「皆、今の内に兵糧を使え。次なる敵に備えるのだ」
木村長門守重成《きむらながとのかみしげなり》が若江の地を包む濃い朝霧を切り裂くような烈々たる声で配下に命じ、己の顔についた返り血と汗をぬぐった。
木村長門守重成はこの時二十三歳。出陣の際、大坂城内の女たちが争って玉造門に集まり、重成を見送ったというだけあって、成程その眉目は凛々しく完璧なまでに整い、におい立つような気品があった。
しかし、その容貌には柔弱さはかけらも無い。既に藤堂高虎の先頭部隊を撃破し、数多の敵兵を槍先にかけた重成の均整のとれた若々しいしなやかな五体には闘志と殺意が充満し、あふれんばかりであった。
そこに物見が馬を駆って戻り、間もなく井伊掃部頭直孝《いいかもんのかみなおたか》が率いる約五千の部隊がやって来ることをを告げた。
「井伊の赤備え・・・!」
配下の兵達がつばを飲み込み、畏怖の声を上げたが、重成は恐れる色は微塵も無く、むしろ涼やかに微笑した。
「良き敵かな」
配下にただちに迎撃の用意をするよう命じようとした重成を、側近の一人が慌てて制止した。
「いけません。兵達はもはや疲れ切っています。今ここで井伊の赤備えのような精兵どもと戦えば、壊滅は免れないでしょう。ここは一旦退くべきです」
重成は微笑を浮かべながら静かに頭を振り、側近に優しい声色で問うた。
「藤堂の兵を破ったぐらいで満足か?」
小賢しいことを言うな、と一喝されることを予想していた側近は、逆に優しく問いかけられ、困惑の表情を浮かべ、答えに窮した。
重成は続けた。
「私はあの程度の勝利では到底満足できない。井伊の赤備えといえば、徳川配下にあって最強の強者と名高い。これ以上望ましい敵はおるまい」
重成はそう言って兵達の間に馬を進めた。
これ程の颯爽たる姿の若武者は他にいないだろう。彼を囲む側近達は、誇らしく思わずにはいられなかった。
「死を恐れぬものは我に続け。徳川の、井伊の者どもに、真の武士の武勇を見せつけてやるのだ」
重成の凛然とした声を聴き、兵達は疲労と恐怖を忘れて喊声でもって応じた。
「さあ、参ろう」
槍を構え、馬を進める重成に魅入られたように兵達は兵糧を捨て、騎乗の人となった。
彼らの表情から死を恐れずに戦う覚悟が出来たことを確認した重成は、目を閉じ、猛る心を鎮めながら井伊軍の来襲を待ち構えた。
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