テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
さんま
202
#WT
#三雲修
さんま
11
コメント
1件
読ませていただきました…すごく好きなシーンでした。 深夜の冷たい空気の中、嵐山の包丁の音が「今」を刻むことで、迅の視えすぎる未来がようやく静まる感じがたまらなかったです。 「ぼんち揚げしか食べてない」って呟く迅が、ああいう時だけ本当に19歳の子なんだなって思えて。 嵐山が「お前の暗闇ごと平らげる」って言う言葉、すごく強くて温かくて…胸がじんわりしました。 二人の間に流れる空気の描き方が、とても繊細で美しかったです🌷
深夜二時。街の喧騒がすっかり鳴りを潜め、冷たい月明かりだけが窓から差し込む時間。いつもの見慣れたはずの景色が、今夜の迅悠一にとってはひどく遠く、そして冷え切ったものに感じられていた。
「あー、ちょっと視えすぎちゃったかな」
サングラスを外し、ずんと重くなった頭を片手で押さえる。彼の持つ副作用_”目の前の人間の少し先の未来を視る”という力は、防衛任務において無類の強さを誇るが、同時に彼自身の心を削る両刃の剣でもあった。変えられる未来と、どうしても変えられない未来。それらの無数の選択肢が頭の中で交錯し、処理しきれない残像となって脳裏に焼き付いている。そんな時、迅の足が自然と向かう場所があった。本部内にある個人個室。嵐山は基本的には実家に帰ることが多いが、深夜に及ぶ作戦会議や、翌朝早くからの防衛任務がある日は、本部の個室に泊まることにしていた。そして今夜が、ちょうどその日であることを、迅は視るまでもなく知っていた。ノックをする前に、ガチャリと扉が開く。
「……やっぱり迅か。入るといい」
部屋の中から現れた嵐山は、すでに私服のパーカー姿だった。少し驚いたような、けれどすぐに全てを察したような優しい笑みを浮かべて、迅を部屋の中へと迎え入れる。
「ごめんね、嵐山。こんな夜遅くに」
「気にするな。ちょうど俺も、次の防衛戦の資料を読み終えたところだ。……顔色が悪いな。少し座っていろ」
嵐山は迅を小さなソファに促すと、迷いのない足取りで部屋の隅にある簡易キッチンへと向かった。ワンルームの狭いキッチン。けれど、綺麗好きな嵐山らしく、調理器具や調味料は整然と並べられている。迅はソファには座らず、キッチンのカウンターにそっと近づき、そこに顎を乗せるようにして嵐山の背中を眺めた。
「お腹、空いてないか?」
嵐山が振り返り、優しく問いかける。
「言われてみれば、夕方から何も食べてないかも。ぼんち揚げは食べたけどね」
「ふふ、それじゃあ栄養が足りないな。待っていろ、すぐに何か作る」
嵐山は冷蔵庫を開け、いくつかの食材を取り出した。キャベツ、玉ねぎ、ベーコン、それから卵。どこにでもある、ありふれた日常の食材たち。やがて、静かな部屋に小気味よい音が響き始めた。トントン、トントン、と、まな板の上で包丁が野菜を刻む音。それは驚くほど規則正しく、温かいテンポだった。迅はその音をじっと聴いていた。脳裏でうるさく明滅していた無数の未来の残像が、嵐山の立てるその生活音によって、一枚ずつ剥がれ落ちていくような錯覚を覚える。嵐山の切る野菜の音が、今の迅にとってはどんな救いの言葉よりも心地よく響いていた。
「嵐山の手元を見てるとさ、なんか安心するんだよね」
迅がぽつりと言った。
「そうか? 普通に切っているだけだが」
「ううん、その普通がすごいんだよ。おれの世界はさ、ときどき色んなものが混ざり合って、ぐちゃぐちゃになっちゃうから。嵐山が作る『今』の音が、すごく落ち着くんだ」
嵐山は包丁を持つ手を一瞬だけ止め、カウンター越しの迅を見た。迅の瞳は、いつも飄々としている時とは違い、どこか寂しげで、迷子の子どものように揺れている。嵐山は何も言わず、ただふわりと微笑むと、再び調理を再開した。フライパンに火が通り、じゅう、と小気味よい音が弾ける。香ばしいベーコンの香りと、甘みを増していく玉ねぎの匂いが、冷え切っていた部屋の空気を一気に温めていく。嵐山の手際は本当に鮮やかだ。実家で何人もの弟妹たちの食事を作ってきたその手は、誰かを慈しみ、育むための優しさに満ちていた。
「よし、できたぞ。熱いうちに食べよう」
差し出されたのは、具だくさんのコンソメスープと、ふんわりと焼かれた即席のオムライスだった。
「わあ、美味しそう」
二人で小さなローテーブルを挟んで座る。
「いただきます」
と手を合わせ、迅はまずスープをスプーンで掬い、口に運んだ。温かい液体が喉を通り、胃の中に落ちていく。その瞬間、身体の芯まで冷え切っていた感覚が、じわじわと解けていくのが分かった。
「……美味しい。すごく、落ち着く味だ」
「よかった。夜遅いから、味付けは少し薄めにしておいた。オムライスも、卵は柔らかめに仕上げてある」
「さすが嵐山。至れり尽くせりだね。これなら毎日でも通っちゃいそう」
「ああ、いつでも来るといい。俺の予定が合う時なら、いくらでも作るさ」
嵐山は自分の分のスープを飲みながら、愛おしそうに迅の食べる姿を見つめている。迅は夢中でスプーンを動かした。お腹が満たされるにつれて、胸の奥に澱のように溜まっていたメランコリー_言葉にできない憂鬱や孤独感が、綺麗に消え去っていく。美味しいものを、大切な人と一緒に食べる。ただそれだけのことが、副作用という重荷を背負う迅にとって、どれほど救いになるか分からなかった。
「ねえ、嵐山」
オムライスを半分ほど平らげたところで、迅がスプーンを止め、上目遣いで嵐山を見た。
「なんだ?」
「おれさ、ときどき怖くなるんだよね」
「……何がだ?」
「未来を視ることが。おれがどんなに手を尽くしても、変えられない結末があったり、誰かが傷つく未来を事前に知ってしまったり。……もし、おれがみんなを守りきれなくて、最悪の未来へ向かっちゃったら、そのとき嵐山はどうする?」
それは、迅が滅多に他人に漏らさない、本物の弱音だった。いつも実力派エリートとして余裕の笑みを浮かべている彼が、今、嵐山の前でだけは、ただの十九歳の少年に戻っていた。
嵐山は驚いた顔をすることもなく、静かにスープのカップを置いた。そして、まっすぐな、濁りのない瞳で迅を見つめ返した。その瞳には、どんな暗闇をも照らすような、圧倒的な光が宿っている。
「迅。俺はボーダーの人間だ。街を守り、人々を守るために戦っている。だが、それと同じくらい、お前のことも守りたいと思っている」
「嵐山……」
「お前がどんな未来を視て、どんな結末に怯えていようと、俺はお前を一人にはさせない。もし本当にお前の言う”最悪の未来”が来るのだとしたら、俺は全力でそれを跳ね返すために戦う。そして_」
嵐山は手を伸ばし、テーブルの上にある迅の手に、そっと自分の手を重ねた。大きくて、少し骨張った、温かい手。
「その未来の夜だって、お前が腹を空かせて俺のところに帰ってくるなら、俺は今夜みたいに美味い飯を作る。お前がどんなに憂鬱な顔をしていても、俺が全部、その暗闇を平らげてやるよ。だから、一人で抱え込むな」
その言葉は、あまりにも真っ直ぐで、あまりにも強かった。根拠のない自信かもしれない。けれど、嵐山准という男が言うからこそ、それは絶対の真実としての重みを持っていた。迅の目元が、じわじわと熱くなる。視界が少しだけ潤むのを隠すように、迅はふっと小さく吹き出した。
「はは……本当に、嵐山には敵わないな。そんなこと言われたら、おれ、もうどこにも行けなくなっちゃうよ」
「どこにも行かなくていい。ここにいればいいんだ」
嵐山は重ねた手に少しだけ力を込め、それから優しく微笑んだ
「ほら、手が止まっているぞ。冷めないうちに食べてくれ」
「うん、いただくよ」
残りのオムライスを口に運ぶ。先ほどよりも、ずっとずっと甘くて、温かい味がした。心の中にあった冷たい霧は、嵐山の言葉と料理によって、完全に晴れ渡っていた。食事を終え、
「ごちそうさま」
と食器を片付ける。キッチンで皿を洗う嵐山の背中に、迅は後ろからそっと寄り添うように近づいた。抱きしめる一歩手前のような、けれど確かに互いの体温が伝わる距離。
「嵐山、ありがとう。生き返ったよ」
「大げさだな。……でも、少しは元気になったようで安心した」
嵐山が洗い終えた手を拭き、振り返る。二人の距離は、息が触れ合うほどに近かった。嵐山は優しく迅の髪に触れ、その前髪をそっと横に払う。サングラスのない迅の素顔は、とても穏やかで、綺麗な色をしていた。
「少し、眠るといい。明日の朝まで、俺のベッドを使ってくれ」
「嵐山は?」
「俺はこっちのソファで十分だ」
「やだな、それじゃ申し訳ない。……一緒に寝てくれるなら、喜んでお借りするけど?」
悪戯っぽく笑う迅に、嵐山は少しだけ耳を赤くしながらも、逃げることなくその視線を受け止めた。
「……ああ。お前がそうしたいなら、一緒にいよう」
その答えに、迅の胸は今度は別の意味でいっぱいに満たされた。窓の外の夜空には、まだ深い闇が広がっている。けれど、この小さなキッチンと、この部屋の中だけは、どんな場所よりも温かい光で満たされていた。これから先、どんな未来が待っていようとも。この温かい料理の味と、自分を包み込んでくれるこの手がある限り、きっと何度でも前を向ける。迅は嵐山の手をギュッと握りしめ、幸せな予感だけを胸に、静かに目を閉じた。