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「おい、リンデン」
呼ばれて、顔を上げる。
劇団主が顎で舞台を指した。
「ひとり足りねえ」
一瞬、意味が分からない。
「今日、出ろ」
「……俺が?」
「ああ」
それだけだった。
理由も、説明もない。
リンデンは、ゆっくりとうなずいた。
「……はい」
心臓が、少し遅れて強く打つ。
渡されたのは、短い役だった。
台詞は一行。
名前もない。
だが——
“舞台に立つ”。
それだけで、十分だった。
ーーー
袖の暗がり。
リンデンは、じっと他の役者を見ていた。
肩の落とし方。
視線の動き。
息のタイミング。
全部、覚えたはずだった。
全部、盗んだはずだった。
——足りるか。
分からない。
だが、やるしかない。
合図が鳴る。
光が差し込む。
リンデンは、息を吸った。
腹に落とす。
肩の力を抜く。
足を開く。
覚えた通りに。
——いける。
そう思って、舞台に出た。
ーーー
観客の気配が、肌に触れる。
無数の視線。
だが怖くはない。
やることは決まっている。
真似る。
外さない。
ーー外せば、終わる。
歩く。
一歩。
二歩。
——何かが、違う。
気づいたときには、もう遅かった。
足の運びが、ほんのわずかに硬い。
“揃っていない”。
周りと。
空気と。
ーー舞台と。
ひとりだけ、浮いている。
観客は気づかない。
だが——
役者は気づく。
すぐ隣の男が、ほんの一瞬だけ視線を寄越した。
その目が言っている。
——ずれている。
台詞の番が来る。
喉が乾く。
息を吸う。
腹に落とす。
覚えた通りに。
「ーー」
声は出た。
形も、悪くない。
だが。
何かが、足りない。
軽い。
空気に乗らない。
届かない。
その違和感が、自分でも分かる。
——真似ただけだ。
頭の奥で、誰かが言う。
その通りだった。
形だけ。
動きだけ。
声だけ。
“中身がない”。
一瞬。
本当に、一瞬だけ。
足が止まりかける。
崩れる。
そう思った。
そのとき。
視界の端で、ひとりの役者が動いた。
ほんのわずかに、間を変える。
呼吸を合わせる。
リンデンに、寄せる。
——合わせている。
助けている。
なら。
リンデンは、息を吸った。
今度は、真似ない。
ただ、出す。
体の奥から。
削らずに。
隠さずに。
ーー逃げずに。
「ーー」
同じ言葉。
だが、少しだけ違う。
わずかに揺れる。
未完成な声。
それでも——
今度は、届いた。
空気に触れた。
誰かの耳に、確かに引っかかった。
流れが戻る。
舞台が、進む。
リンデンは、そのまま最後まで立ち続けた。
崩れずに。
幕が下りる。
ざわめきが戻る。
息が、一気に抜けた。
舞台袖。
リンデンは、壁に手をついた。
指先が震えている。
「……どうだった」
声がする。
振り向かなくても分かる。
劇団主だった。
「……まだ、足りません」
正直に言う。
男は、ふっと笑った。
「当たり前だ」
間を置いて、続ける。
「真似だけじゃ、舞台には立てねえ」
リンデンは、顔を上げる。
「盗んだもんはな」
男の目が細くなる。
「使い方を間違えると、ただの借りもんだ」
その言葉が、刺さる。
何も言えない。
ただ、聞く。
「だが——」
男は、わずかに口元を歪めた。
「さっきの二回目は、悪くなかった」
リンデンの心臓が、強く打つ。
「下手でもいい」
静かな声だった。
「自分で出した声は、死なねえ」
リンデンは、ゆっくりと息を吸う。
まだ震えている。
だが——
さっきの声は、覚えている。
真似じゃない。
自分で出した声。
見て、盗んで。
それでも、足りない。
なら——
足すしかない。
自分で。
リンデンは、もう一度舞台を見た。
さっきとは違って見える。
そこにあるのは、形だけじゃない。
ーーそれぞれの“声”だった。