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ー翌朝ー
青年は誰よりも早く起き上がり酒場の掃除を始めた。酒の生臭さや散乱した大魔鳥の串、酒に酔いつぶれた惨状を見て、青年は顔をしかめた。しかし、もうすぐ始まる外の世界で過ごす日々を考えるとそんなことはこれっぽっちも気にならなかった。 早々と掃除を終えると、朝霧の残る石畳を弾むような足取りで進み、市場へ向かった。街のあちこちから窓や扉を開ける音、台車を運び出して露店の準備をする音が聞こえる。甘い果実や焼きたてのパンの匂いが朝霧に混ざって漂っていた。市場に近づくにつれ商売や荷物の転がる音、指示や子供たちのはしゃぎ声が聞こえてきた。青年は喧騒の中で小さく息をついた。見慣れた市場の音が、今日はいつもより心地よく感じられた。人混みを掻き分けながら1つの建物に滑り込んだ。内装は豪華とは言えなかったがくつろぐには十分だった。店の奥で椅子に深く腰掛けていた漢は、青年を見るなり低い声を飛ばした。
「小僧か…。今日は何のようだ?」
漢は椅子の背にもたれ、値踏みするような目を向けていた。
それでもアベルは視線を逸らさなかった。
「今日は地図と貯金を崩しに来ました。取り合っていただけますか?」
漢はため息をつき椅子から立ち上がった。漢が立ち上がると古びた椅子はキシキシと不満げな音を鳴らした。
「地図と言ってもいろいろあるだろうに。大陸地図なのか、海上地図なのか、地方とか国ごと、管理区域ごとか?」
青年はその種類の多さに少し戸惑ったがすぐに漢に問いかけた。
「細部まで情報が記載されていてなお、大陸全体を確認できる地図が欲しいです」
漢は青年の迷いなき言動を受け止めるなり目を細めた。
「それなら、軍事用の大陸地図だな。昔、魔物の軍勢と戦うときに重宝されたやつだ。ほらよ銀貨2枚だ」
「このコンパスは?」
青年は古びてはいるが針にまだ光のあるコンパスを指さしていた。
「俺からのおまけだ」
「ありがとう、この恩はいつか…」
「あぁ…そういうのはいいんだよ。てめぇはガキだ。大人しく甘やかされとけ」
漢は壁際の書類棚に手を伸ばしながらそっけなく返した。
「で?貯金のきり崩しの方は?現金か?それとも何か商品か?」
青年は一瞬だけ言葉を飲んだ。だが、すぐに漢を真っすぐ見返した。
「半分は現金。もう半分は証明書か切手にしてください」
漢は何か言いかけ、結局小さく鼻を鳴らした。
「上から取ってくる。少し待っておけ」
漢は吐き捨てるように言うと、階段を軋ませながら上へ上がっていった。 青年は巾着から銀貨を2枚出しておきポケットに突っ込んだ。これから旅をともにするコンパスを見つめる。コンパスの針は落ち着きなく揺れ続けている。まるで自分みたいだと、アベルは少しだけ笑った。少し待っていると上から漢が戻り切手の入った袋と明細書、現金を机に置いた。
「現金のほうは切り崩し証明書しかねぇ。疑うなら今ここで数えるといい。切手の方はその場印刷と印刷枚数確認書と一緒だ。こっちは信じてもらって構わねぇ」
漢はぶっきらぼうに言い捨てた。しかし青年の目に映っていたのは漢の態度ではなかった。本棚には、家族写真らしき額縁がひとつだけ伏せられていた。昔その理由を尋ねた時、漢は珍しく声を荒げた。それ以来、アベルはその話に触れてこなかった。
「現金は確認しません。あなたを信じることにします」
「そうか…なら用は済んだだろ?代金払ってとっとと帰れ」
漢は乱暴に受け皿を置くと、そそくさとまた椅子にふんぞり返った。青年はそれ以上何も聞かず、小銭を置いて店を後にした。店を出たあと、アベルは一度だけ振り返った。漢はきっと、これからもあの椅子で不機嫌そうに座り続けるのだろう。アベルは小さく頭を下げた。
「今までありがとうございます。また、顔出しに来ます」
呟くように言い残し人々の肩の隙間へ身体を滑り込ませた。人垣の隙間から、獣の唸るような声が漏れていた。子供が泣き、大人たちは興奮したようにざわめいている。アベルは眉をひそめ、人混みを掻き分ける。群衆は広場の噴水をぐるりと囲うように集まっていた。噴水の前には陽気な男が何やら商売をしていた。
「ほら!どうだいどうだい。”灰牙の深林”で捕まえた冥狼だよ!従わせりゃ軍犬、剥げば極上毛皮!生きてても死んでても金になるぞぉ!」
そこには、酷く弱った魔物――冥狼が鎖で吊り上げられていた。 灰色の毛並みは泥と乾いた血で汚れ、腹は痛々しいほど痩せ細っている。唸る力すら残っていないのか、冥狼はただ荒い呼吸を繰り返していた。群衆は歓声を上げる。
「でけぇな」
「毛皮だけでも高そうだ」
「牙は残ってんのか?」
青年の喉奥が小さく軋んだ。初めて見る外の魔物だった。本来なら胸が躍ってもおかしくない。それなのに、目の前の冥狼を見ていると、何かが酷く間違っているような気がしてならなかった。青年は無意識に拳を握りしめていた。爪が掌に食い込む。それでも、群衆の輪の中へ踏み出すことはできなかった。冥狼の濁った金色の瞳だけが、群衆ではなく、まっすぐアベルを見ていた。足が竦み、歯を軋ませるしかできないでいた。その時だった。 カランーー……。 遠くから微かに鈴の音が聞こえてきた。祭囃子とも違う。風鈴の音にも似ていた。冥狼が鈴の音に反応するようにゆっくり顔を上げる。途端、商人は鎖を乱暴に引き寄せた。冥狼の首が地面へ叩きつけられる。
「おっと暴れるなよぉ!」
群衆はその様子に歓声を上げた。
「牙を見せろ!」
「おぉ、本物だ!」
「いくらだ!?」
「噛み殺されねぇだろうな!」
笑い声が広場に響く。誰も鈴の音など気にもとめていなかった。
カランー…コロンー…
鈴の音は、人混みの向こうへ静かに消えていく。アベルは気づけば、群衆から視線を外していた。冥狼の荒い呼吸も、商人の怒鳴り声も、もう耳に入ってこない。ただ、あの鈴の音だけが、不思議と胸の奥に引っかかっていた。
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