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木賃宿
木賃宿
見上げると、陽はすっかり高くなっていた。
「あ〜、随分寝坊しちゃったね」
お紺がボリボリと首を掻きながら言った。
「でも、雨はすっかり上がってる」
「泊めてくれた農家の女将さんには悪いけど、夜中に蚤のみの大群に襲われて眠れなかったわ」
「その割には遅くまで寝てたけど?」
「だから、朝方やっと寝付いたのさ」
「同じ屋根の下に馬も一緒にいるんだもの、仕方ないわよ」
「江戸育ちのお紺さんには、百姓家は無理ね」
「けど、小田原に着いたら木賃宿を探さなくちゃならないわよ」
「あ〜ぁ、今日もまたぐっすり眠れないのか。よ〜し、箱根に着いたら温泉でのんびりするぞぉ!」
「大丈夫、翌日は関所を抜けなきゃならないのよ?」
「任せなさぁい!」
「本当に大丈夫かなぁ・・・」
お紺と志麻はゆっくりとした足取りで街道を小田原宿に向けて歩いている。
チリン・・・
「巡礼に御報謝・・・」
後ろから声を掛けられて振り返ると、菅笠に白衣を着て金剛杖を持った巡礼の父娘が立っていた。娘の方は六歳くらいだろうか?
「旅のお方、どうぞ哀れな巡礼に御報謝ごほうしゃをお願いいたします」
父親の方が持鈴じれいを振って頭を下げた。
「あら、あなた達お遍路さん?」
「あい、これから四国へ向かうところでございます」か細い声で娘が答える。
「四国八十八箇所巡りね」
「はい」
「大変ね、親子二人で・・・」お紺は既に目を潤ませている。
「私らは常陸の国の寒村の出で、去年の凶作でカカァと三人の息子を亡くしてしまったのでごぜぇます。途方に暮れて首を括くくろうかと思案しておりましたところ、この娘がお遍路の旅へ出ようと言い出しました。どうせ死ぬるなら行けるところまで行ってみようと、道々人様のお情けに縋すがり、夜は壊れた御堂みどうで寝やすみ、時には野宿などしてここまで辿り着いたのでごぜぇます。どうか我らを哀れと思し召し下さり、一文の御報謝をいただければありがたき事にごぜぇますだ」
お紺はもう滂沱ぼうだの涙である。
「なんて可哀想なの・・・いいわ、これを持ってお行きなさい」
お紺が懐から紙入れを取り出し、なけなしの金を娘に与えた。
「お紺さん・・・」志摩が慌てて声を掛ける。
「いいのいいの、この人達の役に立つならこのお金だって本望よ」
「ありがとう、お姉ちゃん」娘がペコリと頭を下げる。
「有難うごぜぇますだ。これだけあれば飢えずに四国まで辿り着くことができそうでごぜぇます」
「四国に着いたらどうするの?」
「彼の地には『お接待』という風習があり、巡礼は大層親切にしていただけるのでごぜぇます。寝る所に困れば遍路小屋というものもありますし・・・」
「そう、それなら安心ね・・・お嬢ちゃん気をつけて行くんだよ、父とと様を大切にしなよ」
「はい、この御恩は一生忘れません」
巡礼の親子は何度も振り返って頭を下げながら去って行った。
「ああ、いいことをした後は気持ち良いわね!」お紺が拳を空に向けて背伸びをした。
「お紺さん、旅の初日の事忘れてない?」
「あのクソガキとさっきに娘こは違うわよ」
「まぁ、お紺さんのお金だから・・・私も幾らか余分はあるし、いざとなったら父の送ってくれた為替を両替すれば何とかなる」志麻がブツブツ呟いている。
「大丈夫、これがある!」お紺は帯に差した柄杓を指差した。
「また柄杓?今まで一度も役に立ってないけど?」
「そりゃ、まだそこまで困ってないからさ」
「あ〜あ、先が思いやられる」
「気にしない気にしない。さ、先を急ぐわよ」
「は〜い」
*******
右に小田原城を眺めながら、江戸口見附を過ぎる。ここからが正式な小田原宿だ。
街に入るなりお紺が駆け出した。
「志摩ちゃん、あの茶店で休んで行こ!」
見ると農家の間口を開け放して茶屋に設えた店がある。
『小田原名物ういらう(ういろうの事)』と書いた幟が立っていた。
「名物だって。志摩ちゃん食べて行こ!」
「休むの、食べるの、どっちなの?」
「両方!」
お紺の欲には際限がないようだ。
「おばちゃん、お茶とういろう頂戴!」
「はいはい、黒と白がありますが?」
「両方!」
「はい、すぐお持ち致します、ちょっとお待ちを」
「わぁ!美味しい!名物に美味いもの無しって、あれ嘘ね!」
「本当、見かけは羊羹ようかんのようだけどもっちりしていて甘過ぎない。黒いのは黒糖ね?」
志麻も嬉しそうに舌鼓を打っている。
「気に入った?今夜食べようか・・・おばちゃん、お土産に包んでね!」
「は〜い」
ういろうを食べ終えて、お茶で口の中をスッキリさせると、お紺が紙入れを取り出した。
「そうか、さっき大方あげちゃったから・・・」紙入れを覗き込んで呟いている。
「ここは私が払うわ」
「ごめん、志麻ちゃん、江戸に戻ったら必ず返すから」
「いいわよ、気にしないで」
払いを済ませると、竹の皮に包んで貰ったういろうを受け取り、木賃宿を探すことにした。
もうだいぶ薄暗くなっている。
「街道沿いは大きな旅籠はたごばっかりね」お紺が言った。
「町外れまで行ってみましょう」
町屋の立ち並ぶ繁華街を抜けると、田圃の向こうに藁葺きの屋根が見えた。
「行ってみよう!」お紺が駆け出した。
畦を通って一軒家に近づく、周りに人家らしきものは見当たらない。
軒下に木の札がぶら下がっている。志麻が近づいて手に取った。
「『木賃』ここだわ」
「昨日泊まった農家よりボロだわ」お紺がガッカリしたように呟いた。
「しっ!中の人に聞こえるわよ」
志麻が建物の引き戸を引く。
「ごめんください・・・」
土間に足を踏み入れた途端、眩暈めまいがした。
ムッと湿った空気と黴かびの匂いが鼻腔を突き、濛々(もうもう)と上がる囲炉裏の煙で目がシパシパする。
「なに、ここ!」後から入ってきたお紺も目を丸くした。
「早く戸を閉めな、せっかく温もった空気が外に出ちまう!」
老婆の鋭い声が聞こえてきた。
「あ、御免なさい・・・」お紺が慌てて戸を閉める。
目が慣れると煙の向こうに広い板張りがあり、囲炉裏を囲んで三人の人影が見えた。
一人はさっきの声の老婆であろう。あとの二人は年老いた旅の僧と、多分薬の行商人だ。
「女が二人、こんなところに何の用だい?」老婆が訊いた。
「あの、今晩泊めて欲しいんだけど?」
「正気かい?」
「はい・・・」やっぱり女だけで木賃宿なんて、尋常じゃないよね・・・
「お婆ちゃん、ちょっと聞きたい事があるんだけど」お紺が志麻の前に立って言った。
「なんだい?」
「関所抜けしたいんだけど、案内人を紹介してもらえないかなぁ?」
お紺はまどろっこしいのが大嫌いだ。単刀直入に話を切り出す。
一瞬老婆の表情が固まった。次の瞬間大爆笑が起こる。
「ワハハハハハハ、それが目的かい!」
「手形が無いんだよ、神奈川の宿でここを訪ねれば何とかなるって聞いたんだ」
「そうかいそうかい、ま、お上がり」
老婆は急に愛想良く二人を手招きした。
僧と行商人は、老婆とお紺のやり取りをおもしろそうに眺めている。
「勢いで江戸を出てきちゃって、手形を用意する暇がなかったんだ」
お紺が説明している。
「二人ともかい?」老婆が訊いた。
「い、いや・・・その娘は持ってる」
「あんたも罪だねぇ、その娘まで関所破りにしようってのかい?」
「お婆ちゃん私は良いの、知り合いに頼まれたんだから」
「ふ〜ん、そうかい。でも、料金は二人分もらうよ」
「だよねぇ・・・」
「わざわざ金を払って危険を冒さなくてもいいんじゃないのかい?」
お紺は段々後ろめたくなって来て項垂うなだれる。
「いいわ、一刀斎に払って貰うから!」
「し、志麻ちゃん・・・あんた」
「ここまで来てお紺さんを見捨てる訳には行かないもの、毒を食らわば皿までよ!」
「志麻ちゃ〜ん、ありがとぅ!」
「その代わり、江戸に帰ったら一刀斎に交渉してよ」
「分かった、絶対に払わせてやる!」
お紺が胸を叩いた。
「話は纏まったかい?」
「ええ、お願いするわ」
「じゃあ一人八百文だ、鐚びた一文負けないよ」
「お婆ちゃんしっかりしてるねぇ」お紺が呆れる。
「こっちも危ない橋を渡るんだ、当たり前さぁね」
「しょうがない、それで手を打ちましょう」
「よし、明日朝七つ(午前四時)までに案内人を呼んでおく、それまでに準備を整えておきな」
「分かった!」
*******
「ほっほっほ、拙僧も随分と無茶な事をやったが、あんた達も無鉄砲なお人じゃ」
年老いた旅の僧がしみじみと呟いた。白くなった眉毛が目を覆うように伸びている。
「お坊さんも旅をしているの?」
茶屋で買ったういろうを皆に取り分けながら志麻が訊いた。
「もう何年も行雲流水の気楽な旅じゃ」
「お金はどうしてるの?」お紺が訊く。
「ほっほっほ、寺は国中に腐るほどある、一夜の宿を乞こえば断られる事は無い。修行の旅じゃと言えば皆が敬ってくれるので、時々祈祷きとうや占いをやってお返しをすれば良い」
「この坊さんは、姿形なりに似合わず高僧なのさ」老婆が言った。「東海道を旅する時には必ずここに寄ってくれる」
「ほっほっほ、婆さんには随分と世話になった」
「他人行儀な事を言うんじゃないよ、水臭い・・・ところで、今度の旅では何をしてきなすった?」
「うむ、西国の離島に疫病が流行ってな」
「祈祷やお祓いでもやってきなすったか?」
「そんなもんじゃ疫病は治おさまらんよ、まぁ、気休めにはなるがの」
「じゃあ、どうしなすった?」
「まだ罹患してない島民を、避難させた」
「じゃあ病人を見捨てたの?」志麻が訊いた。
「いや、そんなことはせんよ。前に同じ病に罹ったことのある者を世話人として残したのじゃ」
「どうして?」
「一度罹った者は二度罹ることは少ないからじゃ」
「あ、それ聞いた事がある。お座敷にいた医者だったけど、嫌なやつだったなぁ!」
「ほっほっほ、じゃがそれだけではいかん。家の風通しを良くして水場と着衣をいつも清潔に保つ事じゃ」
「で、どうなったの?」
「暫くして疫病は治まり、島民は島に戻って行ったわい」
「ふ〜ん、お坊さんってそんな事もするのね」お紺が感心している。
「あんたは何か面白い話はないのかい?」
老婆が行商人に話を振った。
「俺か?」
「そうだよ、他に誰がいる?」
「あまり面白い話じゃない」
「いいよ、寝るまでの暇つぶしだ」
「そうか・・・じゃあ」行商人は尻をずらして座り直す。
「あれは奥州に反魂丹はんごんたんを置きに行った時の話だが・・・」
どうやら行商人は、富山の薬売りのようだ。
「ある村の柿の木に人がぶら下がっていたんだ」
「それ、ひょっとして・・・」
「ああ、首吊り自殺だ」
「酷い・・・」
「貧しい土地には良くある話さ」
「それで?」老婆が先を促した。
「俺が下ろそうとしたら近所の家の奴が慌てて出てきた」
「手伝ってくれたのか?」
「いいや、俺の家の方に死人の顔を向けてくれるな、と言いやがる」
「なんでだ?」
「死人の顔が向いた家からは次の自殺者が出るという言い伝えがあるらしい」
「ふ〜ん、迷信だね」
「そこで俺が前に回って下ろそうとした・・・」
「そしたら?」
「呪われるからやめろと言う」
「で、どうしたんだい?」
「首吊り死体を下ろすにゃ、作法があるんだと。後ろから腋を抱えるようにして下さにゃならなかった」
「で?」
「で、ってそれだけだよ」
「なんだ、つまらない」
「あっ!」お紺が声を上げた。「昼間のお遍路さんも下手したらそうなっていたかもしれないね、やっぱり良いことをしたんだ、私!」
「お遍路って、親子連れのかい?」薬売りが訊いた。
「そうだよ」
「そのお遍路なら、高そうな旅籠に入って行ったぜ」
「な、なんだって!」お紺の声が上擦る。
「お紺さん、やっぱり騙されたんじゃ・・・」
「嘘よ、そんな事!」
「だったら、杉野屋ってぇ旅籠に行ってみな、今頃ゆっくり湯に浸かってたらふくご馳走を食ってる筈さ。それが奴らの手口だ」
「あ・あ・あ・・・・・ぁぁぁ」お紺がガックリと項垂れた。
「お紺さん、しっかりして!」
ガバ!と顔を起こした時、お紺の目が異常に燃えていた。
「あいつらぁ、ずぇ〜たいに許さねぇー!!!」
お紺の怒りに恐れをなし、今夜は蚤のみも虱しらみも出てこない事だろう。