冷たい雨が降る夜だった。
小さなアパートの一室。湿気のこもった空気にカビの匂いが混ざる薄暗い部屋の片隅で、
椿原澪(つばきはら みお)は針を握っていた。
古びた裸電球がチカチカと瞬き、頼りない光が布地に落ちる。指先は震えていた。
ミシンはない。使い古された針と糸だけが、彼女の唯一の武器だった。
高級な生地なんて夢のまた夢。
でも、それでもいい。
「絶対に、自分のブランドを持つんだ……」
誰に言うでもなく、彼女は小さく呟く。
この小さな布切れが、未来へ続く一歩になると信じて。
貧しさと孤独の中で
澪がまだ小学生だった頃、母親が家を出て行った。
「ごめんね」と小さく言い残し、母は振り返ることなく夜の闇に消えた。
その日から、澪の世界は色を失った。
父親は酒に溺れ、次第に家へ帰ってこなくなった。
家にはいつも食べかけのインスタント食品が転がり、電気や水道が止まることも珍しくなかった。
学校へ行けば、クラスメイトたちの目が突き刺さる。
「また同じ服? 貧乏って大変だね」
「ねえ、あの子の服、フリーマーケットで売ってたやつじゃない?」
そんな言葉を浴びるたび、澪は唇を噛み締め、うつむくしかなかった。
だけど、一つだけ。
ただ一つだけ、澪には心が落ち着く瞬間があった。
それは、縫い針を持つ時間。
何もない部屋の隅っこで、ひたすら古布を縫い合わせる。
お下がりでもらったワンピースを直し、自分なりにデザインを加える。
出来上がった服を身に纏った瞬間——
鏡の中の自分が、ほんの少しだけ、綺麗に見えた気がした。
「……私が作った服なら、私は醜くない」
その気持ちを知ってしまったから——
澪はファッションデザイナーになりたいと思った。
夢への第一歩と、妨害
高校卒業後、澪は服飾の専門学校へ進学した。
学費を稼ぐために、昼も夜も働いた。カフェの接客、深夜のコンビニ、アパレルショップのバイト——
休む暇なんてなかった。
けれど、それでも勉強をやめなかった。
「努力すれば、夢は叶う」
そう信じていた。
しかし、現実はそう甘くはなかった。
コンテストに応募すれば、「素人のデザイン」だと一蹴された。
アルバイト先では、「夢なんて諦めた方がいい」と嘲笑された。
それでも歯を食いしばって、デザインを続けた。
だが、澪の前に立ちはだかったのは——最大のライバル、美優の存在。
桐生美優(きりゅう みゆ)。
有名デザイナーの娘。美しい容姿と完璧な環境。
そして、何よりも残酷だったのは、彼女が澪の才能を認め、そして利用したことだった。
「貧乏人のくせに、デザイナーになりたいんだ? 場違いじゃない?」
美優は澪のデザインを盗み、自分の作品として発表した。
「証拠でもあるの?」
何も言えずにいると、美優は満足そうに笑った。
澪の胸に込み上げるのは、悔しさ、怒り、そして絶望。
「……それでも、私はやめない」
何度踏みにじられても、澪は決して諦めなかった。
運命の出会い
そんなある日、アパレルショップのバイト中、澪は一人の男性と出会う。
「このシャツ、もう少し襟元のデザインを変えればいいのに」
低く落ち着いた声が、彼女の耳を打った。
振り向くと、そこにいたのはスーツ姿の長身の男。
洗練された雰囲気、鋭い眼差し——彼は明らかにただの客ではなかった。
「……え?」
「ここのブランド、センスは悪くないけど、細かいディテールが甘いな」
その言葉を聞いた瞬間、澪の頭に一つの名前が浮かんだ。
「御堂怜司(みどう れいじ)……?」
日本を代表するアパレルブランド**「M.D.C」**の若き副社長。
デザイナーとしての腕も確かで、業界内でもカリスマ的存在だった。
「君の意見を聞かせてくれる?」
澪は、心臓の音がうるさいくらい鳴るのを感じながら、恐る恐る口を開いた。
「……このデザインなら、もう少しウエストラインを絞った方が女性らしいシルエットになると思います」
怜司は澪の意見をじっと聞き、静かに微笑んだ。
「なるほど。面白い」
それが、すべての始まりだった。
運命のコンペ
数日後、澪のもとに一通の招待状が届く。
——「M.D.C 新人デザイナーコンペティション」
そこには、怜司の名前があった。
「君の才能を試してみたくなった。挑戦する気はある?」
澪は震える指先で、招待状を握りしめた。
人生を変えるチャンスだった。
けれど、それは同時に——新たな戦いの幕開けでもあった。
第1章の結び
雨が止んだ夜、澪は小さなアパートのベッドで天井を見つめていた。
心臓が、ドクン、ドクンと鳴る。
「……やってやる」
澪の人生は、ずっと泥だらけだった。
それでも——
自分の手で、夢を掴む。
「私は、私のデザインを世界に届ける」
この小さな部屋から始まる物語が、やがて誰もが驚くような奇跡を生むことを——
この時の澪はまだ、知らなかった。