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ふと菊は目を覚ました。どことなく体が重く気だるさを感じた為か苦しげに瞼を開けた時まるで知らない部屋だったことに驚いた。 見知らぬ天井、体を動かそうとするも足枷がつけられていると直ぐに分かった。鎖は長くはなくただ電気に照らされチカチカと光っている。足を引っぱればジャラジャラと音がしてうるさい。白いベッドの上で身動きも取れず見渡した際に見つけた部屋のドアをぼうっと眺める。足を伸ばし上半身だけを起こした状態で誘拐犯の現れを菊は待つ。物から推測することも愚か、この部屋には生活に必要な最低限の物しかない。相手の好みの物などは一切なくまるで菊の為だけに用意されたようだ。ただあくまで生活に必要な最低限の物というだけで菊の好みかと聞かれれば曖昧だ。なんにせよ菊には自分を誘拐した相手のことは一切分からない。
菊は国の化身であり不死身だが痛みは感じる。だからと言って拷問等をされたところで意味は無いし、それに今ではそんな戦争などをしている訳では無い。なんの情報を求めても菊に意味は無いし、政治をしているのは菊では無い。
それにしても暇である。何をする訳でもなく寝ること以外を許されない。手遊びも年寄りがやるには一人だと虚しいものだ。
起こしていた上半身を菊はぼふっと音を立てるくらいに勢いよくベッドへ倒した。時計もなく時間感覚が狂いそうだ。
コンコン
そんなふうに思っていた時にドアを叩く音が聞こえた。返事をしても意味は無いだろう。その証拠に容赦なくドアを開けてきた。どんな奴が誘拐犯かと眺めてみると、それは菊がよく知る相手だった。
「なんで、貴方がこんなこと……」
呆然とした。驚いている菊に誘拐犯はにっこりとした笑顔で答えてくる。
「起きてたんだ、おはよう菊」
お盆の上にティーカップが二つ。温かそうなその飲み物は恐らく紅茶だろう。湯気がでていて淹れたての様だ。
「フェリシアーノくん……」
「ん? なあに? あ、嫌いだった? ごめんね」
ベッドの隣にあった小さな机に小さな椅子。フェリシアーノはその机にカチャカチャと音を立ててティーカップを置いた。菊はそれを眺めると余計に訳が分からなくなりそうだった。
いつも天使のように愛らしく振る舞うような子だと思っていたのは間違いなのだろうか。男らしい所は確かに見た、だがこれはそれとはまるで関係ないだろう。
「い、え嫌いではないのですが、その」
「それなら良かった、そうだドルチェもあるの、持ってくるね、俺が作ったんだよ〜」
にこやかにまるで囚われた菊のことが見えていないかのように振る舞う。菊は動かない足をガチャガチャと動かすもその音さえないかのように笑ってみせるフェリシアーノに菊はゾッとした。フェリシアーノは菊に背を向けドアノブに手をかけると振り返り菊に深い笑みを見せつけた。
ゆっくりとドアが閉じられると菊はティーカップと共に部屋に置いていかれた。状況の説明もなしに友人に部屋に閉じ込められるなどなんということか、だが菊は思考を別方向に巡らせる。国の化身が消えたとなれば大問題だ。国民たちが黙っていないだろう。そのためいつかは見つけられる、はずだ。フェリシアーノがなにか手を打ってさえいなければ。
ただここから出なければという思考に至るも結局難しそうなことに自分の国民を頼るしかなかった。今のところ出れそうな気配はないし。と諦めると菊は改めて部屋を見た。
やはりつまらない部屋である。なにもない、わけでも無いが何かがあるかないかで言えば無いに近しいだろう。なんせ見渡す限りまっさらで近くにあるのは小さな机と小さな椅子。置いていかれたティーカップからは甘い香りと湯気が漂っている。ほのかに香る苺の匂いは菊のことを少し落ち着かせてくれるが現状、お茶をしたいという気にはなれない。
それからなんのことを考えていたのか記憶にない、適当なことを考えて暇を持て余していた。
コンコン
また意味をなさないドアのノック音が聞こえた。菊は俯きがちにただフェリシアーノが部屋に入って来るのを待っていた。諦めていると言わんばかりの瞳をそこに菊はドアが開いた音を耳にし横を向く、にこやかに甘そうなものを持ってくる。菊はその知らない食べ物に少しだけ興味をひかれた。
カタンと音を立てて小さな机に置かれたそれはフルーツが乗せられており、ピスタチオの匂いがする。初めて見たかもしれない、いや初めてだ。
「気になる? 」
素直に頷くとフェリシアーノはまたにこりと笑いいつものように優しく教えてくれる。フェリシアーノは菊が分からないイタリアの文化をイタリア旅行に行くたびに教えてくれた。
「カッサータっていうの、今回は果汁で湿らせたスポンジだけどリキュールでもいいよ、あとピスタチオのベースを練りこんだ……」
フェリシアーノは得意げに細かく説明し出す。それを話が長いだなんて思わずに真剣に聞く菊。フェリシアーノはそんな菊を愛しく見つめた。
要するにカッサータはシチリアの代表的なドルチェである。冷たいのでさっぱりしているドルチェ、置かれているストロベリーティーと合うだろうか。菊はぼうっとストロベリーティーとカッサータを見ていた。いつまで経っても手をつけない菊に対しフェリシアーノは痺れを切らし菊に話しかけた。
「食べさせて欲しいの?」
その顔は喜びの顔と言っても過言ではないだろう。嫌がるような顔ではなかった。でも喜びかと聞かれれば半分正解だろう。フェリシアーノは二人で茶会をしたい気持ちと菊に頼られているという幸福感で色々と曖昧なのだ。遠回しに早く食べろと言われた菊はゆっくりとティーカップをとる。紅茶から香る甘い苺の匂いにいつしかアーサーの所で飲んだ紅茶を思い出す。彼は本当に紅茶を淹れるのが上手い、素直に尊敬する。そんな思いからかふにゃりと菊の顔が緩んだのをフェリシアーノは見逃さなかった。
「きぃく」
「はい?」
紅茶の水面を見ていた顔をフェリシアーノに向けると菊はその顔を見るなりゾッとした。真顔で怒りが見える。フェリシアーノのこんな顔、今までに見たことの無い怖い顔に菊の指は微かに震えた。
「別の男のこと考えてたでしょ、その紅茶はあくまで俺が淹れたんだよ?」
フェリシアーノは紅茶と言えばという奴を知っている。勿論菊がそいつと仲がよろしかった事も。だがその二人は別に特別仲がいいわけでもなければ恋人同士と言う訳でもない。あくまでお友達だ。
フェリシアーノは勘違いをしているのか俺を見ろという顔でティーカップを持っていた菊の手に自らの手を重ねた。菊はその行動でぞわりと震えた。紅茶の匂いに安心していた心は震え怯えきってしまっている。
菊はフェリシアーノに言われるがままに行動する。カッサータを口に運ぶ時はフェリシアーノが美味しくできたんだと話しかけてくる時。食べるのを辞めると口に合わなかったかと問うてくる。まるで人形のような菊の手をするりと取って口付けをしてくる。その度に菊は生きた心地がしなかった。いつものフェリシアーノではないだろう。それに恋人同士という訳でもない彼にこんなことされる筋合いは全くなく、菊はそれに恐怖心を覚えるだけだった。
「フェリシアーノくん」
反感を買うようなことは正直言いたくは無いが菊はフェリシアーノに縋る思いで聞いた。
「私たちは、友達ですよね?」
その瞬間にフェリシアーノは目を見開いて菊を見た。怒りの顔だ。いつも閉じられている目が大きく開いた時、とてつもない恐怖心が菊を襲い、間違ったことを言ってしまったと焦る。震えが止まらなくなり、フェリシアーノも縋るようにそんな菊の手を握る。震えに気づけばフェリシアーノは深呼吸をしだして落ち着きを見せた。ああ、そうだ。よく考えてみればわかることでは無いか。普通のお友達なら菊を拐い監禁まがいなことはしない。いつも見せられる愛しそうにする顔はすぎた愛情の証拠だ。
フェリシアーノは菊と友達でいたい訳ではないのだ。その証拠がこの恐ろしい茶会と足に繋がる鎖である。まるで鳥かごに捕えられた鳥を愛でるかのように笑いかけられるも間違いを起こせば躾を施される。と言ってもその間違いはフェリシアーノ基準であり、地雷を踏めば菊は終わる。
だが会議にでなければいけない日はいつか来るであろう。その際はどうする気でいるのだろうか、まさか出さないつもりなのだろうか。
「あぁ菊、良くないよ逃げ出すことばっかり考えてる」
手首を乱暴に捕まれ呼吸を再度荒くしたフェリシアーノは酷く焦っている。怖い。菊にはそれしか思えなかった。全て見透かされている。茶会が進まずイライラしているのだろうか、無理矢理そんな茶会を開いて言うことを聞かせて何が楽しい。
フェリシアーノの手を無理矢理取らされて離されないまま無理矢理ステップを踏まされ踊らされているだけだ。菊の意思では無い。ただステップを間違えたら終わり。フェリシアーノは壊れて菊も道連れにされる。選択肢を絶対に間違えてはいけない。
骨が軋むほどの強い愛情。こちらを考えてくれないのに何が愛だと菊はもはや呆れてしまった。ただもちろん怖い。死にはしないけれど痛いものは痛い。死ねないことがもはや拷問かのようにフェリシアーノに何をされるか分からない事が心底恐ろしい。
そんなこと考えてはいないと否定しなければならない。それなのに小さく開いた菊の口はぷるぷると震えているだけで言葉は一切出なかった。
「否定して欲しかったな」
悲しげにそう言うフェリシアーノの瞳からはいつものような愛らしさは消え失せ鋭い瞳だけが菊を見つめている。きっとこんな状態で帰りたいなどとほざけば菊は確実に殺されかける。なんとしてでもそれは避けたかった。
「菊は笑ってればいいの、俺の手を取ってくれればいい、その足をいつか自由にさせてあげられる日が来たらタンゴでも踊ろう?」
フェリシアーノにはちゃんと捕らえられた菊が見えていた。それなのに笑っていてここから逃がさないと言うように話しかけてくる。きっと菊が抵抗しないようになるまでだ。足が自由になるのは信頼を勝ち取った時。故にフェリシアーノは理解をしている。なんと言ったって今の現状では菊が逃げ出すかもしれないということを理解していなければフェリシアーノはこんなことを言わないだろう。そんなの愛情でもなんでもない。
怪訝な目でフェリシアーノを見ているとフェリシアーノは不意に笑った。
「あはっ、はっ、うふふ、そっか、菊はタンゴなんて踊れないか」
そういう問題では無い。タンゴを踊れようが踊れまいが監禁されている事実は何ら変わらない。現に菊は半分諦めて足を無理に動かそうとせずご機嫌取りをするように紅茶を啜った。それに気付いたフェリシアーノはぱっと笑顔になった。穏やかそうに小さな机に頬杖をついて紅茶を飲む菊をただずっと見ている。フェリシアーノには菊が受け入れたように見えているのだろうか。だとしたら一切あっていない、不正解もいいところだ。
「ほんとに天使みたい、天使を連れ去らった俺は悪いやつだね」
なんてフェリシアーノはくすくすと笑いながら言うものだから菊は心の中で返事をしていた。
(人も国もさらったらまず悪い人ですけどね)
カッサータを口に放り込みよく噛んで味わって食べる。流石は美食大国、フランスに負けを取らない料理のうまさだ。どこかの立派な眉毛の国とは違って。
(彼も、紅茶だけは淹れるの上手なんですがね)
「きーく、きぃく?」
名前を何度か呼ばれ菊はハッとした。目の前には不満気なフェリシアーノがいる。先程怒っていた顔よりかは幾分かマシな顔である。
「口説き文句を聞かないなんてほんとに菊はダメだね」
「口説いて意味あります? 私に拒否権はないでしょう?」
「あははっ、言えてる」
なんて会話はなんとも最悪で、拒否権が無く困っているのは菊、そんな菊を口説いて笑うフェリシアーノは狂っていた。
「いつだっけ、菊がジェラート食べてた時」
「ありましたね、そんな日も」
フェリシアーノは思い出に浸るようにして話しかけてくる。
「あの時から俺アピールしてたのに気づかないってどういうこと?」
「……男同士ですし」
「ふーん」
菊の返答につまらなさそうな顔をしたままフェリシアーノは菊の手元からフォークを奪い取った。かと思えばカッサータを少々荒く取ると菊の口元にちかづけてくる。
「あーん」
「は? え、ちょ」
「ほら、早く食べないと落ちちゃうよ?」
フェリシアーノは意地悪そうにフォークをわざと揺らしながら菊が食べるの待っている。それも本当に今にでも落ちそうなほど揺らして
「美味しかったでしょ? もっと食べてよ♪」
確かに菊の口にはあったがいくら二人きりだと言えど少々菊にはハードルが高く気恥しかった。菊はフェリシアーノの豹変っぷりに少しの苛立ちを覚えながら食べ物を無駄にする訳にもいかずフェリシアーノにノった。
「いい子」
カッサータを言われた通りに食べるとフェリシアーノはそう言い放ち頭を撫でてきた。菊の方が倍は年上だと言うのに。菊は抵抗して何をされるよか分からないため自身の頭を撫でるフェリシアーノの手を退けることはしなかった。
「……」
フェリシアーノはぼうっと菊を見つめている。菊はそれを不思議に思い首を傾げて見せた。
「菊にしては諦めるの早いね」
「諦めなんですかね、正直私の子供たちが無事ならなんでもいいので、それに」
菊はするりとフェリシアーノの片方の手を両手で握り上目遣いで語りかけた。
「フェリシアーノくんなら痛いことはよっぽどの事がない限り私にしないでしょう?」
これはお願いだ。媚びを売るような行動を菊はわざとしてフェリシアーノに痛いことをするなと言葉に忍ばせているだけ。私を幻滅させないでと言うような戯言をわざと口にすることでフェリシアーノが菊を幻滅をさせないための行動を図る。それを菊は狙っていた。だがフェリシアーノはそれに対して笑っていた。
「あはっ、はっ、あーー、菊ったら変なの痛いことして言うこと聞かせるって、そっか菊にはそんなふうに見えてるんだ、はっ、ははっ、分かった菊の望み通りにしてあげるよ」
フェリシアーノは菊の腕を掴んで来た。振りほどこうと思えばほどけるも足が動かせず逃げ場がない状態では疲れた時に抵抗ができないだろう。
「でもね菊、勘違いをしないでお願いだから」
「こんなことしておいて何を」
「俺は菊を失いたくないだけなの」
寂しそうな嫌な笑顔でそう言われるとどことなく心にくるものがある。簡単に失えるものではないだろう。菊は国であって、国が亡びぬ限り死ぬことは無い。そう考えた数秒間フェリシアーノは菊の腕を曲げ出した。
「痛っ」
「菊は痛みに強いでしょ?」
何年前の話をしているのか、今の平和的状況で菊が逢う痛みなんて底が知れている。それも軽い痛み。腕を変な方向に曲げられ折られる痛みなんて味わう方がおかしい。
「やめてください、お願い」
「菊が変な事言うからだよ」
そういうとフェリシアーノはパッと手を離した。痛みから菊は曲げられた腕をもう片方の手で抑える。
「折れたとしても明日には治ってるしね、ああでも流石にアルフレッドに酷いことされた時は治るの時間かかったね、大怪我で火傷も酷くて」
「やめてください」
惨めな気持ちになる。フェリシアーノは古傷を抉るようにして話す。内容はどれも国の化身の再生速度の話で酷い怪我を負わされるのではないかと思うと菊は震えが止まらなかった。
「大丈夫だよ、俺はそんな酷いことしない」
信用が出来ないそんな言葉にフェリシアーノを睨むことしか菊はできなかった。だがベッドから逃げられない菊はフェリシアーノの思うがままハグをされてしまった。出会った時のように押し返してしまいたいがフェリシアーノの力が強く、震えている菊の手では到底無理だった。
「……御手洗の事とか教えよっか、その足のままじゃ無理だからね」
急に話が変わり確かにそうだなと思いつつ震えは止まらなかった。フェリシアーノが言うにはできるだけ菊と行動したいらしくフェリシアーノがいる間はフェリシアーノを呼び鎖外し行動。いない時は長く行動範囲を広くできる拘束具を使うらしい。要するに菊は家から出なければいい。抵抗せずに鳥かごに捕まえられたままでいれば、そしてそのまま信用を勝ち取ればいい。
「服は今のところシャツしかないね、ごめんねお風呂は一緒に入ろっか、菊好きでしょ? お湯に浸かるの菊の家見たく大きくは無いけど」
勝手にすすめられる話に菊は適当に相槌を打って答える。話さないとそれこそ嫌な顔をされる。どうやらフェリシアーノは菊にお人形さんでいて欲しい訳では無いそうでいつものように振舞えと無茶を言う。
「んー、でもそうだね、ワフクがいいかも、そっちの方が菊らしいし今度仕立ててプレゼントするね、仕立てたものを贈る意味くらい分かるでしょ」
菊は二回ほどの瞬きで返事をした。作られた服を贈る意味は主に三つほどある。長らく生きてきたお陰かそのような知識は菊には十二分ほどあった。一つ目は純粋な「この気持ちを受け取って」という意味だがそれだけなら菊もフェリシアーノのことを可愛いと思えたろう。だが現段階ではどうだろうか? 可愛いなんて思えないほど恐ろしさが勝ってしまっている。
そして二つ目はこれもまた純粋に「自分の好きな服を着て欲しい」という意味がある。フェリシアーノはこの思いなのかはたまた別にある意味に沿っているのか、フェリシアーノに問われたことをしっかりと考える。それを嬉しそうに見つめるフェリシアーノ。
三つ目は現在のフェリシアーノにはぴったりな「その服を脱がせたい」という気持ちを表すという。そんなこと許すわけないが、まあ拘束されている今なら何をされてもおかしくはないだろう。
他の例を挙げるならば中世時代には女性から男性に贈れば結婚承諾を意味したと言われているが、結婚の話を持ちかけた記憶など一切ないのでこれは違うだろう。
「どれだと思う?」
「前後の会話としては自分の好きな服を着て欲しいかと思いました」
「せいかーい、まあ本当は全部を意味してるかな」
「はあ?」
真の正解は全てらしく、そんな回答に菊は心底呆れた。馬鹿げてる。それが素直な気持ちだ。
「菊のワフクってさ、綺麗だよね」
「急になんですか?」
「ふふ、ただの雑談だよそんなに怖がらないで」
怖がるなという方が無茶だろう。事実綺麗な琥珀のような瞳に魅入る要素はなく、見つめ合うことはしない。一方的な視線が菊を貫いており怒った時は何をするか分からない。四肢をもがれてもおかしくないだろう。「そんなことしない」なんて言葉を容易に信用することは正直できないと言えるだろう。信用出来るわけないだろうと顔に書いてフェリシアーノを見つめる。
「話すのが嫌なら少しだけきいていて」
するとフェリシアーノは急に立ち上がりドアに向かってノブに手をかけた。聞けと言うものだから何を話すのかと思いきやフェリシアーノは部屋を出ていった。訳が分からず静かに待っているとフェリシアーノは数分して帰ってきた。
「……ゔぁいおりん?」
「そう」
フェリシアーノはヴァイオリンと弓を持って帰ってきた。菊はフェリシアーノが奏でるヴァイオリンの音に興味を示した。目を輝かせていたのを理解したフェリシアーノは何やら弾き始めた。菊には曲の知識が世界にまで広げられているわけでなくどことなく心地よいが何の曲かは分からなかった。
どこからともなく知った知識にはヴァイオリンの曲など「G線上のアリア」程度しか知らない。詳細を言えばドイツのバイオリニストがバッハが作曲した原曲をG線だけでも弾けるよう編曲したことから親しまれているもので、その「G線上のアリア」は葬送や追悼に演奏されることが多いのだ。
そんなことを思い出しながら聞いていると、フェリシアーノは演奏をやめてはすぐさま菊に話しかけた。
「ヴァイオリンはね、十六世紀頃のクレモナでこの形のヴァイオリンができたの、元々弓でこする弦楽器はアジアからヨーロッパに来てヨーロッパでは独自に発達しててね」
豆知識のように説明しだすフェリシアーノは懐かしげに儚い笑顔をしていた。フェリシアーノが言うにはチェロ、ヴィオラもイタリア発祥のようだ。フェリシアーノは自分では上手く弾けないけどと言うもののやったことも無い素人の菊にして見ればプロにも見える。素直に伝えてもフェリシアーノはこう言った。
「だってローデリヒさんには敵わないよ」
「それは比べる相手を間違えていますよ」
「ううん、なにも間違えていないよ、素人な……例えば菊と比べてもなんの意味もないから」
事実ではあるがとても失礼な言い方をするフェリシアーノに多少の苛立ちを覚える。ただ菊は事実なため何も返せなかった。
「間違いではありませんね、剣術もそうです、フェリシアーノくんと比べる意味が無い、そんなことを言ってしまえば自分が一番になった際困りますよ」
「どういうこと?」
「比べる相手もいないのに追求しだす、極めることはいいですが、素直に疲れますよ、上と比べ続けててはね自分を認めてあげられませんから」
いつしか悩んでいた自身の子供にかけた言葉を菊はフェリシアーノにかけた。国は生きていれば人をも超える才能等が身につくだろうがそのせいもあるのか長らく生きているフェリシアーノも楽器を弾いて歌を歌い絵を描いてきた。どれも上手いのだ。人間よりずっと時間の余裕がある。その為か人間では話にならず比べる相手を人外に向けてしまっている。故に自分を卑下しているのだろう。ましてやオーストリアの化身であるローデリヒと比べるくらいには。
十八世紀後半のウィーンでは宮廷や協会による支援、それに劇場の発展、音楽教育の普及と聴衆の拡大、そして演奏会や舞踏会の発展。そんなことがあった中音楽文化が重層的かつ豊かに形成された。首都のウィーンは「音楽の都」と言われている。そんな国の化身と比べる方が間違いだ。
なんて思っていると俯いていたフェリシアーノが急に顔を上げ涙を目にためて置けないヴァイオリンと弓を交互に見つめ困っていた。
「……とりあえず置いてきては? ケースを持ってきていないのでしょう? よくそれでドアを空けれましたね」
泣きながらこくこくと頷くフェリシアーノは友人を監禁してるような人の顔には見えなかった。フェリシアーノは器用にドアを開けて部屋を出ていくと、恐らくヴァイオリンを片付けに行ったのだろう。足音が聞こえてきた。
よくよく考えれば高そうなヴァイオリンを持っていた。菊が見たことがあるのは自分の子供のバイオリニストのヴァイオリンくらい。それなりに裕福な子であったが、その子が言うには子供の頃からやらされるからとんでもないお金がかかるとのことだ。
要するに子供用のヴァイオリンもあるらしく、それもそこそこな値段で、大きさを成長するにつれて買うと総計でそれこそとんでもない金額になる。成長して普通の四分の四サイズになるそうだ。歴史が古ければ古いほどヴァイオリンの価値は高くなる、フェリシアーノが持っていたのはいくら位のものなのだろうか。
それに帰ってくるのも早く戻ってきてそうそうに弾き始めたということはチューニングも済まされているわけで、始めたばかりだと十分から二十分かかるそうだがフェリシアーノにそれがなかったということは手馴れていて一分程度で済んだのだろう。
(我ながらヴァイオリンに詳しいものですね……もう歳なのに、寧ろだからでしょうか?)
なんてそう時間もかからず考えているとドアの向こうからドタドタと聞こえてきては大きな音を立ててドアが開かれた。それにびっくりした菊は方を弾ませて後ろに下がった。菊は背中を壁にぶつけると痛いとため息混じりに呟いた。
「菊ーーー!!!」
勢いよく菊の方に飛び込んでくるフェリシアーノにハグをされた菊は変な声を出して苦しがった。泣いたあとをそのままにTシャツ姿の菊に縋り付き嗚咽を漏らすフェリシアーノ。
「やっぱり俺菊のそういうところ大好き」
「いやぁ、いつでしたかね、なんの楽器でしたっけ、吹奏楽の」
過去に悩んでいた自分の子供の楽器を菊は必死に思い出す。
「金管楽器? 木管楽器? パーカッション? コントラバスとか?」
悩めばフェリシアーノは考えてくれる。
「恐らく金管楽器です」
「そう、トランペットとか?」
「違います」
「チューバ?」
「いいえ」
「分かったホルン!」
「違います」
「んー、ユーフォニアム?」
「それです!!」
はっと思い出した菊はスッキリした。
それと同時に暫く監禁されたことなどを気にせずにフェリシアーノに寄り添おうと考えた。それでここから出られればなんて思いも菊には少しあったが。それ故に楽器の話で少し元気になれるならいくらでも話せる。
「あ、そうだ菊知ってる? チューバというよりテューバか……はねラテン語で管を意味してたんだよ」
「へえ」
フェリシアーノと話すと知らない知識が増えていく。それはとても楽しい事だったが現状はやはり監禁されているのでいつものようには心は弾まない。
「っと、ごめんね話が脱線してた、それからユーフォニアム奏者の子がどうしたの?」
フェリシアーノは菊の知らないことを教えるのが好きらしくとても幸せそうな顔をしている。顔には泣いたあとがあるものの菊の話は聞きたいようだ。
「おさげの女の子で、中学生からユーフォニアムを始めたそうでして、すごい努力をした結果とんでもなく上手い子になったんですけど、フェリシアーノくんと似たような事をいうので先程のように返しました」
笑ってそう言うとフェリシアーノは少し悲しそうな顔をした。嫌そうな顔で、菊に「ふーん」とつまらなさそうに答えた。
「どうされました?」
「俺だけにかけた言葉じゃないって、少しだけ嫌だった」
「私も長生きなんですよ、フェリシアーノくんだけに言った言葉なんて限られています」
「セキニン取れっていうのは?」
嫉妬の色しか伺えない瞳に菊は優しく気恥しげに答えた。
「フェリシアーノくんだけですよ……初めてなんですから」
そんな照れた菊の言葉にフェリシアーノは口を開けてぽかんとしたあと直ぐに顔を真っ赤にさせて喜んだ。フェリシアーノは菊を抱きしめたまま可愛いを連呼するので菊は呆れ気味にお褒めに預かり光栄ですと他人行儀な反応をして見せた。
「ああ、ほんとに可愛い」
そう言いながらフェリシアーノはさほど大きくもない菊がいるベッドに乗り込んではペタンと座り上半身の動きだけで菊に近づいたかと思えばそのまま触れるだけのキスを落とした。
「菊とこんな関係になること、ずぅっと望んでる」
菊はその行為に意味を持たせるのが少し恐ろしく、唖然と唇に指を触れさせることしか叶わなかった。ベッドに手を置いて掛け布団とフェリシアーノの顔を交互に見る。監禁をする意味を理解していたけれど急に口付けをされては困惑する。
「怖いよね、大丈夫痛いことはしないって誓うよ、俺は”菊が”好きだから」
なんて言っては寂しそうな笑顔をしてフェリシアーノは部屋から出ていった。菊は恐ろしかった彼が幼い子供のように見えた。もちろん監禁なんてされているので怖いに決まっているが恐れる意味は特にない上にフェリシアーノが菊に好意を持っている。それも恋愛的な。それは理解しているも普通に告白しないのは如何なものかと思う。すぎた愛と説明すればそれまで、なにか理由があるのかと考えればキリがない。菊は自分の子達に自分を見つけてもらうまでフェリシアーノに付き合うことにした。
それからというもの。
「菊、朝はパニーニだよ」
「ただいま菊」
「今日は絵のモデルになってよ菊」
「痛っ、なんでまだ抵抗するかなキスは嫌なの?」
菊は抵抗は少なからずした。付き合うと言っても監禁という行為のみ、恋人ごっこに付き合いたい訳では無い。口元に手がこれば噛む。キスをされても噛む。だがフェリシアーノはその報復はしなかった。そして抵抗するのも諦めてしまうほど月が経った時菊はフェリシアーノにあるお願いをした。
「いくら何でも暇なんです」
「ふーん? 俺といるのがつまらないってこと?」
「違います、フェリシアーノく……じゃなかった、フェリシアーノがいない間の話で」
その間抵抗をしなくなった菊に対しフェリシアーノは受け入れてくれたと捉えたのだろう。恋人のように呼び捨てをして欲しいと頼まれた。無理はしなくてもいいと望むように呼べと言われたが呼び捨てをすると少なからずいつもより喜ぶのがわかった。
「そっか、ダンスでも教えようか」
「え」
「その足、外してもいいよ、一緒に踊りたいから」
なんて言われて足枷外せるのだと喜ぶもここで抜け出したらフェリシアーノは怒るかもしくはとても傷つくだろう。一緒に暮らしてきて何となく分かるようにはなったものの、この家から出たい気持ちは正直未だにある。それにダンスはいつの日かタンゴを一緒に踊りたいと言っていた彼の願いでもある。
(……暫く付き合いましょうか)
「俺がいない間は復習、どう?」
「まあ暇つぶしになるなら」
「分かった、じゃあワルツの練習でもしよっか」
「え? タンゴじゃ」
「いつかアーサーにでも見せつけてよ、俺が教えたっていい顔したいから」
フェリシアーノは未だになぜだかアーサーを敵とみなしている。それも仕方のないことだと分かるのだが、他に相手は沢山いるだろうにとしか思えない。
「アルフレッドにでもいいよ、会う度に菊のこと聞いてくるし、菊とベタベタしてたし」
「理由が最悪ですね」
「なんとでも言って、菊になら全部許せるから」
なんてにこやかにお茶を用意し出すフェリシアーノはなんとも穏やかだった。そしてお茶を用意し終えテーブルに置くと直ぐに菊の足枷を外した。
「おいで」
手を差し出されその手を取る。フェリシアーノがずっと望んでいたことだ。
「菊の家にある歌の歌詞にもダンス用語があったね、ちょっと借りようか」
「はい?」
よく分からず疑問符をつけて返事をする。
「Chasse 開く・閉じる・開くという三歩のフィガーだよ、Q.Q.Sのリズムって言っても分からないか」
そんな専門用語を並べられてもわかるわけが無い。初心者にいきなりそんな専門用語わかるわけがないだろう。わけも分からず慌て出す菊。
「ごめんね、早とちりしすぎた基本のリズムを理解するところから始めようね、ワルツは三拍子の音楽に合わせるから」
ワルツは3拍子の音楽に合わせて踊るダンスであり、音楽を聞きながら、「一、二、三」とリズムを取って、特に一拍目を強調するのがポイントだとフェリシアーノは言う。リズムに慣れることで、体の動きもスムーズになるらしい。
「そしたらステップ、さっきのは特に基本ステップじゃないし基本からやろっか」
菊はなぜ基本から教えないのだと苛立つも言うことを聞いて説明をちゃんと頭に入れた。
フェリシアーノが最初に教えたのはボックスステップだった。まず前提としてフェリシアーノはリーダー、ステップの方向を決定してフォロワー、この場合菊をリードする役割のものだ。フォロワーはリーダーに合わせダンス全体をスムーズに進めるために重要なポイントに気を配ることが大切だ。
そのボックスステップは菊はフォロワーなため後退から始まる。リーダーは前進から始まるためフェリシアーノは右足を右斜め前に足を出す。
「菊、左足を後ろに引いて」
菊が言うことを聞いて後ろに足を引くとフェリシアーノは左足を右足に揃えた。それに合わせて菊も右足を左足に揃えた。
「そう、正解」
二人きりの何も無い部屋で二人で少しづつだが基本的なステップを覚え出す。フェリシアーノが右足を元の位置に戻せば菊も左足を元の位置に合わせた。
「今度は菊が前進するの、さっきと反対だよ」
するとフェリシアーノは左足を左斜め後ろに引いたため菊は慌てて右足を前に出す。するとまた互いにもう片方の足を揃えてまた元の位置に戻す。
「慌てないで、ボックスステップはこれで終わり、できてるから」
できたのかとホッとする菊、スムーズにできるようにもう一度と言われまた同じことを繰り返す。完全に慣れてボックスステップは安定してきた時フェリシアーノは回転を加えたステップをしようと言い出した。そしてリズムを合わせるためとメトロノームも加わった。フェリシアーノは菊のために数を数えてくれるそうだ。
「ナチュラルターン、右回転から始めよう」
「はい」
菊は指示に大人しく従うだけだ。
フェリシアーノが右足を前に出せば菊は左足を引く。
「九十度だけ回転するよ、俺に合わせて」
フェリシアーノは左足を横に出して九十度右に回転した。菊はそれに合わせ右足を横にだし九十度右に回転する。
「菊、左足を右足の傍に揃えてさらに少し回転」
その後も少しの指示を受けた通りに動くと回転が完了した。
「一、二、三、一、二、三」
もう一度と回転を始めると菊は自らの口で三拍子を数え出す。
「そう、上手」
褒められる度に少し気恥ずかしくなり嬉しくなる。これならワルツも悪くないかもしれない。手を合わせて腰を触られるも嫌悪感を抱いたりしない。
「リバースターン、ナチュラルターンの反対だよ、動きは特に変わらないから合わせて動いてみて」
無茶かと思われたが菊はフェリシアーノが左足を前に出すと右足を後ろに引き、右足を横にだし九十度左に回転すると左足を横に出して九十度左に回転した。本当にナチュラルターンの反対と言うだけで変わらずリーダーに合わせて逆方向に動けばどうにかなるものだった。
「フォロワーはリラックスすることが大事、あとは楽しんで、嫌なんて思わないで教えてあげるから」
フェリシアーノは菊を見るなりそんなことを言う。
「嫌だなんて思っていませんよ、フェリシアーノくんと踊れてとても楽しいです」
「それならよかった」
菊が本心を口にするとへにゃりとフェリシアーノは愛らしく笑った。事実だ。知らないことをこうして楽しく知れるのは嬉しいことである。ずっとベッドにいるよりずっとマシだった。
フェリシアーノが言うには先程のターンを連続することで三百六十度の回転を行いながらフロアを移動することができるらしい。
「体重移動を意識して、大丈夫、リラックスしたフレームを保つのが大事だよ、急がないで流れるように優雅に回転して」
一つ一つの指示を耳に入れては噛み砕く。踊りながら理解を深め、菊は優雅に簡単なステップを踏み出す。
「じゃあさっき言ったシャッセしよう」
「はい」
「シャッセはフランシス兄ちゃんの言葉で『追いかける』って意味だからダンスで追いかけるように踊るっていうの」
「最初からそのように言ってくだされば良かったのに……」
専門用語よりそちらの方が断然分かりやすい。菊は説明を聞きながらそう思った。日本人の菊からしてワルツなどアニメの中くらいでしか見た事がない。初めての体験はきっとこれからのいい趣味になるだろう。
フェリシアーノは拍子に合わせて右足を右に踏み出す。菊はそれに合わせて左を左に踏み出した。するとフェリシアーノは左足を右足に軽く横にスライドするように揃えた。
「菊、右足でさっきの俺と同じことをして」
菊は言われるがまま右足を左足に軽くスライドさせるように揃えた。フェリシアーノは右足をもう一度右に踏み出す。それに合わせ菊も同じく左足を出した。
「いい? 菊、シャッセは踏み出す、揃える、踏み出すって動きだよ、リーダーと調和してステップを踏む」
「はい」
「他にもシャッセには変化形もあるよ、慣れるにはまずゆっくり練習して少しづつスピードをあげよう」
確認されるように聞かれれば返事は「はい」のみだ。軽やかにステップを踏み出せるように練習を重ねることが必要とフェリシアーノは言う。菊は言う通りになんどもフェリシアーノをシャッセに付き合わせた。フェリシアーノは嬉しそうにその誘いを受け入れると菊より遥かに優雅に踊り出した。
「……そろそろウィスクでもする?」
長らくこれまで教えてもらったステップをしているとフェリシアーノは新しいステップを教えると言い出した。菊はその魅力的な提案に乗りフェリシアーノの手を取る。ウィスクはワルツや社交ダンスで使われるステップで、ペアが一緒にサイドに移動しながら、パートナーと体を少し開く、もしくはクロスする動きが特徴らしい。あくまでフェリシアーノの知識なため菊にはそれが正しいのかも分からない。
ワルツのウィスクステップは、基本ステップの流れを変えたり、次のステップにつなげるために使われて、特に「プロムナードポジション」などの姿勢につなぐ準備としてよく利用されるのだと説明を受けるもいまいちピンとこず、そもそもプロムナードポジションさえ分からない。
頭に疑問符だけを浮かべて言われた通りのステップを踏む。
覚えればすぐさまフェリシアーノは菊の頭にキスをおとしては「いい子」と褒め与えた。菊はそれに気恥しさを覚えながら文句を常に言っていた。
監禁をするような人に容赦は要らない。ただそれだけ。
「疲れたでしょ、ベッドで待ってて今カプチーノ持ってくるから」
一通り踊り終えた菊にフェリシアーノはすぐさま足枷を付けてはそう言った。いつものような口癖を聞かなくなるのはこの監禁されてる私を前にした時だけ。多分自身の兄の前ではそんなことはないのだろう。暗めな口調は彼の調子が悪いのかとこちらの調子まで狂わせる。
菊は言われたことに甘えとにかくベッドに座った。干してくれていた布団がふかふかで心地よい。
それにしてもフェリシアーノは不思議だ。抵抗をしても叱りつけたりする訳でもなく優しく困ったように微笑む。そして学ばないのか同じことを菊にしてくる。先に折れたのはもちろん菊でキスまでを許容している。フェリシアーノが言うには無理には何事もさせたくないらしい「菊」という存在が好きだからだと毎度言う。できれば恋人のように呼び捨てを頼むが難しいならしなくてもいいとも言ってくれている。目的が分からず菊は頭を抱えていた。
するとドアの奥から声が聞こえた。
「きくー、ごめんねドア開けられる?」
「はい、少し待っていてください」
フェリシアーノはきっとカプチーノの他にも何か持ってきたのだろう。相変わらず特に考えずに行動するところは彼らしくて好ましい所だ。
長い足枷をジャラジャラとならしてドアまで近づく、元々用意されていた一杯のぬるいお茶をちらりと気にしながらノブに手をかけた。
ガチャりと音を立ててドアをあげるとフェリシアーノはすかさず感謝を述べた。
「あとは自分でできるから菊は座ってて」
菊は言うことを聞いてすぐに監禁初日から増えた小さな椅子に座る。向かい合わせにある椅子はフェリシアーノの為のもので、それから小物も少しだけ増えた。相変わらず日差しが入る窓はないけれど。フェリシアーノは菊の前に少しづつだが近づいてくる。持っているカプチーノは一杯のみで、鼻歌を歌いながらフェリシアーノは準備する。
「その歌なんですか?」
「ん? これ?」
そう言った後にフェリシアーノは心地良さげに鼻歌をもう一度歌い出す。菊はそれに対して頷きながら返事をする。
「それです」
「Vieni Sul Marって曲」
「?」
イタリア語の曲なのは分かっていたが日本語訳くらいしてくれると有難い。正直イタリア語の意味が分からず菊はフェリシアーノに素直に聞く。
「日本語訳は?」
フェリシアーノはああ、と納得したらしくこれもまた詳しく教えてくる。
「海に来たれ」
「好きなんですか? その歌」
「んー、耳に残るんだよね」
海に来たれとはカンツォーネ(イタリア語で言う歌や歌謡を意味する言葉、日本ではイタリアの流行歌の意味)ナポリの民謡で、フェリシアーノの兄であるロヴィーノがよく歌っていたから耳に残っているという。エンリコ・カルの歌でジャンルはクラシック、イタリア語で意味は分からないけれど心地いい。
「Deh, ti desta, fanciulla, la luna spande un raggio s caro sul mar;」(ああ娘さん 目を覚まして 水面に月明かりが揺れる)
心地よさそうに歌うフェリシアーノに目を向けて菊は何やら思い出す。いつしか知った英語の曲なら、菊にも歌えるだろう。
「イタリア語ではありませんが、オズの魔法使いなら歌えますよ」
そう、オズの魔法使いの『虹の彼方に』なら知っている。菊も拙い発音で記憶にある限りでなら歌えるであろう自信がある。
「歌ってみて」
「ええ」
こくりと頷くと菊は口を開き、その低い声で歌を披露しだす。それをフェリシアーノは幸せそうに聴いている。
「Somewhere over the rainbow
Way up high
There’s a land that I heard of Once in a lullaby」(虹の向こうのどこか空高くに子守歌で聞いた国がある)
「Somewhere over the rainbow
Skies are blue
And the dreams that you dare to dream
Really do come true」(虹の向こうの空は青く
(じた夢はすべて現実のものとなる)
フェリシアーノは一通り聴いたあとに菊に「いい歌だね、どこで知ったの?」と聞く。
「私の子供たちがリコーダーで吹いたりするんですよ」
「へえ? そうなの」
「オズの魔法使いは有名ですからね」
なんて話していると、フェリシアーノが持ってきたカプチーノはぬるくなっていて、更にその前にあったお茶はすっかり冷たくなっていた。菊はドルチェの話をしだしフェリシアーノと二人きりの茶会を始める。
今日のドルチェはズコット。イタリアのトスカーナ地方の有名な都市フィレンツェでルネッサンス期に誕生したドルチェ。オーブンでスポンジケーキを焼き帯状に切り分けて半球形の型の内側にスポンジケーキの表面に焼き色をクーポラ(建物)の助に見立てて放射状に敷き並べて……以下略。ドルチェを知れば知るほどイタリアに詳しくなる上に説明が深々としてくる。いつしか一緒に作ろうと笑顔で言われて苦笑しながら作り方がいまいち分からないからと断ったのが理由だろう。
「今度一緒に作ろうね」
フェリシアーノはそう言いながら菊の額にキスを落とす。慣れるのにはそう時間はかからなかった。こういうものだと生活における習慣にしてしまえばそう苦でもない。
「……ねえイタリアくん、この前の会議は?」
「……ああ、それ?」
少し嫌そうな顔でフェリシアーノは答える。菊はビクビクとしながら頷く。
「いつも通りだよ、オオサカが来たの、でもやっぱりあくまで菊の代理だからね、決定権はオオサカにある訳じゃない、早く菊が戻って来ないと大変かもね」
なんて言いながらフェリシアーノは冷たいお茶を飲んでは片手で頬杖をつきながら笑って菊の焦る顔を見る。それを分かっているならば解放させて欲しいと思いつつカップの縁に沿って指をなぞる。
フェリシアーノは「あ、また」と小声でいいながらその仕草を見つめる。菊の癖になってしまったそれ、フェリシアーノの声を無視に続ける。ここから出す気は、果たしてフェリシアーノにあるのだろうか。菊は指を止めてちらりとフェリシアーノを見る。
「なあに?」
優しく甘ったるい声は耳に過剰な愛を与える。もはや痛いくらいに。愛の痛みを感じながら反抗するのもめんどくさく、言葉を発するのを辞めた。菊のことを好きだというフェリシアーノ、そのフェリシアーノは縛られたような愛を菊に与える。
「……」
黙り続けているとフェリシアーノは手を伸ばして菊の頬に手をやる。涙袋の当たりを親指で優しく撫でて菊はそれにくすぐったそうにする。
「大丈夫だよ」
何が? なんて言葉に出さずそんなフェリシアーノの手の上に菊は自ら手を重ねた。今自分たちの子はどうしているだろう。大阪さん、その他都道府県さん達は私が居ないのに、その他諸々を考えるのもそろそろ飽きそうだ。それくらい時間が経ってしまっている。
「きーく、俺を考えて、俺だけを見て、今だけは」
言う通りに手に向けていた視線をフェリシアーノの目に向ける。フェリシアーノの手からするりと手を離しているとフェリシアーノはもう片方の手を菊の頬にやる。両手で挟まれた頬をそのままにフェリシアーノをただ見つめる。
柔らかく唇が合さる感覚。
口付けを落とされるのは何回目だろうか。考えたこともない。最初こそ抵抗したがそのやる気はもうとっくに消え失せた。
唇が離れるとフェリシアーノは菊の少しづつ伸びてきた髪に手をやって手ぐしでとく。伸びてきたねと微笑みながら言われていつしかの古い記憶が思い出される。髪が長かった日西洋に合わせるように切り落とされた髪。なにかの呪物になりそうで自身の一部を周りの人と同じように捨てるのは怖くて家の奥にあるはずだ。
思い出すだけでそこまで気分のいいものじゃない。フェリシアーノは気分の悪そうな顔をしている菊に対して呑気に話しかけた。
「菊から俺の匂いが少しでもする時、俺(イタリア)に染ったしるしなんだって安心するんだ」
「……? はあ? そもそもここで生活してる以上フェリシアーノくんの匂いでは?」
そう思うだろう。同じシャンプーを、同じ洗剤を、同じ香水をとなんでも同じにすれば相手と同じ匂いになるだろう。これ以上のマーキングをしたいのかと菊は呆れてものも言えない。
「違うよ、菊は影響されやすいでしょ、アルフレッドが風邪ひいたら菊もひくのと一緒、菊は季節の匂いがする菊の匂い」
なんて言いながらフェリシアーノは立ち上がって座っている菊の後ろにゆっくりとくる。かと思えば菊の肩に腕を置いてそのまま顔を菊のシルクのような美しい髪にあてがう。
「ん、今秋だもんね、金木犀のいい匂い」
「……そんなことも分かるんですか」
「菊のことだぁいすきだから」
金木犀は香水や一部の庭園での鑑賞植物として扱われるが文化的な背景はない、その上南フランス以外では普及していない中国の花だ。日本には江戸時代に来た。そんな花でさえ把握していること自体が正直怖い。長生きしているから大抵の事は把握しているのかもしれないが、だとしてもだ。
なんて思っていると後ろのフェリシアーノが菊を抱き締めてくる。すると耳元で。
「俺が作った料理を食べて、俺で満たされて、同じお風呂に入って、同じ匂いになって、髪を長く伸ばして、俺が手入れして、俺が仕立てた服を着て、菊が全部俺のになったら俺は満たされるのに……」
その言葉に菊は返事をしなかった。
「でも、菊から菊の匂いがすると安心するんだ、俺が大好きな菊の匂いが誰に汚されるわけでもなく菊らしくいることが」
そういいながらフェリシアーノは抱きしめたまま菊の首元に顔を埋めているから菊はフェリシアーノの頭を撫でる。
「ん、もっと撫でて」
フェリシアーノはまるでさまよい続ける迷子のようだ。今とっている行動は菊をフェリシアーノ自身の色に染めてしまうことで、それと同じくらい大好きな”菊”という存在のまま誰にも汚されたくないという欲望がある。天秤にかけても同じ重さの欲望を片方だけ実行してももう片方も同じ重さなのだから満たされたくてたまらないだろう。同じ重さ=とんでもなく重いもの なのが苦しい原因だ。
だが菊は同情しかねる。それで監禁をされている被害者なのだから。
(私を私自身で在らせたいなら監禁なんてしなければいいのに)
「フェリシアーノくんは私にどうして欲しいのですか?」
菊は優しくそう尋ねた。まるで監禁でさえも許して、受け入れている仏のような心で優しさに満ち溢れたそんな言葉はフェリシアーノを甘やかし壊してしまいそうな物で。
「俺の告白を、断らないで」
予想外な甘いお強請り。監禁していることがあまりにも重く、無理やりにでも手に入れそうな行動からは全く想像できなかった。菊を菊という存在で在らせたいことは事実なのだろう。フェリシアーノはただただ菊を慰め優しい匂いを鼻にすることしか許されなかった。菊はそれに対してフェリシアーノに自身が何をしているのかを突きつけた。
「……監禁、していることを許してでも?」
「うん」
返事はそんなもので、さてどうしようかと菊が考えてフェリシアーノの為に菊の本心をただ口にする。
「どうか焦らずにいて下さったら、フェリシアーノくんの思い通りになったかも知れませんねえ」
そんな言葉に菊の首に顔を埋めていたフェリシアーノが顔を上げた。菊の顎にぶつかりそうになり声が出るもフェリシアーノは上げた顔で必死に菊を見つめた。
「え? どういう、こと?」
理解が及ばずフェリシアーノは菊に何度も尋ねる。菊は後ろから抱きしめられた状態をそのままに無視をしてお茶を飲んだ。
「ね、ねえどういう意味なの? 教えてよ、菊」
「そのままの意味ですよ、貴方が大人しく待って」
菊は己の人差し指で胸を指しながら。
「私に告白をしてくだされば、喜んで受けたでしょうね」
フェリシアーノはそんな菊の言葉に青ざめた。聞きたくもない菊からのフェリシアーノへの愛が耳に嫌でも入っている。
監禁したせいでどん底に落ちた愛のせいで、全て過去形にされた菊の口から溢れる愛はフェリシアーノを蝕み床にすとんと崩れた。フェリシアーノの頬に涙がつたる度に、菊は椅子に座ったままフェリシアーノを冷たい目で見下ろした。
「菊……じゃないみたい」
絶望しきって震えた唇から漏れだす言葉。
「あなたに恋していた”菊”は壊れましたからね」
「両思い、だった?」
「ええ」
「今の俺は、嫌い?」
「好きとは言えませんね」
「俺、どうしたら?」
「今まで通りでいいですよ」
絶望からでてくるぐちゃぐちゃな質問に冷えきった答えが淡々と出される。フェリシアーノさえもその時に壊れ、菊は未だに小さな口でお茶をすする。
「あなたに対して行ってきた行動は嘘ではありませんよ」
そう言うと菊は立ち上がり慰めるようにして絶望に触れた。
「菊は誰にでもそういう風にするから、大好き」
フェリシアーノは涙が止まらず嗚咽を漏らしてそういった。菊の慈悲深さ、誰に対してでも優しく人情深い。それに対しての尊さ。フェリシアーノの恋は全て本田菊という存在が誰に対しても優しく振舞ってしまうことによって生まれた。
「あなたの事を嘘でも好きだと言えない私でも?」
菊はそこまで自分を好きでいるフェリシアーノにそう言う。
「片思いだとしても、好きで堪らないの」
そう、堪らない。胸がざわめく。恋を知らせるこの心は体をムズムズとさせて、好きな人の事を想像するだけで笑みが止まず。時に嫉妬とは恐ろしいもので、自然と泣いたり怒りが込み上げてきたり、いっそ諦めて、この恋心が無くなってしまえばいいのにと思えるほどに苦しく美しいものだった。
「それは、依存ですよ」
そう、それは依存。フェリシアーノ自身が一番知っているそれ。
「それでもいい、今菊が好きって気持ちがたまらなく嬉しくて悲しい」
「やめてしまいたい?」
「……消えて欲しい」
「依存だからですよ」
菊はフェリシアーノの恋を依存だと言い張ってまるで諦めさせようとしてくる。仮にも過去好きだった男に対して優しさが見られるようで見られぬ。もしくは諦めさせてしまおうとしているのは菊なりの優しさかもしれない。苦しそうだから一思いにと。
告白を断らないで。そんな言葉への返事からこんなにも壊れてしまうフェリシアーノが菊にはどことなく美しく見えた。
「フェリシアーノくん」
「なあに」
「貴方が私を解放しない限り、私はここに居ますよ」
狂っている。その言葉がまさに当てはまるだろう。逃げてもいい、菊という存在を望むフェリシアーノなら今でなくてもそれを許すというのに。
「フェリシアーノくん」
「なあに」
質問は繰り返される。
「どうして欲しいですか?」
「……そばにいて」
「分かりました」
菊はフェリシアーノを抱きしめた。
デイジーはどこへ?
続く