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16 - 第16話 第四章 消せない三つの傷 [ 結晶のような傷痕 ]

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2025年09月13日

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翌日、日付が変わる10分前にチカは美容室に到着した。

鍵を開けて店内へと足を踏み入れると、真っ暗な空間が迎え入れる。

誰もいない美容室。静けさが逆に恐怖を煽る。

チカは照明を点け、誰もいないことを確認してから、思わず口ずさみながら準備を始めた。恐怖を紛らわせるための、ささやかな自己防衛だった。

しばらくして、特徴的なバイク音が店の前で止まる。

その音を耳にしたチカは、急いでエントランスへ向かった。


「お待たせ」


開けたドアから入り込んだ冷たい風に混じって、ケンの体が小刻みに震えていた。

その寒さに、チカの眠気も一瞬で吹き飛ぶ。


「よろしくお願いします!」


恐怖と眠気が消えたその口元は、自然と笑みがこぼれていた。


「じゃあ、始めようか」


そう言ってケンはコートを脱ぎ、メイク用マネキンヘッドの前に立つ。


「まずは化粧水。次に美容液と乳液で肌のコンディションを整える」


チカはしっかりと頷きながら、その言葉をノートに走らせていく。


「次はベース作りの下地とファンデーション。これは必ず中指・薬指・小指、この3本を使って塗るのが基本」

「人差し指は使わないんですか?」

「人差し指は力が入りやすいから。メイクされてる側は、その力を敏感に感じて肌への当たりが強く感じてしまう。マネキンにやってみよう」


チカはファンデーションを手に取り、慎重に塗り始めた。


「塗り方は悪くないけど、ちょっと遅いな。それにスポンジの使い方、もうひと工夫欲しい。指は素早く動かして、でも力を抜いて柔らかく。スポンジは塗るんじゃなくて、細かく叩き込んで毛穴を埋めていく感じ。そんなイメージ」


見惚れてしまうほど細くしなやかなケンの指先が、滑るように動きながら、マネキンに命を吹き込んでいく。


「次はアイメイク。アイシャドウのコツは、まつげの際から入れて、少しずつまぶた全体にぼかしながらグラデーションをつくること」


チカがペンを走らせている間にも、ケンの手は止まることなく、マネキンの顔を彩っていく。


「じゃあ、フルメイクしてみようか。タイムは……30分」


一気に現実へと引き戻されたチカは、静かに呼吸を整えて頷いた。


「スタート」


メイクを進めるチカの横で、ケンは無言のまま、様々な角度からマネキンをじっと見つめる。

その視線が、チカの緊張感をさらに高めていく。


「ストップ」


ケンの一声で、張り詰めていた30分が終わった。

ケンはマネキンの顔を丁寧にチェックしながら言った。


「まだ練習は必要だけど……うん、いい感じ」


その言葉にチカは両手を上げて喜び、緊張の糸が切れてセット椅子に座り込んだ。

なんとかケンのチェックに合格し、深夜の練習は無事に終わった。

道具を片付け終え、時計を見ると午前2時を回ろうとしていた。

“もう少しだけ、この時間が続いてほしい……”

そんな思いを胸に、チカは帰り支度を始めていたケンに、前から気になっていたことを口にした。


「どこでメイクの勉強したんですか?」

「去年までニューヨークにいた。そこでメイクを学んだんだ」

「ニューヨーク!? すごい……住む世界が違うって感じ」

「いや、華やかな世界を想像してるみたいだけど、でも現実は真逆。アシスタントの頃なんて、給料が月300ドル。まともに飯も食えなかったよ。給料日前なんて、塩と水で空腹を誤魔化して……生きるか死ぬかの毎日だった」

「……すごいですね。それでもどうしてニューヨークだったんですか?」

「尊敬してる“ジェシカ”っていうメイクアップアーティストがいてさ。その人の弟子になりたくて、ニューヨークに渡ったんだ」


――尊敬できる誰かに出会い、全てを捧げるように自分を磨いた時間。

その過酷な経験が、今のケンを作ったのだ。



* * * * * *

最初の数か月は、荷物持ちや片付け専門のアシスタントとしての日々だった。

美容師と同じように、メイクにもステップごとのチェックがあり、それに合格してはじめて次の段階へと進むことができた。

モデルに触れることを許されたのは、ニューヨークに渡ってから3か月が経った頃。

やっとの思いで全てのチェックをクリアし、ようやくメイクアップアーティストとしてのスタートラインに立てた。

最初に任されたのは、中小企業のポスター撮影や、パーティーの専属ヘアメイクといった、小さな仕事ばかり。

けれど、ある日――

とあるパーティーで出会った人物から、ある仕事を紹介された。

“ミュージカルのヘアメイク”

その舞台での仕事が大成功を収めたことをきっかけに、仕事の幅は一気に広がっていった。

メイクアップアーティストとして少しずつ評価されはじめ、気がつけば、大手企業の広告撮影や有名ファッション誌のグラビア、さらに大規模なファッションショーまで、次々と舞い込んでくるようになった。

常にファッションやビューティーの最先端を走る街、ニューヨーク。

その最前線に、俺は駆け上がっていた。

次第にさまざまな業界の人たちが、俺のメイクに注目し始めた。

周囲には賞賛の声、期待の眼差し、肩書きと評価が積み重なっていく。


画像


――でも。

順風満帆に見えたその道は、ある日を境に、突然暗転する。

理由もわからぬまま、急に手が動かなくなった。

自分のメイクが、どうしても思うように仕上がらない。

そんな日々が、続いた。

そのとき、メイク中の俺を見ていたジェシカが、ぽつりとこう言った。


「ケン。あなたはこの人を綺麗にしてあげたいって、本気で思ってる?」


そのひとことが、胸の奥に深く突き刺さった。


「今のあなたが失ってしまってるのは、“人を綺麗にしたい”っていう気持ちよ」


言い返す言葉は、何ひとつ出てこなかった。

自分の内側にあったものすべてを、まるで透かし見るように言われた気がした。

いつの間にか、心の中から何かがこぼれ落ちていた。

“人を綺麗にしたい”という原点の想いが、“メイクをする仕事”という日常にすり替わっていた。

注目されることに、評価されることに、気づかぬうちに酔いはじめていた。

以前の俺は、自分がどう思われるかなんてどうでもよかったはずなのに。

――だってそうだろう?

アヤカにメイクをしたいって思ったあの日。

それは、報酬が欲しかったからでも、誰かに褒められたかったからでもなかった。

ただ、“綺麗にしたい”――

その一心だった。

あのとき、どんなに不器用でも、どんなに未熟でも、

必死でメイクを学んだのは、アヤカの笑顔が見たかったからだ。

心の底から、そう願ったからだ。

気づけば、そんな大切な気持ちを、自分は見失いかけていた。

俺は、メイクアップアーティストという“職業”に就いたわけじゃない。

メイクアップアーティストという“生き方”を選んだんだ――。

そのことを、思い出した。

その夜は一睡もせず、過去の自分と真っ直ぐに向き合えた。

いなくなってからも、俺を導いてくれるのは、いつだって――

アヤカだった。

* * * * * *



「だから今でも、アヤカにあんなことをしてしまった自分が許せない」


悲しい記憶という名の傷は、ときに、幸せだったはずの思い出までも塗り潰してしまう。

その痛みは、今もなお――あなたの心を縛り続けている。

けれど……少しずつ、変わり始めてる自分に、あなたは気づいている?


「メイクは楽しいですか?」


チカの問いかけに、ケンはほんの少し間を置いて、表情を緩めた。


「楽しくてしょうがない」


その声は迷いがなくて、澄んでいて、心からの答えに聞こえた。

だって――

今、私の瞳に映るあなたは、こんなにもキラキラと輝いて見えるから。

店を出ると、雪が静かに降り始めていた。

チカはそっと手のひらを空に向ける。

広げた掌に落ちてくる雪は、儚く溶けて、すぐに消えてしまった。


「危ないから近くまで送るよ」

「ありがとうございます!」


バイクを押すケンの横を、チカはゆっくりと歩く。

頬を撫でる夜風は冷たいのに、心の奥がじんわりと温かい。

少しずつ、近づいていく――そう感じられた距離。

“きっと、笑顔にしてみせる”

そう心の中で、強く、そう思っていた。

……あの、深く刻まれた、生々しい傷跡を――

見てしまうまでは。



【メイクチェック当日】

スタッフが円陣を組み、店長の声でアシスタントたちの肩に力が入る。


「それでは、チェックの合否を発表する」

「ヤス――ファッションカラー、合格」

「テツシ――グレイカラー、不合格」

「タカユキ――グラデーションボブカット、合格」

「ミサキ――メイク、不合格」

「チカ――メイク、合格」


ミサキが不合格だったこともあり、素直に喜べない自分がいた。


「勝者とは、諦めなかった敗者のことをいう。諦めないことが、勝利への近道だ。以上」


店長の言葉は、アシスタントだけでなくスタイリストの胸にも、ずしりと重くのしかかる。


「お疲れ様でした!」


チェックが終了すると、スタッフたちが一斉に休憩室へとなだれ込む。

ミサキは黙々と、メイク道具の手入れをしていた。

それを見たチカも、隣でそっと道具の片付けを始める。

沈黙のまま手を動かしていたが、ミサキの声と同時にその手が止まった。

「店長の言うとおり――諦めない! 次は絶対、合格してみせる!」

落ち込んでいると思っていたミサキは、意外にも笑みを浮かべていた。

その笑みに、チカも自然といつもの穏やかさを取り戻していく。

スタッフたちが次々と帰っていく中、ミサキはメイク道具を再び広げ、練習を始めた。

その隣のセット椅子に腰を下ろしたチカは、ケータイを開き、メールを打つ。


《今日のメイクチェック、合格しました!》


しばらくして、ケータイが小さく震えた。


《おめでとう》


ケンからの返信に、チカの頬がゆるむ。

その顔を鏡越しに見ていたミサキが、ふっと笑った。


《ありがとうございます! ケン君のおかげです!》

《突然なんだけど、今から時間ある?》


その一文に、チカの胸がわずかに高鳴る。


《ありますけど、何かあったんですか?》

《実は、ファッション誌の撮影で予定してた企画が急にボツになって、代わりに急遽コスメ特集を組むことになって。その締切が来週に迫ってるんだけど、モデルがひとり足りなくて。肌も白くて綺麗だし、顔立ちも整ってるから君にお願いできないかなって思った。もしもOKなら、今から会って説明させてもらいたい》


ファッション誌のモデル……。

褒めてくれるのは嬉しいけど、自分なんかに本当に務まるのだろうか。

胸の奥で、小さな不安がざわめいた。


《ちなみに、なんていうファッション誌ですか?》

《LonーLo。撮影は明後日の火曜日》


有名なファッション誌。

しかも火曜ならちょうど休みの日。

そして何より――ケン君にメイクをしてもらえるかもしれない。

不安と期待がない交ぜになり、チカは一度ケータイを机に置いた。

目の前の飲みかけの紅茶を一気に飲み干し、再び両手でケータイを握る。


《こんな私にできるかわからないですけど、やってみたいです!》

《ありがとう。それじゃあ、30分後に吉祥寺駅の公園口で待ち合わせしよう》

《はい!》


メールを送った後、チカは席を立ち、鏡の前に向かう。

鼻歌を口ずさみながら髪型を整え、グロスをひと塗り。


「いいことでもあった?」


ちょうどメイク練習を終えたミサキが、気さくに声をかける。


「今からケン君と会ってくる!」

「順調みたいだね! 楽しんできて!」

「ありがとう!」


スキップにも似た軽やかな足取りで、店を飛び出し吉祥寺駅へと向かう。

公園口に到着したのは、約束の5分前。

手袋越しに両手を擦り合わせながら、少し浮き足立った気持ちで待つ。

その間、つい頭の中で、勝手な妄想があれこれと膨らんでいた。

――が、ケンの声で現実へと引き戻された。


「お待たせ。こんな時間にごめん」

「全然大丈夫です!」


チカの表情は、自然と笑顔へと変わっていった。


「どこか入ろうか」


そう言って歩き出したケンの後ろ姿を、チカは上機嫌で追いかける。


「あら! ケンケン、いらっしゃい!」


馴染みのある声に、ケンは右手を軽く挙げて応える。


「お久しぶりです」


チカは、自分のことを覚えていてくれているか不安に思いながら、探るように頭を下げた。


「あなたは確か、この前ジュンジュンと……」


おばちゃんが珍しく困ったような表情を見せる。


「覚えていてくれたんですね! 先日はごちそうさまでした!」

「当たり前よ! こんな可愛らしい子、忘れるわけないじゃない! 今日もゆっくりしていってね!」

「はい! お邪魔します!」


席に着くと、ケンがふとチカに尋ねた。


「この店、来たことあったんだ?」

「はい。この前、ジュンさんに連れてきてもらいました!」


納得したようにケンが頷いたその時、カウンターの方からおばちゃんの大きな声が店内に響いた。


「ケンケン、いつものでいいの?」

「いや、今日は仕事抜けて来ただけだから、烏龍茶で」

「はいよ! あなたは?」

「私も烏龍茶でお願いします!」


チカも負けじと元気よく注文すると、おばちゃんは笑顔で厨房へと戻っていった。


「じゃあ早速だけど、今回の企画内容を説明するね。春の最新コスメの紹介で、そのコスメを使ってビフォーとアフターを撮影していく。撮影は午前11時スタート、場所は青山」

「――はい」


チカの表情に少し曇りが見えたのを、ケンはすぐに察した。


「不安?」

「少しだけ……」

「撮影は初めて?」

「はい。ヘアカタログの撮影現場にアシスタントとして行ったことはあるんですけど、モデルとしての撮影は初めてで……」


自信なさげに目を伏せたチカの声は、どこか頼りなかった。

そんなチカを見て、ケンがふと言った。


「俺がついてるから、大丈夫」

「――頑張ります!」


あなたの言葉は、いつだって不思議と心に強く響く。

それは、私の心の宝箱にそっとしまっておきたい――そんな、大切で幸せな言葉。

その後も企画の説明は続き、気づけばケンが仕事へ戻る時間が近づいていた。

店を出てケンを見送ると、先ほどまで胸を占めていた不安は、いつの間にかすっかり消えていた。

たった一言で、こんなにも穏やかで、心安らぐ気持ちになれるのは――

生まれて初めてのことだった。



【2006年2月21日(火)】

撮影当日。

青山の待ち合わせ場所に到着したチカは、ケータイを取り出し、到着を知らせるメールを打つ。


《着きました!》


すぐに返信が届いた。


《スタジオ抜けられないから、アシスタントを迎えに行かせる》


その一文を見た瞬間、一気に緊張が高まり、ケータイを握る手が微かに震えていた。

昨夜は緊張のせいでほとんど眠れず、目の下にクマができていないか気になって仕方がない。

そんな不安をかき消すように、後ろから声がかかった。


「チカさんですか?」

「はい」

「ケンさんの代わりに迎えに来たリョウタです。スタジオはこちらです」


彼が手で示す方向へと歩き出す。

案内されたのは、ガラス張りのオシャレなビルだった。

ビルの一角に掲げられた「A14スタジオ」の文字を前にして、チカの足が一瞬すくむ。

中へ入ると、そこには洗練された空間が広がっていた。

すぐ目の前ではカメラテストが行われており、フラッシュの光が眩しく弾けるたびに、チカの緊張はさらに高まっていく。


「こちらでお待ちください」


リョウタに案内されたヘアメイクブース。彼はそのまま液晶モニターの前に立つケンのもとへ向かい、耳打ちをする。

すると、ケンがチカの方へと歩み寄ってきた。


「休みなのに、ありがとう」

「いえ、全然!」

「もう少しだけ、待ってて」


そう言ってチカの隣に座っていた別のモデルへと向き直り、スキンチェックを済ませると、そのままカメラ前へと導く。


「まずはビフォーから撮っていくね」


カメラマンが優しく声をかけ、カメラを構える。

数回、シャッター音がスタジオに響いた。

撮影が終わると、モデルはチカの隣の席に戻り、ケンの手でメイクが始まる。

そのあいだも、別のモデルのビフォー撮影が続いていた。


「リョウタ。こちらのモデルさん、衣裳に着替えてもらったら、下地までお願い」


ケンは右手でメイクを施しながら、左手でチカの席を指さす。

手渡された衣装を受け取り、更衣室へと案内されたチカは、いつもの仕事着とはまるで違う、可愛らしいコーディネートに袖を通す。

着替えを済ませてブースに戻ると、すぐにメイクアシスタントが横に立ち、下地づくりが始まった。

隣では、ケンの手によって別のモデルが数分で完璧に仕上げられ、撮影ポジションへと立たされていた。

いよいよ、プロの現場での本番が始まる。


「まずはテストショットいきます」


穏やかなカメラマンの声とともに、シャッターの音が重なる。

パシャッ……ピーピー……

ケンはデジタルカメラの液晶に映った写真を確認し、小さく頷いた。


「じゃあ撮っていくね!」


カメラマンの明るい声とともに、フラッシュが何度も光を放つ。

ケンはモデルの様子を静かに見守りながら、やがて視線をパソコンの液晶モニターへと移した。

チカは、化粧水を肌に馴染ませられながら、その洗練された撮影の空気に息を呑んでいた。

――普段、何気なく眺めていたファッション誌って、こんなふうに作られていくんだ……。

感動とも呼べる気持ちに胸を打たれていたその時、一人目のモデルの撮影が終了し、スタッフからチカの名前が呼ばれた。

ビフォー撮影のため、メイクアシスタントに導かれカメラの前へ。


「君、肌に透明感があって綺麗だね!」


不意を突かれた褒め言葉に、チカの頬がふわりと緩んだ。

パシャッ……ピーピー……


画像


「可愛いから、モデルとしてやっていけそうだよ!」


さらなる言葉に、胸が高鳴る。

パシャッ……ピーピー……

声をかけられながら数カットを撮影し、ビフォーの撮影が無事終了。

プロのカメラマンは、やっぱりすごい。立ち位置に立った瞬間は緊張で身体が強張っていたけれど、明るく穏やかな声がけのおかげで、少しずつ心がほどけていった。

席へ戻ると、すぐにケンが横に立ち、優しい声をかけてくれる。


「お疲れ様。じゃあ、ヘアセットとメイクを始めるね」


その言葉と同時に、ケンの指先がチカの髪に触れる。

温かくて、柔らかい。

流れるような手さばきで髪を整え、顔のパーツひとつひとつに合うよう、緻密に、そして迷いなくメイクが施されていく。

鏡の中の自分が、みるみる変わっていくのが分かる。

まるで――新しく生まれ変わったみたい。

完成した自分の姿に、チカはしばし目を奪われた。

これが、本当の私?

自信がないと言っていた自分が、こんなにも美しくなれるなんて。

夢のような気持ちのまま、チカは撮影スペースへと案内される。


「お願いします」


ケンがカメラマンに声をかけ、いよいよ撮影が始まろうとしていた。

チカの膝が小刻みに震える。

緊張で、立っているのがやっとだった。


「まず、テストショットいこう!」


パシャッ……ピーピー……

デジタルカメラの液晶画面を確認したケンが、ゆっくりとチカのそばに近づいてくる。


「俺が近くで見てるから、大丈夫」


笑顔に変える魔法の言葉に、チカは小さく頷いた。


「じゃあ、撮っていくね!」


カメラマンがにこやかに声をかけ、再びシャッターを切る。


「メイクして、さらに可愛くなったね!」


パシャッ……ピーピー……


「いい感じ! やっぱりモデルの素質あるよ!」


パシャッ……ピーピー……


すべてが初めての経験で、驚きと緊張の連続だった。

今までは見る側だったファッション誌。その誌面の中に、自分が撮られる側として立っている――。

信じられないような、不思議な感覚だった。


「入ります」


ケンの声が響いた瞬間、シャッター音が一度止まる。

チカのもとへ向かう途中、ふと視界にかかった前髪を、ケンは自然な仕草で耳にかけた。

その瞬間――

スタジオのライトスタンドの光と交差して浮かび上がった、首元の傷。

白く変色し、まるで一部の皮膚が死んでしまったかのように点々と残るその跡は、まるで雪の結晶のようだった。


「お願いします」


ヘアとメイクを整え直したケンの声とともに、再びシャッター音が鳴り響く。

――変わった古傷。

大きな傷ではない。

けれど、なぜだろう。

チカの胸には、妙なざわめきが残った。

気になったのは、傷跡そのものではない。

その裏にある「理由」だった。


「ラスト! お疲れ様!」


カメラマンの声と同時に、緊張の続いた撮影は無事終了した。

席に戻ったチカは、張り詰めていた糸がぷつりと切れたように、椅子へと座り込む。高鳴っていた鼓動も、ようやく少しずつ落ち着いてきた。

しばらくすると、作業を終えたケンが近づいてくる。


「お疲れ様。疲れた?」

「少しだけ。でも、楽しかったです!」

「今日は本当に助かった。ありがとう」


そう言ったタイミングで、ケンのケータイが鳴った。


「ちょっと出てくる」


ケンは手短に言い、耳にケータイを当てながらスタジオの外へと出ていった。

チカは衣裳から着替えを済ませ、再び席に戻ると、誰かの足音がゆっくりと近づいてくる。


「お疲れさま! カメラマンのニヘイです!」

「お疲れさまです!」

「撮影のときから見覚えあるなって思ってたんだけど……この前の美容室の子だよね?」

「覚えててくれたんですね! 改めまして、チカと申します! よろしくお願いします!」

「うんうん、こちらこそよろしくね! これからもちょいちょい顔合わせるだろうし、俺のことは下の名前で“ユウさん”とでも呼んでよ。その方が気楽でしょ?」


あまりの親しみやすさに、チカは少し戸惑いながらも、どこか認められたような気がしてうれしくなった。


「それじゃあ、お言葉に甘えて……そう呼ばせていただきます」

「おっけーおっけー。そんなに堅くならないでよ!」


ユウは明るく笑い飛ばす。


「そうそう、ちょっと聞きたかったんだけど……チカちゃん、普段もスッピン派?」

「はい。マスカラを少しと、グロスをつけるくらいです。……どうしてですか?」

「いやさ、打ち合わせの時に、どんな子がモデルなのかケンに聞いたのね。そしたら、“食べ物でいうとスポンジケーキ”って言っててさ。“何も飾ってないスポンジケーキ”って」

「えっ……どういう意味なんでしょう?」

「俺も最初は意味がわかんなかったけどさ、ケンが言うには――『美しいケーキに生まれ変わる素質のある子』だって。生クリームとかイチゴで飾り付けすれば、見違えるほどになるってさ」

「なんか、芸術家みたいな表現ですね……」

「でしょ? あいつ、ちょっと変わってんのよ。でもね――」


ユウは言葉を選ぶように一拍置き、ふっと目を細めた。


「俺が趣味でやってる作品撮りのときもさ、ケンって、こっちがイメージしてたのとは違うものを仕上げてくるのよ。でもそれがまた、妙に良くてさ。楽しそうに、イキイキとメイクしてる姿を見てると、つい夢中でシャッター切ってる自分がいるんだよね。……だからかな。ケンと組むの、嫌いじゃないんだ」


その言葉のあと、ユウはやわらかい笑みを浮かべた。


「ケン、もうすぐ戻ってくると思うから、もうちょい待っててね」

「はい! ありがとうございます!」


やっぱり、誰が見ても魅力的なメイクなんだ――。

そんな感嘆が胸に広がった瞬間、チカのケータイが鳴った。


《ケータイ買ってもらったよ! ユウカ》


チカは思わずニヤけながら、ケータイを握りしめて返信を書き始める。


《連絡ありがとう! 今日は何してるの?》

《今日は週一の診察日だから、今から病院!》


そのタイミングで、スタジオに戻ってきたケンが、まっすぐチカのもとへ駆け寄ってきた。


「今日は本当にありがとう。昼飯でも誘いたいとこなんだけど、このあとまた仕事が入っててさ」

「大丈夫です! 私もこのあと、ユウカちゃんと会う約束があるので!」

「そっか。じゃあ、今度改めてお礼させて。ユウカにも、よろしく伝えといて」

「はい!」


また会える理由ができただけで、チカの胸はふわりと軽くなる。

ケンに見送られながらスタジオを後にしたチカは、再びケータイを開いた。


《私も病院に向かうから、少し会って話そう!》


そうユウカにメールを送り、電車に揺られながら病院へと向かった。



病院に到着したチカは、敷地内にあるベンチへと腰を下ろす。途中で買ったミルクティーを一口飲みながら、ユウカの診察が終わるのを待っていた。

5分ほど経った頃、病院の入口からユウカが姿を現し、笑顔で手を振りながら駆け寄ってくる。


「お姉ちゃん! 久しぶり!」

「久しぶり! 目の調子はどう?」


返事を聞くまでもなく、その表情を見ればわかる。


「ばっちり!」

「なら、よかった!」


互いの近況を報告し合いながら、穏やかな時間が流れる。しばらくして、チカは気になっていたことを切り出した。


「ねえ、ケン君の首の傷……。何か知ってる?」

「首の傷? ……ああ、言われてみれば、そんなのあったかも」


ユウカは少し考え込み、ふいに思い出したように手を叩いた。


「もしかしたら、シノブちゃんが何か知ってるかも! この病院に来て、もう5年くらいになるから!」

「……どこかで聞いた名前」

「ほら! あそこの車椅子に乗ってる女の人。あの人がシノブちゃん!」


ユウカが病院の入口を指差した。


「あっ、あの子……!」


チカの記憶がよみがえる。以前、ミサキとケンを尾行して病院にたどり着いたとき、話したあの女の子だ。


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――でも、あのときは車椅子になんて乗っていなかった。

しかも、今の方がずっと痩せている。


「シノブちゃん、ケン兄がこの病院にリハビリメイクしに来る数年前に、一度だけ見たことあるって言ってた。意識不明の状態で運ばれてきたって」

「……何があったんだろう?」

「わからない。でもね、少し前までシノブちゃん、ケン兄のことをすごく嫌ってた」

「どうしてだろう――」


チカは首をかしげながら、小さく呟いた。


「そろそろ行かなきゃ。首の傷のこと、シノブちゃんに聞いてみるといいよ!」

「ありがとう! 気をつけて帰ってね!」


ユウカを見送ったあと、チカはしばらくその場に立ち尽くしていた。けれど、胸の奥で何かが背中を押す。

――今しかない。

そう思い、意を決して彼女――シノブのもとへと歩き出した。

驚かせないように、ゆっくりと近づき、小さく声をかける。


「私のこと、憶えていますか?」


シノブは一瞬、きょとんとした表情を浮かべたが、すぐにその表情に柔らかさが戻る。


「ケンさんの……知り合いの方でしたよね?」

「はい。このあいだは、本当にごめんなさい」

「――いえ」


静かな時間が流れる。


「……あの、実はひとつ聞きたいことがあって。ケン君とは、どういう形で知り合ったんですか?」


チカの問いに、シノブは目を伏せ、少しだけ間を置いた。


「話せば……長くなりますけど。私には昔この病院で出会った親友がいました」

「“いました”って……今はもう、いないんですか?」


シノブは小さく頷き、わずかに震えた声で言った。


「いじめを苦に……自ら命を絶ってしまったんです」


――ドクン。

心臓が強く打った。


「それって……もしかして、アヤカちゃんのことですか?」


チカがそっと問いかけると、シノブは驚いたように目を見開いた。


「……ええ。知っているんですか?」


チカはゆっくりと頷いた。

その頷きに導かれるように、シノブは静かに語り始めた――。



* * * * * *

この病院に通っていたアヤカとは、診察のあとによくお喋りをしていました。

同い年だったこともあって、何でも話せる間柄で……私にとって、唯一親友と呼べる存在でした。

けれど、ある日を境に――突然、彼女は病院へ来なくなってしまったんです。

看護師さんに尋ねても、「わからない」と言われるばかりで……。

数日後、病院の廊下でアヤカのご両親を見かけました。

その時、アヤカのお母さんは取り乱した様子で、泣きながら何度も叫んでいたんです。

――“あいつがアヤカを殺した”って。

その言葉が、私の胸に深く突き刺さりました。

どうしてもアヤカに何があったのか知りたくて、私は再び看護師さんに詰め寄りました。

すると、渋々口を開いてくれて……こう話してくれたんです。

「アヤカがメイクをして学校へ行ったことでいじめが酷くなり、それを苦にして自殺した」と。

そして、アヤカのお母さんが泣き叫んでいた“あいつ”――

それがケンさんのことだったなんて、その時の私は、知る由もありませんでした。


それから4年が経って。

ある日突然、ケンさんがリハビリメイクの担当として、この病院へやって来たんです。

最初は、何の感情も抱かなかった。ただの外部スタッフのひとり、くらいにしか思っていませんでした。

でも、少しずつ彼の名前が院内で囁かれるようになってきて――

ある日、気になって仕方がなくなって。私は仲の良い看護師さんに尋ねました。


「あの人って、どんな人なんですか?」

「優しい人なんじゃない? 昔、この病院にいた女の子を、メイクしてあげたみたいだよ」


――その言葉を聞いた瞬間、ずっと奥底に沈んでいた記憶が、はっきりと蘇ってきたんです。

アヤカが最後に言っていた言葉――


「ある人から勇気をもらったから、私は闘うの!」


その言葉を最後に彼女は病院に現れなくなり、そして亡くなった。

その数日後――ケンさんが意識不明の状態で、病院へ運び込まれた。

でも、私にはわかってしまったんです。

アヤカがもらったのは“勇気”なんかじゃない。

あれは、ただの“同情”だった。

ケンさんが余計なことをしたせいで、アヤカはいじめを悪化させ、そして死を選んだ。

それを苦にしたケンさんは、自ら命を絶とうとし――けれど死にきれず、病院へ運ばれてきた。

そして今、罪悪感と罪滅ぼしのためなのか、再びこの病院へリハビリメイクという形で現れた。

私の中で、点と点が一気に線で結ばれた瞬間でした。

そして、胸の奥から込み上げてきたのは、どうしようもないほどの――憎しみでした。

私にとって、初めてできた“親友”を、死へと追いやったのは――

他でもない、ケンさんだったから。

性懲りもなく、またこの病院にリハビリメイクをしに現れたことさえ、私には許せなかった。

その日から、ケンさんの姿を病院内で見かけるたびに、私は怒鳴りつけていた。


「人殺し! どうしてあんただけ生きてるの?」


彼は無表情のまま近づいてきて、ただひと言――


「俺も、そう思う」


そう呟いて、静かに立ち去っていった。

この悲しさを、いったい誰にぶつければいいのか。

この苦しさを、どうすればいいのか。

自分でもわからなかった。

――ただ、責める誰かがほしかった。

やるせない感情をぶつける相手が、どうしても必要だった。

きっと、それだけだったのかもしれない。

だけど、そんな思いも――あの光景を見て、少しずつ変わっていった。

ずっと病室に閉じこもり、誰とも心を通わせず、無表情でいたユウカちゃん。

その彼女が、ケンさんと出会ってからは、外に出るようになり、“笑顔”で話すようになった。

嬉しそうに、楽しそうに。まるで、光の中にいるみたいに。

それを見たとき、思ったんです。

もしかしたら――あの時、ケンさんがアヤカにしたことは、間違っていなかったんじゃないかって。

私は、ケンさんにすべてを話しました。

そして――心から、謝りました。

今はもう、彼のことを憎んではいません。

ただ……どうしても、忘れられない言葉があるんです。

以前、ケンさんが自らの首の傷を見せながら、私に言ったひと言――


「俺は、疎まれながら生きてきた。誰かを傷つけて、憎まれながら、それでも死にきれず、こうして今も生きてる。この傷跡は、その代償みたいなものだ。一体……俺は何のために生きてるんだろうな」


その姿が、胸に焼き付いて離れない。

どうかもう、あんなふうに、自分を追い詰めないでほしい。

自分自身を責め続けないでほしい。

きっとケンさんは、今も罪悪感に苛まれながら、“生きていていい理由”を探している。

でも、私は知っているんです。

ケンさんには――ちゃんと、生きる意味がある。

生きる理由が、ちゃんとある。

だって、ケンさんには、人を“笑顔”に変える不思議な力があるから。

* * * * * *



彼女の話を聞いて、初めて思った。

――知らないままのほうが、幸せなこともあるのだと。

首に残された、あの傷跡。

一度ついてしまった傷は、どれだけ時を重ねても、決して消えない。

それが、現実なのだと知ったのは、このときが初めてだった。

その傷は、ただ皮膚を裂いたものではなかった。

まるでシミのように、じわじわと心の奥にまで浸透していて。

もう、二度と癒えることはないのだと――そう思わされた。

今もなお、その傷は自分への憎しみの証として、あなたを苦しめている。

深く、痛々しく、そして生々しいほどに――。

あなたのことを知れば知るほど、私は確かに近づいていると思っていた。

でも、それは錯覚だったのかもしれない。

追いかけても、追いかけても、あなたはすぐ手の届かない場所へと遠のいていく。

まるで、私の想いだけが宙を彷徨っているようで。

そして、首の傷跡に刻まれた意味を知った今――

あなたは、いつか私の前からも静かに姿を消してしまうのではないか。

ふと、そんな予感がして、胸がきゅうっと締めつけられた。

もしも願いが二つ叶うなら…

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