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#勇者
りな
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岩盤の勇者と極小研究所世界最強の英雄と、蟻ほどの小人たちが築いた大研究所の物語
序章 世界が讃える英雄
この世界には、誰もが疑いなく「最強」の名で呼ぶ男がいた。
勇者。
世界最恐にして最悪と恐れられた魔王を討ち果たし、長く続いた暗黒の時代に終止符を打った、人類最高峰クラスの存在である。
魔王討伐の報が世界を駆け巡ったあの日から、彼はあらゆる国で、最高の英雄として讃えられてきた。大陸のどんな小さな村の広場にも、彼の姿を刻んだ像か、彼の名を冠した祭りの日が存在する。子供たちは彼の冒険譚を寝物語に聞いて育ち、老人たちは「生きているうちにこの平和を見られるとは」と涙を流して彼の名を口にした。
感謝は、言葉だけでは終わらなかった。
すべての国が、英雄である勇者に、国内のあらゆる施設を完全無料で使える特権を与えたのだ。宿も、浴場も、劇場も、図書館も、王立の闘技場も、港の定期船も、「勇者様からお代をいただくなどとんでもない」の一言で彼を迎える。
さらに、行く先々の王族たちは、競うようにして最高峰の宝を差し出した。千年に一度しか採れない宝石の首飾り。時の流れを緩める砂時計。風そのものを斬る名剣。持ち主を災厄から守るという秘宝の数々。どれもが、一国の財政を傾けるほどの代物である。気がつけば、勇者の手元に集まった宝物の総額は、数百兆円以上にまで膨れ上がっていた。
だが、当の本人はというと。
「……置き場所に困るな」
そう呟いただけで、あっさりと話を終えてしまった。勇者は金というものにほとんど執着がなく、自分がいくら持っているのかを数えたことさえない。国宝級の秘宝は家の一室に布をかけて積み上げられたままで、伝説の名剣は、ドアが勝手に閉まらないようにするための重石として床に転がっている。
そして、その勇者の容姿は、国宝級という言葉でも足りないほどに整っていた。
彫りの深い顔立ち。すっと通った鼻筋。切れ長の瞳。感情を表に出すことの少ない、涼やかでクールな表情。肖像画家たちは「どれほど筆を尽くしても本物の美しさには届かない」と頭を抱え、彫刻家たちは「神の気まぐれが生んだ奇跡だ」と嘆息した。街を歩けば誰もが振り返り、その横顔に見惚れてため息をこぼす。
しかし、その冷たくさえ見える美貌とは裏腹に、勇者の中身は驚くほど心優しく、温かかった。
道端で荷物をばらまいた老婆を見つければ、無言のまま歩み寄り、ひとつ残らず拾い集めて家の前まで運んでやる。泣いている迷子に出会えば、表情ひとつ変えずに肩へ乗せ、親が見つかるまで日が暮れても街を歩き回る。山火事の報せが届けば誰に頼まれずとも駆けつけ、逃げ遅れた人々を、ひとりまたひとりと炎の中から背負って連れ出す。困っている人を見つけると、考えるより先に身体が動いてしまうのだ。
助けられた人々は、最初こそ彼の鋭い無表情に「怒らせてしまったのではないか」と身をすくめる。けれど、ぶっきらぼうに差し出された大きな手の温もりに触れた途端、決まって胸を打たれるのだった。
第一章 神々の彫刻
その勇者の肉体について、語らねばならない。
背丈は常人より頭ひとつ半ほども高く、肩幅は、戸口を横向きにならなければ通れないほどに広い。胸板は厚く盛り上がり、腕は丸太のように太く、それでいて指先まで無駄なく引き締まっている。背中には幾重にも筋肉が重なり、脚は大木のごとく力強い。ただ大きいのではない。首から肩、腕、背中、脚に至るまで、あらゆる部位が余分なものを削ぎ落とされ、そのうえで限界まで鍛え上げられているのだ。その筋肉は「筋肉質」という言葉で片づけるには、あまりに密度が濃く、あまりに美しかった。
勇者が身に着けているのは、動きやすさを極限まで最重視した戦闘衣である。胸と肩を覆う布は必要最小限。腰には幅広の帯が巻かれ、下衣を支えている。そして、その二つの間——腹部の大部分は、惜しげもなく外気にさらされていた。
隠す必要など、どこにもないのだ。そこには、神々が数千年の歳月をかけて丹念に作り上げた彫刻としか思えない、世にも美しい腹部があるのだから。
まず目を奪うのは、腹筋の圧倒的な隆起である。
胸郭の下から帯の上端にかけて、縦に四段、左右に分かれて合計八つの筋肉の塊が整然と並んでいる。そのひとつひとつが非常に大きく、大人の掌をいっぱいに広げても覆いきれない。しかも盛り上がりの高さがただ事ではなく、塊と塊は深い溝によってくっきりと隔てられ、その溝は、指先が第一関節まで沈み込むのではと思うほどの深さを持っていた。見る角度によって、塊は四角く切り出された石のブロックにも、丸く磨き上げられた巨岩にも見える。
胸の中央から真下へまっすぐ走る縦の溝は、定規で引いたように一直線で、左右の塊を完璧な対称に分けている。横に走る筋目も同じように鋭く、どこにも曖昧なところがない。最上段の二つは胸板の下に張りつくように広く、段を下るほど塊は引き締まって厚みを増し、最下段の二つはとりわけ分厚く盛り上がって、帯の上端でどっしりと終わっていた。その両脇では、肋骨の下から斜めに流れる脇腹の筋肉が、削り出された急斜面のように力強く張り出し、胸の側面には、指を噛み合わせたような筋の連なりが、ぎざぎざと美しい紋様を描いている。
ランプの灯りや月光が斜めから当たると、その凹凸は一段と際立つ。隆起した塊の頂は光を受けて淡く輝き、溝の底には夜の渓谷のような濃い影が溜まる。呼吸に合わせてわずかに上下するたび、光と影の境目がゆっくりと移ろい、まるで生きた山脈が息をしているかのようだった。
肌は、磨き上げた大理石に温かな血が通ったかのように滑らかで、健やかな艶を帯びている。傷跡はひとつもない。無数の死線をくぐり抜けてきたはずの男の腹部には、細い線ひとつ、ほくろひとつ、乱れるところが存在しなかった。
そして、その中心に——勇者の腹部の美しさを決定づけるものがある。
おへそだ。
縦に細長く、すっと伸びたそれは、見る者の目を釘付けにするほど端正な形をしていた。逆さにした雫のように、上端と下端がなだらかな曲線で収束し、縁は一切の乱れなく滑らかに盛り上がっている。位置は、縦の溝のちょうど真ん中、三段目と四段目の塊のあいだ。窪みは清潔で、光を吸い込んだ影を静かに湛えており、肌の呼吸とともにほんのわずかに形を変えるさまは、彫刻家が最後の一刀で刻み込んだ、命の証のようだった。
見た目の美しさにも増して凄まじいのは、腹筋の「質」である。
勇者の腹筋は、最高品質の岩盤そのものだ。拳で叩けば、肉ではなく石を打ったような、硬く澄んだ音が返ってくる。筋肉の密度は常人の数千倍以上。薄い層が重なって厚みを成す岩盤のように、筋繊維が幾層にも積み重なり、その一枚一枚が信じがたい密度を誇っている。
ゆえにその腹部は、世界最高峰の鎧をまとっているも同然だった。
名のある剣士が全力で斬りつければ、刃のほうが欠けて砕け散る。大型のモンスターの牙も爪も、尾の一撃も、傷ひとつ残せずに弾き返された。竜の吐く業火は腹筋の表面でかき消え、巨人の振り下ろした棍棒は、触れた瞬間に木端微塵になった。そして、魔王が最期に放った禍々しい漆黒の魔槍でさえ、勇者の腹筋に突き立った途端、悲鳴のような音を立てて砕け散ったのである。
人々は語り継ぐ。勇者の腹筋に傷をつけられる者など、この世に存在しない、と。
——しかし。
そんな無敵の肉体に、たったひとつだけ、致命的な弱点があった。
腹筋を、くすぐられることだ。
力ずくの攻撃には、びくともしない。だが、羽根の先で撫でるような、ごく軽く繊細な刺激だけは、鎧の内側へするりと通り抜けてしまう。それは勇者自身だけが知る、誰にも明かしたことのない最大の秘密だった。もし魔王がそれを知っていたなら、世界の歴史は違うものになっていたかもしれない。
第二章 月夜の訪問者
その夜は、よく晴れた静かな月夜だった。
勇者の家は、王都の外れの小高い丘の上に建つ、質素な二階建てである。広くもなく、豪華でもない。夜風を好む勇者は、寝室の窓を少しだけ開けたまま眠る習慣があり、その夜も、揺れるカーテンの細い隙間から、月の光が一筋、床板の上に白く伸びていた。
ベッドの上で、勇者は仰向けに眠っていた。
今日もまた、遠い街で困っている誰かを助けてきたのだろう。深い眠りに沈んだ顔は、起きているときの鋭さがすっかり消え、穏やかで、無防備で、どこか安らいだ表情に変わっていた。長い睫毛が頬に影を落とし、寝息は規則正しく静かだった。暑がりの彼は毛布を腰のあたりまで蹴り落としており、短い寝衣の裾もまくれて、月光の下に、あの腹部がそっくりそのまま晒されている。
胸が上下するたびに、八つの塊がゆっくりと光と影を入れ替える。縦長のおへそが、淡い影の中で静かに息をしていた。
そのとき——開いた窓の隙間に、小さな影がひとつ、降り立った。
蟻ほどの大きさしかない、小人だった。
最初のひとりは、窓枠に積もった埃の上へそっと着地すると、背中の薄い滑空翼をたたみ、手にした小さな装置の画面を確かめた。それから振り返り、手を挙げて合図をひとつ送る。
すると、月明かりの夜空から、まるで季節外れの雪のように、数十、数百という小さな影が、ひらひらと舞い降りてきた。
その数、数百人。全員が揃いの銀灰色の調査服に身を包み、背には滑空翼、腰には見たこともないほど精巧な工具と装置、足には跳躍を助ける小さな反発靴。彼らは訓練された軍隊のように、一言も発さず、足音も立てず、窓辺から床へと滑空し、ベッド脇のサイドテーブルの脚をよじ登って、天板の上へ整然と集結していった。
寝室に響くのは、勇者の穏やかな寝息だけである。
本来なら、世界最強の勇者が侵入者の気配に気づかぬはずがなかった。彼は眠りの中でさえ、殺気や敵意には鋭く反応する。魔王との戦いの日々が、彼をそういう男に研ぎ澄ませたのだ。だが、この夜の訪問者たちには、殺意も、敵意も、悪意さえも、一片もなかった。あるのはただ、純粋で熱烈な、探究心と好奇心だけ。害意のない訪問者に、彼の本能はぴくりとも反応しなかった。
「班長、目標の生体反応、安定。睡眠深度は最深域です」
「うむ。……跳べ」
調査班長のトルクが低く指示を出すと、小人たちは一斉に天板を蹴った。足の反発靴が淡い光を放ち、小さな身体がひとつ、またひとつと宙を舞う。月光を横切る無数の影が、ふわりと、勇者の眠るベッドへ降り立っていった。
そこから先は、登山のようなものだった。
シーツは、彼らにとって果てしなく広がる白い平原である。その上を歩き、毛布の皺が作る小山をいくつも越えていくと、やがて前方に、巨大な「何か」が月光の中にそびえているのが見えてきた。
勇者の腹部だった。
蟻ほどの小人の目から見るそれは、もはや人の身体の一部ではなかった。地平線の向こうまで続く、ひとつの山脈だった。
ぬくもりを放つ、淡い蜂蜜色の巨大な大地。その表面には、八つの巨大な丘陵が、整然と、左右対称に隆起している。丘ひとつの高さは、小人たちの背丈の何百倍。丘と丘のあいだの溝は、いちど落ちれば決して這い上がれないであろう、深く暗い渓谷となって口を開けていた。
そして、その渓谷の中央——さらに深く、巨大な縦長の「裂け目」が、月の光の作る影のなかで、静かに息づいていた。
おへそである。
「……これが」
最年少の観測員、ピオが思わず息をのんだ。
「これが、英雄の腹筋……」
小人たちは、勇者の脇腹の斜面から、慎重に、その「大地」へと足を踏み入れた。
一歩目で、全員が目を見開いた。
足の裏に返ってくるのは、柔らかさというものが一切ない、驚くほど硬い手応えだった。陽だまりに温められた巨大な岩盤の上に立っているような、揺るぎない、絶対的な硬さ。それなのに、ほんのりと温かい。深い地の底から、生き物の体温がじんわりと染み出している。
足もとの肌を間近に見れば、それは絹のように滑らかな、微細な起伏の連なりだった。ごく小さな毛穴が星空のように規則正しく散らばり、その一つひとつを囲む肌理が、職人が磨き上げた石の表面のように細かく整っている。荒れもなく、傷もなく、わずかな乱れもない。清潔な石鹸の香りと、日向の石のような乾いた温かな匂いが、ほのかに立ちのぼってくる。
そして、大地の全体が、ゆっくり、ゆっくりと上下している。
息を吸えば、八つの丘が静かに持ち上がり、吐けば、静かに沈む。そのたびに、足もとの世界ごと小人たちの身体が持ち上げられ、また降ろされた。はるか地の底からは、トクン、トクンと、ひどくゆっくりとした重い鼓動が、遠い太鼓のように足の裏へ響いてくる。
「心拍、毎分二十八回……」
「眠っている状態で、この力強さか」
「世界最強の心臓だ……」
小人たちの囁きが、風の音のように、巨大な腹筋の上へ溶けていった。
調査班長のトルクは、最初の丘の頂に立ち、屈んで掌で足もとの肌をそっと撫でた。分厚い手袋ごしにも、その硬さと温もりがはっきりと伝わってくる。長年の調査人生で一度も出会ったことのないその「大地」を、トルクはゆっくりと見渡し、静かに息を吐いた。
「各員、持ち場につけ。……分析を始める」
第三章 完全分析
小人たちは、班ごとに散っていった。
腹筋は、ひとつの巨大な地形である。最上段から最下段まで、八つの丘のそれぞれに十二名ずつが割り振られ、縦の溝、脇腹の斜面、胸郭の下縁にも専任の班が向かう。おへその縁には、トルクが選び抜いた精鋭の一班が配置された。数百人の調査隊は、巨大な大地の隅々にまで、整然と広がっていく。
各自が背嚢から取り出したのは、人類の技術ではまだ作り出せないほど先端的な、超小型の吸盤式完全分析装置だった。小人たちの掌ほどの円盤で、縁にはぐるりと柔らかな吸着膜が巡り、中央には水晶のように澄んだ感知レンズが嵌め込まれている。
「第一班、設置」
小さな声とともに、円盤が肌へ押し当てられる。
ぷしゅっ、と空気の抜ける微かな音がして、吸着膜が肌の微細な起伏に吸いついた。装置は、八つの丘のひとつひとつに、縦の溝に、脇腹の斜面に、そしておへその縁に、次々と据えられていく。やがて勇者の腹部は、無数の円盤が点々と淡い光を灯す、星空のような姿に変わった。
「全装置、吸着良好。肌が滑らかすぎて、逆に吸いつきが完璧です」
「よし。……起動しろ」
トルクの号令で、全員が手元に取り付けた小さなボタンを、一斉に押し込んだ。
ぱっ。
小人たちの目の前の空間に、青緑色に淡く光る半透明の板が出現した。ホログラム式のタッチパネルである。虚空に張られた硝子のように浮かぶその板へ、小人たちは指を滑らせ、拡大し、スクロールし、次々と操作を始める。
数百枚のホログラムが、八つの丘陵と渓谷の上に、一斉に灯った。月夜の寝室で、勇者の腹筋の上に、青緑の光の海が広がっている。それはまるで、山脈の上に灯る夜の都市のような光景だった。
操作とともに、腹筋のありとあらゆる詳細な情報が、画面へと流れ込んでくる。
「……筋密度、出ます」
最年少のピオが、震える声で読み上げた。
「標準個体比、四千二百……四千二百倍です」
「は?」
「四千二百倍。小数点の位置は、間違っていません」
「装置の故障だろう。再較正しろ」
「もう三回、やりました」
沈黙が落ちた。解析主任のセラが、ピオの背後から画面をのぞき込み、頬を引きつらせる。
「……層構造、展開します」
セラが指で画面を弾くと、空中に、勇者の腹筋の立体模型が浮かび上がった。八つの塊が精巧に再現されたその模型が、断面を見せながら、一枚、また一枚と、層を剥がされていく。
「最表層は、ごく薄い弾性層。その下に、筋繊維が積層されています。層ごとに繊維の向きが少しずつ回転していく螺旋構造で……数えます。……百八層」
「百八、だと」
「石の薄板を、一枚ずつ向きを変えて貼り重ねたような構造です。木材の合板と理屈は同じですが、規模も密度も桁が違う。これは筋肉というより、天然の積層装甲です。まさに、岩盤が何層にも積み重なっている」
誰かが、ごくりと喉を鳴らした。
「硬度は」
「……我々の最硬合金、ヴァルナイトを上回っています」
「上回って、いる?」
「それどころか——測定上限を、突破しました」
別の班から、悲鳴にも似た声が上がる。
「こちら、衝撃吸収率も上限超過です! この溝、ただの凹凸じゃありません。衝撃が当たった点から、縦と横の溝に沿って全身へ分散する構造になっています。深い溝は、衝撃を逃がすための排水路です!」
「魔力伝導率、ほぼゼロ。魔法による干渉は、そもそも通りません」
「熱耐性、測定不能。表面温度は三十六度台のまま、一切変動なし」
「全表面、損傷の痕跡なし。微細な擦過傷すら検出されません。……この人、本当に戦ってきたんですか」
「戦ってきたから、これなんだろう」
トルクが、低く呟いた。
「表面の弾性、出ます。……変です」
「どう変なんだ」
「いちばん外側のごく薄い層だけは、わずかに柔らかい。人の肌の質感を、ちゃんと保っています。ところが、その直下から硬度が一気に跳ね上がって、深くなるほど硬くなる。勾配が、異常なほど急です」
「つまり」
「触れたときの感触は人の肌のまま、そのすぐ一枚下は、もう岩盤ということです」
トルクは、足もとの肌に拳をそっと当てた。分厚い手袋ごしに、軽く、コン、と叩く。石を打ったような澄んだ小さな音が響き、その直後、深い温もりだけが、掌へじんわりと返ってきた。
「熱分布、重ねます」
青緑の板に、勇者の腹部全体の熱が、橙色の濃淡で重ねられた。八つの丘の中心に、ほのかな熱の核が灯り、そこから、ゆっくりと外側へ、温もりが拡がっている。
「見てください。熱が、八つの塊それぞれの芯に、均等に溜まっています。まるで、岩盤の奥に、暖炉の火種を八つ抱えているみたいに」
「待ってください、班長」
ピオが、顔色を変えて画面を指さした。
「筋緊張が、ゼロです。いま、この人は完全に脱力している。力を入れていない、ただ眠っているだけの状態で、この硬度なんです」
小人たちは、一斉に息をのんだ。
もし、この男が目を覚まし、全力で腹筋に力を込めたなら。その硬さが、いったいどこまで跳ね上がるのか。誰ひとり、想像することができなかった。
小人たちの顔に浮かんでいるのは、もはや驚きを通り越した、畏怖に近い表情だった。数億人が働く研究所に選ばれた精鋭たちが、そろって言葉を失い、手元の数値と、足もとの大地を、何度も見比べている。
そのとき、おへそ班から通信が入った。
「こちら、おへそ班。形状データ、共有します」
空中に、おへその立体模型が重なって浮かぶ。縦に細長い、逆さの雫のような窪み。
「縦の長さは、我々の背丈の約百六十倍。深さは約六十倍。完全な左右対称で、縁の盛り上がりは全周で均一です。窪みの底に向かって、渦を巻くように滑らかな皺が収束しています。これほど端正な形状は、これまでに記録されたすべての生体データのなかに、ひとつもありません」
「……美しいな」
誰かが、思わず本音を漏らした。誰も、それを咎めなかった。
そして最後に、セラが、ひどく硬い声で言った。
「班長。一点だけ、おかしなデータがあります」
「言え」
「神経です。触覚受容器の密度が、標準個体比で三百倍近い。しかも、受容器は表層ではなく、積層装甲の最深部に、集中して分布しています」
「……待て。硬度も最大で、感度も最大だと?」
「はい。強い刺激にはまったく反応しない一方で、微弱な刺激に対しては、極端に敏感になるはずの構造です。……いわば、世界最硬の鎧の内側に、剥き出しの神経が敷き詰められている」
誰も、言葉を返せなかった。
最強の鎧の、いちばん奥に隠された、最も繊細な場所。それが何を意味するのか、まだ誰にも断言はできない。だが、トルクの目は、鋭く細められていた。
「……ボスが、何年も探し続けていた素体だ」
低い声が、青緑色の光の海に染み込んでいった。
「予測を、はるかに超えている。ここでは足りない。研究所へ運ぶぞ。……転送の準備をしろ」
第四章 白の部屋
転送係の小人たちが、ベッドのまわりに、掌ほどの環状の装置をいくつも据え付けていく。環と環が淡い光の糸で結ばれ、眠る勇者の身体の輪郭を、静かに包み込んでいった。
「検査員四名、同乗よし。残りの調査隊は、別環で観察室へ送る」
「転送、開始」
夜明け前の霧のような白い光が、ふわりと立ちのぼる。
次の瞬間——ふっ、と。
寝室から、勇者の姿が消えた。
窓辺のカーテンは、何事もなかったかのように夜風に揺れている。乱れたシーツには、人ひとりぶんの窪みと、わずかな温もりだけが、静かに残されていた。
そして。
白、だった。
転送の光が収まったとき、検査員たちの前に広がっていたのは、壁も、床も、天井も、どこまでも一面の、真っ白な空間だった。継ぎ目も、窓も、影さえもない。壁そのものが柔らかな光を放っているため、陰影のない純白の世界が、距離感を失わせるほど果てしなく広がっている。
ここは、研究所でも最重要の被験体だけを収める、超頑丈必須監視室。
壁は十七層の特殊合金で組み上げられ、床と天井にも同じ装甲が施されている。核爆弾を何倍にも強くしたものの直撃にさえ、傷ひとつ付かずに耐え抜くよう設計された、研究所でもっとも堅固な部屋だった。
この部屋ひとつのために、研究所は区画をひとつ丸ごと造り替えていた。天井ははるか彼方に霞み、床は小人たちの目には広大な白い平野にしか見えない。それは、彼らがこの日のために——「人間」という巨大な被験体を収容するために——何年も前から用意してきた、特別な空間だった。
その白い床の中央に、勇者は静かに横たわっていた。
仰向けのまま、眠りの中にいる。ベッドの上と何ひとつ変わらない、穏やかな寝顔。胸が、ゆっくりと上下する。純白の背景のなかで、淡い蜂蜜色の肌がひときわ際立ち、八つの丘陵は、白い光の下で、月光とはまた違った、くっきりとした陰影を描き出していた。
「転送、成功。被験体、覚醒の兆候なし」
「睡眠波形、安定。δ波、変動ありません」
検査員たちは、勇者の腹筋の上に降り立ち、あらためて、足もとの「地面」を見下ろした。何度見ても、現実感がない。
「こんなに穏やかな顔で眠る人が、世界を救ったのか」
ひとりが、ぽつりとそう呟いた。誰も、それに答えなかった。ただ、白い光の下で、勇者の寝息だけが、変わらぬ調子で響いていた。
その頃、研究所の上層階にある観察室では——。
白い監視室を見下ろす、階段状の大観察室。その正面は、光を通す特殊な隔壁、巨大な透明壁になっていた。監視室の壁と同じ強度の装甲を、透明な素材で再現した、研究所でも最高級の隔壁である。
その手前に、先ほどまで腹筋に取りついていた調査隊の面々が、光とともに次々と姿を現した。
「戻ったぞ」
「データがまだ流れ続けてる。続けるぞ」
隊員たちは席に腰を下ろすなり、手元のホログラムを呼び出し、分析の続きに取りかかった。観察室の空中には、先ほどまで腹筋の上に灯っていた数百枚の青緑色のパネルが、再び一斉に浮かび上がる。透明壁の向こうには、白い床に横たわる勇者の巨体と、その腹筋の上で働く検査員たちの、小さな小さな姿。
「実物は、やはり圧倒されるな……」
「データの上で見るのとは、全然違う。あの丘の、ひとつひとつが……」
壁の向こうの勇者の腹部は、観察室の席からでも、そびえる山脈に見えた。誰もが、手元のデータと壁の向こうの実物とを交互に見比べ、そのたびに、ほうっとため息をこぼした。
そして、勇者の確保を告げる報せは、この観察室を越えて、研究所の隅々にまで伝わっていく。
この研究所には、数億人という小人たちが、それぞれの役職で働いている。生体を解析する者、素材を調べる者、記録を取る者、装置を整備する者、膨大な情報を整理し続ける者。天を突くような塔の間を、光の軌道を走る輸送車が行き交い、幾千もの区画が昼夜を問わず稼働し続ける、巨大な都市。それが、ここだ。
「素体、確保」
その一報が通信回線を駆け抜けた瞬間、研究所全体が、ざわり、と震えた。
解析局の技師たちは手を止め、素材局の職人たちは顔を見合わせ、記録局の書記たちは、ペンを持つ手をわななかせた。数億の小人たちが、同時に息をのんだのだ。長い長い年月、この研究所の誰もが、ただひとりの存在のために、準備を重ねてきたのだから。
世界最強の腹筋を持つ、勇者。
その男が、いま、この研究所の中で眠っている。
第五章 採取
白い部屋では、四名の検査員が、いよいよ本来の任務に取りかかろうとしていた。
白衣に口元を覆うマスク、手には採取用の特殊器具。研究所でも選りすぐりの、採取のプロたちである。
「まずは、毛髪から」
ひとりが、勇者の頭部へと向かった。跳躍靴で白い床を滑るように駆け、仰向けの巨体を回り込んでいくと、やがて、白い床の上に広がる黒い海に辿り着く。
勇者の髪だった。
小人の目から見る髪の毛は、一本一本が、艶のある漆黒の太い縄のようだった。光を受けて濃い藍色の輝きを返し、その流れが、白い床の上で、深い川のように広がっている。少し離れて見上げれば、その先に、眠る勇者の顔がそびえていた。国宝級と讃えられたその横顔は、小人の目には、神殿の壁に刻まれた巨大な彫像のように見える。通った鼻筋は丘の稜線。閉じた瞼は、長い睫毛の影を白い床に落としている。
検査員は、その髪の海の中から一本を選び、根元に把持器をかけた。
「採取する」
ぷつっ。
小さな音とともに、髪の毛が一本、抜けた。
勇者の眉が、ほんのわずかに、ぴくりと動く。
検査員たちは息を止め、全員が一瞬、凍りついた。だが、勇者は目を覚まさない。数秒の後、眉間の小さな皺はほどけ、また穏やかな寝息に戻っていった。
「……採取完了。次は、腹部だ」
腹筋の上では、別の検査員たちが待っていた。中央の、もっとも大きな丘の上。そこに、先端に鋭い刃のついた「超振動削岩具」が据えられている。
「危険は?」
「ありません。人間には目に見えない大きさです」
「やってくれ」
検査員は、削岩具の先端を、岩盤のように硬い肌へ、静かに押し当てた。
スイッチが入る。
ガリッ。
甲高い音とともに、火花が散った。刃先が、一瞬で欠ける。
「……刃が、駄目になりました」
「予想通りだ。ヴァルナイト製の刃に替えろ」
新しい刃が取り付けられ、再び肌に押し当てられる。ゆっくりと、ゆっくりと、力がかけられていく。
ガリ……ガリガリ……ガリガリガリ……。
小さな、本当に小さな音が、白い部屋に響いた。長い時間と、気の遠くなるような根気の末に、岩盤は、ごくわずかなカケラを、ようやくその身から剥がしてよこした。
それは、小人たちにとっては、掌に収まるほどの大きさの、灰白色の結晶の破片だった。しかし、人間の目には、決して見えない。息を吹きかければ、どこかへ消えてしまうほどの、塵のような粒。その欠片を、検査員は専用の封入容器へ、慎重に納めた。
「腹筋片、一点。採取完了」
削り取られた箇所を、別の検査員がのぞき込んだ。
「……傷が、残らない」
「え?」
「削った跡が、もう見えない。表層が、ほとんど瞬時に閉じている」
肌は、何事もなかったかのように、つややかなままだった。八つの丘陵のどこにも、ほんの一点の乱れもない。
髪の毛とカケラは、封入容器ごと転送筒に収められ、分析局へと送られていく。それを見届けると、検査員のうち最年長の者が、手首の通信装置を起動し、研究所でたったひとりの人物へ回線をつないだ。
「こちら採取班。ボス・アギス。素体の確保、およびサンプル採取、完了いたしました」
数秒の沈黙。
やがて、通信装置の向こうから、穏やかで、それでいて底の知れない深さを持った声が響いた。
「……そうか」
アギスの声だった。
アギスは、この研究所に数億人いる小人たちのなかで、たったひとりの最高幹部である。あらゆる局の長が、その一言で動き、研究所のすべての研究が、その意思のもとにある。そして同時に、誰よりも長く、この日を待ち続けた者でもあった。
魔王を倒した勇者の腹筋は、いかなる刃も通さないらしい——そんな噂を耳にした日から、アギスの研究は、ただひとつの目的のために回りはじめた。世界最高の肉体の探究。そのための、最高の素体。何年も、何年も、アギスは、その一人が現れるのを待ち焦がれていたのだ。
「……映像を」
通信の向こうで、息をのむ気配がした。
「映像を、見せろ」
言い終わらぬうちに、観察室の巨大な透明壁に、白い部屋の映像が拡大して映し出された。横たわる勇者。八つの丘陵。静かに息づく、縦長のおへそ。
通信の向こうで、アギスが、ごくりと喉を鳴らす音がした。
「全員、部屋を出ろ」
「承知しました」
「誰も入れるな。……私が、行く」
検査員たちは、速やかに器具をまとめ、白い部屋の出口から、ひとり、またひとりと外へ出ていった。最後のひとりが扉を閉めると、白い部屋には、眠る勇者の寝息だけが、静かに残された。
第六章 アギス
誰もいなくなった白い部屋の、勇者の脇腹のすぐ傍らで、空気が、ぱっ、と白く弾けた。
瞬間ワープ装置の光だった。
光が消えたとき、そこにはひとりの小人が立っていた。
雪のように白い髪を背で束ね、琥珀色の瞳を持つ、この研究所でたったひとりの最高幹部——アギス。純白の長い外套の胸には最高位を示す紋章が輝き、手首には、最先端の瞬間ワープ装置が、銀色の光を鈍く返している。
アギスは、ゆっくりと顔を上げた。
視界のすべてを、ひとつの肉体が埋め尽くしていた。
仰向けに横たわる勇者の巨体。足もとの床から、ゆるやかに隆起する脇腹の斜面。その上に連なる八つの丘陵と、中央に静かに息づく縦長の谷。山の稜線のようにそびえる、厚い胸郭。そのはるか先に、眠る彫像のような顔。
アギスの喉が、ひくりと鳴った。
「……ああ」
吐息が、震えていた。
画面越しの映像でも、送られてきたデータでも、決して足りなかった。これだ。これこそが。何年も、何年も、思い描いてきたもの。
アギスの背筋を、冷たいとも熱いともつかない戦慄が、ゾクゾクと駆け上がった。指先が細かく震え、頬に血の気がのぼり、琥珀色の瞳が、宝物を見つけた子供のようにきらきらと輝く。口元が、抑えきれずにほころんだ。
「……素晴らしい」
アギスは、足もとの反発靴を起動してふわりと宙へ浮かび、ゆっくりと、勇者の腹筋の上へ降り立った。
そして、観察が始まった。
アギスは、急がなかった。むしろ一歩ごとに惜しむように、ゆっくりと、ゆっくりと歩を進める。琥珀色の瞳は、一瞬たりとも目の前の景色から離れず、まるで舌で味わうかのように、視線で、肌のすみずみを舐め回していく。
最初に見つめたのは、最上段の、左の丘だった。
胸郭のすぐ下に盛り上がるこの丘の稜線は、完璧な弧を描いている。頂は、白い部屋の光を受けて滑らかな艶を帯び、そこからなだらかな斜面を経て、深い溝の底へ落ちていく。その陰影の移ろいは、どんな名工の削り出した石像にも真似のできない、自然が生んだ曲線だった。
「……右の丘と、髪の毛ほどの差もない」
次に、縦の溝へ。
左右の丘を分かつ縦の溝は、近くで見れば、小人たちにとって、深く切れ込んだ巨大な谷である。谷の底は、すべらかな肌に覆われ、そこには、呼吸のたびに、さざ波のような微細な収縮が、静かに走っていた。眠っていてさえ、この肉体は、完全な脱力ではなく、ごくわずかな張りを、永遠に保ち続けているようだった。
アギスは、その谷に沿って、一段、また一段と、下へ降りていく。
二段目の丘。三段目の丘。丘のひとつひとつが、見上げるほどの高さで、アギスの両脇にそびえ立つ。その表面の肌理は、近寄れば近寄るほど細密に整っていて、どこにも綻びがない。呼吸のたびに、八つの丘がわずかに持ち上がり、沈み、そのたびに、アギスの足もとの大地が、ゆっくりと波打った。
ほのかな温もりと、清潔な石鹸の香り、陽だまりの石のような乾いた匂いが、立ちのぼる。
アギスは、しばし足を止め、静かに目を閉じて、その空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
やがて、アギスは、谷の中ほどに口を開けた、縦長の窪みの縁に立った。
おへそだった。
アギスの背丈からすれば、それは、巨大な縦長の洞窟——いや、神殿の入口のようだった。縁は、全周にわたって均一に滑らかに盛り上がり、その内側へ、なだらかに落ち込んでいく。窪みの底へ向かって、肌は、花のつぼみの内側のような繊細な皺を重ね、渦を巻くように静かに収束していた。
アギスは、縁に膝をつき、身をかがめて、その奥をのぞき込んだ。
窪みの底から、ほんのりと温かな空気が、呼吸のリズムに合わせて、そっと吹き上がってくる。
「縦に長いのは、データ通りだ。だが、実物は……」
アギスは、言葉を探して、しばらく黙った。
「……データには、この温度が、ない」
それから、アギスは立ち上がり、今度は横へと歩を進めた。
脇腹の斜面は、削り出された急斜面のように鋭く、その筋は、肋骨の下から斜めに腰へ向かって、力強く、しなやかに流れている。胸の側面に連なる、噛み合うような筋の紋様。その一本一本が、陽を受けた地層のように、美しい縞を描いていた。
最高だ。何もかもが、最高だ。
アギスは、ひとしきり歩き回り、八つの丘を、谷を、斜面を、おへそを、そのすべてを、これ以上ないほど丁寧に、じっくりと、舐め回すように眺め尽くした。観察室の透明壁の向こうからも、数えきれない視線が、その様子を見守っている。誰ひとり、声を出さなかった。
やがてアギスは、二段目の右の丘の前に戻ってきた。
そこで足を止め、まず、右の掌を、その肌にぴたりと押し当てる。
掌に伝わってくるのは、揺るぎない硬さと、ほのかな熱。アギスは、全体重をかけて、押し込んでみた。外套の裾が揺れ、足が床を踏みしめても、岩盤は、ほんの一ミリも沈まない。拳で叩いても、肘をぶつけても、結果は同じだった。力は、すべて跳ね返される。
「……やはり、力では、何も通らない」
アギスは、静かに掌を離した。そして——ゆっくりと、右手の人差し指だけを、伸ばす。
ツンッ。
指先が、岩盤のように硬い腹筋の表面を、ほんの軽く、突いた。
その瞬間。
ビクンッ!
勇者の身体が、大きく跳ねた。
八つの丘陵が一斉に収縮し、足もとの大地が、爆ぜるように波打つ。アギスは、反射的に宙へ舞い上がって難を避けた。白い床が、勇者の背中の衝撃で、わずかに鳴る。
「……んっ」
唇の隙間から、小さな、小さな吐息が漏れた。眉がひそめられ、指先が、床の上でぴくりと握られる。
観察室から、ざわっ、と悲鳴にも似たどよめきが起きた。
だが、勇者は目を覚まさない。
数秒の後、八つの丘陵は、ゆっくりと緩み、身体は、また元の穏やかな寝息に戻っていった。
静寂が、白い部屋を満たした。
アギスは、宙に浮いたまま、ゆっくりと、自分の指先を見つめた。
世界最強の鎧。剣も、牙も、竜の炎も、魔王の魔槍さえも、傷ひとつ付けられなかった、神話の腹筋。全体重をかけても、ミリも動かなかったその肉体が、たった指一本の、ほんの一瞬の接触で、ここまで跳ねたのだ。
データに、嘘はなかった。
アギスの唇の端が、ゆっくりと、吊り上がっていく。
ニヤリ。
「……見つけた」
アギスは、手首の通信装置を起動し、研究所の全通信回線に向けて、静かな、しかし逆らうことを許さない声で告げた。
「全通信装置に告ぐ。回収した腹筋のカケラと髪の毛の分析を、最優先で行え。すべての案件を中断して構わない。結果は、私にだけ、一秒でも早く報告するように」
その一言が、研究所の隅々まで、数億の小人たちへと、瞬く間に駆け抜けた。
解析局の無数の分析炉が、一斉に唸りを上げて起動し、素材局の職人たちが、全力で器材を回しはじめる。記録局は、他のすべての記録を保留した。塔の間を走る光の軌道では、サンプルを運ぶ輸送車だけが優先して駆け抜けていく。数億の小人たちが、ただ一粒の塵と、一本の髪のために、総力を挙げて動き出した。
その間にも、アギスは、次の準備を終えていた。
外套の内側から取り出された小さな保存筒のなかには、真珠のような淡い光を帯びた、小人たちの尺度でさえ砂粒ほどにしか見えない、極小の装置が収められている。
好きなタイミングで、何億種類ものあらゆる感覚を、自在に与えることのできる超小型装置。
撫でられる感触。羽根が掠める感触。風が吹き抜ける感触。冷たさ。温かさ。ごく軽い圧迫。微細な振動。——あらゆる「触れられた」という感覚を、皮膚の奥の神経へ、直接送り込む、世界でただひとつの装置。アギスが、長い年月をかけて完成させた、秘中の秘である。
アギスは、慎重に、その装置を、極細の針の先に載せた。
岩盤のように硬い腹筋は、力では決して貫けない。だが、アギスはすでに知っていた。百八層に積み重なった筋繊維の、層と層のあいだの、ほんのわずかな継ぎ目を。力ではなく、隙間を使うのだ。
アギスは、おへそのすぐ左上、三段目の左の丘の肌に降り立ち、超振動の極細針の先を、継ぎ目の位置にそっと触れさせた。
針が、微かに震える。肌の上に、目に見えないほどの隙間が開く。針は、力ずくではなく、まるで水が岩の割れ目へ染み込むように、層と層のあいだへ、ゆっくりと滑り込んでいった。
一層。二層。十層。五十層——。
勇者の寝息が、わずかに乱れた。
「……ん、……」
眉が、小さく寄せられる。腹筋の丘が、ひくり、ひくりと、かすかに痙攣した。アギスは針を持つ手を止め、息を殺して待つ。
やがて、勇者の呼吸は、また穏やかな寝息へと戻っていった。
「そのまま、もう少しだけ眠っていてくれ」
針は、さらに深く、深く潜っていく。八十層。九十層。百層を超え、神経がもっとも濃密に分布する最深部の、すぐ手前まで。
アギスは、針の先から、極小の装置を、層の隙間にそっと滑り落とした。
装置は、真珠色の光を一瞬だけ灯し、すぐにその光を消して、岩盤の中へと静かに溶け込んでいく。針を引き抜くと、層は、何事もなかったかのように、ぴたり、と閉じた。肌の表面には、どんな目をもってしても、跡ひとつ見えなかった。
最強の肉体の、最も奥深くに——世界でただひとつの、最悪のいたずらが、静かに眠りについた。
アギスは、手首の装置を操作した。空中に、小さなホログラムが灯る。
『接続、確立。感覚種別、四億二千万種。待機中』
淡い文字が並ぶ画面の下に、小さな、小さなボタンがひとつ。
アギスの指先が、そのボタンの上で、ぴたりと止まった。
「……まだ、だ」
小さく、笑う。
「焦る必要はない。時間は、いくらでもある」
指を引き、アギスは、足もとで眠る巨体を、満足げに、けれどどこか名残惜しそうに、もう一度見下ろした。
そして、手首の瞬間ワープ装置に触れる。
光が弾けた。
次の瞬間、アギスが降り立ったのは、研究所の最上層。アギスただひとりのための、最高峰観察室だった。
天井まで届く巨大な観測窓の向こうに、白い部屋と、その中央に横たわる勇者が、小さく、静かに見えている。壁一面に広がるホログラムには、八つの丘陵と、縦長のおへそ、そして、腹筋の最奥でかすかに瞬く、一粒の光点が映し出されていた。
アギスは、窓辺の椅子に腰を下ろし、ゆったりと脚を組んだ。
眼下では、世界最強の勇者が、何も知らずに眠り続けている。傷ひとつ付かない岩盤の腹筋の、いちばん深い場所に、たった一粒の、とんでもない贈り物を抱いたまま。
アギスは、窓の向こうの白い部屋を、静かに見つめた。
やがて、その唇が、ゆっくりと、意味深に弧を描く。
「……さて」
その声は、誰にも聞かれることなく、最高峰観察室の静けさの中へ、溶けていった。
「最初は、どんな感覚を贈ろうか」
コメント
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みぅです🤍🥀 第1話、読み終えました……。 まず、勇者の腹筋の描写がめちゃくちゃ細かくて、本当に驚きました。岩盤みたいに硬いのに、くすぐりだけが弱点っていうギャップがもう……癖になります。小人たちが調査する視点も新鮮で、おへそを「渓谷」って表現するのがすごく好きです。 アギス博士が出てきてからの空気感、一気に変わったのもゾクゾクしました。最後の装置、いつ使うんだろう……続きが気になって仕方ないです。グリルタさんの言葉の一つ一つ、ちゃんと受け取らせていただきました🌙