕うのに必死だった。
自分だって、篠崎だって、営業のことなんて誰も教えてくれなかった。
だが、誰に教わらなくても―――。
4年目の自分ならわかった。
客を本気で見ていたから。
本気で成績を上げたいと思ったから。
家づくりに、本気だったから。
そんなに本気になれない仕事を――。
(なんで無理して続けてるんだ、あいつは…!)
林の居場所はここじゃない。
林の輝ける場所はここなんかじゃない。
本人が気づかないまま、営業マンとして新谷にはとっくに越されて、金子や細越まで林のすぐ背後まで迫ってきている。
彼が後輩に追い越されて、ますます辛くなり、プライドが折られて沈んでいくのを、どうして特等席で見ないといけない。
(俺に言われなくても気づけよ。お前がこの仕事に向いてないんじゃないんだ。この仕事がお前に合わないんだって)
紫雨はこめかみをぴくぴくと震わせながら、寒い夜空にため息をついた。
(――げ。息白いんだけど…)
来週末から4月に入るというのに、冬が完璧に去るのはまだ先のようだ。
春は来なくても――――。
紫雨の電話が鳴った。
そのディスプレイを見て、目を細める。
「こいつは来るんだよな……」
紫雨はため息をつくと、通話ボタンを押した。
◇◇◇◇◇
『紫雨さん、こんばんは』
「――――」
その声に紫雨はまた白い息をついた。
『なんすかー、ため息で返事しないでくださいよ』
電話口の向こうの牧村が笑う。
「何の用だよ。毎晩声を聞きたいほど、俺お前のこと好きじゃねえんだけど」
『なんだよ、冷たいな。こっちは紫雨さんがタイプなのに』
「ゲイの“タイプ”は信用しねえことにしてんだよ。どうせお前、誰彼構わず言ってんだろ」
『そうそう、鋭い!言ってるんですよ!』
「――――!」
その後ろから聞こえてきたもう一つの声に、紫雨は危うく携帯電話を落としそうになった。
「―――おいてめえら、この期に及んで、また2人で一緒にいんのか?」
さすがに胸糞が悪くなってくる。
「どんだけ頭の中身空っぽなんだ、新谷。お前らのことを篠崎さんがどんな気持ちで許したか、考えたことあんのか……?」
寒さと怒りが合わさって、声が震える。
と―――、
『お前がそこまで俺のことを気遣ってくれてるとは思わなかったな』
「―――っ!!」
今度こそ紫雨は本当に携帯電話を落とした。
『ちょっと煙草吸ってくる。あ、俺のビール来たら飲んでいいから』
電話口の篠崎は、2人にそう告げると、かすかな息遣いとともに、騒がしい場所から屋外へ移動した。
『驚かせて悪かったな』
やっと落ち着いたらしい篠崎の低い声が聞こえる。
「……ちょっと理解が追いつかないんすけど」
紫雨はイラつきながら電話を持つ手を持ち替えた。
「なんで3人で飲んでるんですか?」
言うと篠崎はふっと笑った。
『牧村の送別会だよ。軽くな』
「だからそれが理解できないって言ってんですけど」
紫雨の憤りをよそに本当に煙草を吸いだしたらしく、篠崎のジッポライターの音が受話口から漏れてくる。
「どんだけ人間出来てるんですか、あんたは」
『はは』
「俺だったら絶対に許せないですけどね。半殺しにしてもまだ足りないかもしれない」
大真面目に言っているのに、電話口の篠崎は笑った。
『―――どうした。今日はやけに素直だな』
「―――はあ?」
『いつものお前なら、“これから3Pですか?俺も混ぜてくださいよ”とか言いそうなのに』
―――確かに。
なんで今俺は、こんなに熱くなっているのだろう。
『ま、俺はお前が思ってるほど人間出来てねえけどな』
篠崎は笑いながら息を吐きだした。
『俺があいつを誘ったのは、牽制だよ』
「牽制―――?」
『そう。牽制。見たところ牧村は悪い奴じゃない。俺との人間関係がある程度出来ていた方が新谷にはもう手を出さないだろうと思ってな』
「――へえ。恐ろし」
紫雨はそうつぶやくと、その場にしゃがみこんだ。
『――それはどうでもいいとして』
篠崎が落ち着いた声を出した。
『今日はうちの3人がお世話になったな』
「―――ああ。いいすよ。俺も気が付いたこともあったし…」
言いながら目を擦る。
『気づいたこと?』
「ええ。セゾンの仕様を他メーカーでやったら坪単価いくらになるか、なんて発想、俺にはなかったんでね。正直感心しました」
『ほう』
「金子も細越も、順調に新谷チルドレンになってて、将来有望ですね」
『そこは篠崎チルドレンって言えよ』
篠崎が笑う。
「―――それに比べて、うちのぼんくらは……」
言うと、あらかた話を聞いていたらしい篠崎は、少し間を開けてから話し出した。
『林と――話したよ』
「え、いつですか?」
思わず顔を上げる。
『おそらくお前が“すこぶる”怒りながら“辞めちゃえば”って言った直後かな』
「―――」
『偶然、展示場の外でぶつかってさ』
「―――へえ」
紫雨は開いていた膝を閉じた。
「あいつ、何て言ってましたか」
『―――直接話してないのか?』
「ええ。林のやつ、強風対策の養生に出てしまったので」
『そうか』
篠崎がふうと息を吐く。
紫雨も息を吐きながら空を見た。
『月がきれいだな。紫雨』
「……なんすかいきなり。こっちは強風で月どころじゃないすよ」
『――――』
「――――」
『―――林さ』
篠崎がやっと話し出した。
『自分がこの仕事に向いてないってお前に言われて、“そんなのわかってる”って言ってた』
「―――なんだその言い方…」
『あいつ、泣いてたぞ』
「――――」
仕事で?
たかが仕事で?
あいつが―――?
『ポーカーフェイスだからよくわかんなかったけどよ。あいつもあいつなりに悩んで、今、追い詰められてんじゃないかな、と思ってさ』
「―――――」
『もしお前が言った、あいつがこの仕事に向いてないって見解に、自信があるなら――』
篠崎は軽く息を吸い込んでから言い放った。
『お前がちゃんと、言ってやれ』
「―――最後通告を、ですか?」
『馬鹿』
篠崎の声が怒気を帯びる。
『お前が背中を押してやれって言ってんだよ』
「―――背中を押す?」
『”あいつが輝ける場所は別にある”お前が言ったんだろうが』
「――――」
―――俺が、言うのか?
会社が結論を出すんじゃなくて?
あいつが自分で決断するんでもなくて?
俺があいつの人生を決めるのか?
『篠崎さーん、もつ鍋なくなりますよー』
後ろから牧村の声がする。
『……俺からは以上!じゃあな』
電話はこちらの返事を待たずに唐突に切れた。
ツーツーツーツー
話中音が聞こえだしても、紫雨はそのまま携帯電話を耳に当てたまま、動けなかった。
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