数日が過ぎた。一度も連絡が来ない。
一通のメッセージも、着信もない。
――Chanceから。
Itrappedは最初、気にも留めていなかった。
「どうせまた、すがりついてくる」
「俺にしか興味ないやつだし」
そう思っていた。
だけど、三日目の夜。
スマホの通知が鳴るたびに、少しだけ心が跳ねた。
それが**“自分でも意識している”**と気づいたのは、
ふとChanceの名前を検索しようとしている自分に気づいたときだった。
カジノにもいない。
部屋にもいない。
あいつがいつもいるはずの場所には、誰もいなかった。
「……あいつ、ほんとに、いないのか」
ソファに投げ出すように座って、足を組む。
部屋には音楽も流れていない。
ただ、妙に広くて静かな空間だけがあった。
Itrappedは王冠を外し、天井を見上げる。
Chanceがいた夜を思い返す。
ベッドの中、無遠慮に抱きしめられた腕のぬくもり。
耳元でささやかれた、くすぐったい「好きだよ」。
あの熱。
あの感情。
「あいつ……なんで急にいなくなるわけ?」
自分の中にある“感情”が、言葉にできない。
怒り? 違う。
悲しみ? それも違う。
ただ――**“空白”**だ。
Chanceの声がしない、彼の匂いがしない、あの体温がない。
それだけで、どこかが物足りない。
いつもはすぐに開くLINEのトーク画面。
今は既読すらつかない。
さすがに違和感が胸に残ったまま、
夜になると、Itrappedは一人でベッドに入った。
けれど――眠れない。
これまで、抱かれても何も感じなかった自分が、
いま、あいつがいないことだけで、眠れなくなってる。
「……バカじゃん、俺」
そう呟いた声は、どこか震えていた。
寂しさなんて、今まで感じたことなかったのに。
Chanceが、どこか遠くに行ってしまったような気がして――
初めて胸が、少しだけ、痛んだ。
雨の夜だった。
濡れたアスファルトに街灯が滲み、
どこか虚ろな都市の片隅。
Itrappedは、偶然じゃない場所にいた。
Chanceの行きつけだったバー。
昔、一度だけ一緒に入ったことのある、小さなジャズバー。
あれから何日も、何週間も、待った。
Chanceは戻ってこなかった。
だから、自分から“会いに行く”しかなかった。
重いドアを押すと、カウンターの奥に――いた。
Chance。
けれど、彼はまるで別人だった。
サングラスはしていなかった。
帽子も、ヘッドホンもなかった。
代わりに、無表情。
冷え切った目で、グラスを傾けていた。
「あ……」
Itrappedの声が、思わず漏れる。
Chanceがゆっくりと顔を向けた。
でも、その目は、何も宿していなかった。
「……ああ。Itrapped、か」
感情がない。
怒りも、喜びも、哀しみも。
それはまるで――感情を“殺した目”だった。
Itrappedは近づいて、隣の席に座る。
何か言おうとしたが、喉の奥が詰まる。
Chanceは、何も言わない。
ただ、バーテンダーに「もう一杯」とだけ言った。
「……会えて、よかった」
Itrappedはようやく、そう言った。
Chanceは少しだけ目を細める。
でもそれは笑顔ではない。
ただの、皮肉だった。
「よかった? あんたが俺に何をしたか、ほんとに覚えてる?」
刺すような言葉。
でも、怒鳴り声ではない。
むしろ静かで、冷たい。
まるで“諦めきった人間の声”だった。
「……ずっと愛してたよ。何度も言った。
けど、あんたはそれを踏みにじって、金で済ませて、俺を壊した。
それでも俺はあんたが好きで、諦められなくて――でも、もう、いいんだ」
Itrappedの胸が締めつけられる。
Chanceの目が、自分をまったく映していないことに気づいたから。
「Chance……俺、あれからずっと――」
「もういい。話さなくていいよ」
Chanceは首を振る。
その仕草さえ、どこか遠い。
「もう“好き”とか、“寂しい”とか、感じられなくなったんだ。
あんたのせいで、壊れた。……元には戻らない」
その言葉は、笑っていたはずの顔からこぼれた。
でも、その笑顔に涙はなかった。
ただの、“空っぽの仮面”だった。
Itrappedは何かを言いたくて、口を開いた。
けれど、Chanceはもう席を立っていた。
「じゃあな、Itrapped」
「……もう、追わなくていいよ。俺には、何もないから」
雨の音だけが、残った。
Itrappedは、崩れるようにその場に座り込んだ。
取り返しのつかないものを、自分の手で壊してしまったことを――今さら知った。
午後の空は鈍く濁っていた。
まるで夕方に差し掛かる前から、世界が今日を諦めているみたいな色。
Itrappedはビルの裏通りにいた。
よれたシャツに、深くかぶったフード。
誰にも話しかけられたくなかった。
誰の目にも映りたくなかった。
――だけど。
そんな願いは、呆気なく踏みにじられる。
「……Itrapped?」
その声は、空気の中でも浮いていた。
聞き間違えじゃない。
間違えるはずがない。
何度も夢で聞いた、あの声だった。
ゆっくりと顔を上げる。
自分の顔は、もう見せられるようなものじゃなかった。
まともに眠っていない。
食べてもいない。
あの輝いていた自分なんて、もうどこにも残ってない。
けれど、その視線の先に――Chanceが立っていた。
一歩、近づく。
Itrappedは反射的に顔をそむけた。
今だけは、見ないでほしかった。
この惨めな自分を、
こんなに何もかも失って、
空っぽになった姿を――あの人にだけは、見せたくなかった。
「……どうして、こんなとこに」
Chanceの声は変わっていなかった。
でも、その音には“感情”がなかった。
問いかけのようで、答えを期待していない声。
Itrappedは口を開いたけど、喉が動かない。
声が、出ない。
言いたいことはたくさんあったはずなのに――
「俺は……」
やっと絞り出した言葉も、途中で止まる。
Chanceは、それ以上近づいてこなかった。
ただ、遠くから“何かを確認するように”見ていた。
まるで、
「自分のせいで壊れた男が、どうなったのかを確認しにきた」みたいに。
その視線が、あまりに冷たくて、
でも、どこかでまだ優しくて――
Itrappedは、その“やさしさすら偽物”に見えてしまった。
「……笑えよ。あんなに俺のこと、バカにしてたんだろ。
今の俺、見て、笑えるだろ。ざまぁみろって……言えよ」
そう言った声は、どこか震えていた。
まるで、“ほんとは言ってほしくない”って願いが、滲んでいた。
Chanceは、少しだけ目を伏せた。
そして、静かに背を向けた。
「……もう、昔のあんたじゃない。
俺が見てたあんたは、こんな風に壊れる人じゃなかった」
歩き出す背中。
その背中にすら、もう言葉は届かない。
「待ってくれよ……」
小さく、届かない声が漏れる。
一歩、踏み出す足に力が入らない。
まるで、世界に拒絶されたように。
Chanceは、そのまま振り返らなかった。
Itrappedが見せた“後悔”も、“痛み”も――
まるで、もう何の価値もないものとして、風にさらっていくようだった。
その瞬間、
Itrappedは心のどこかで理解してしまった。
「ああ、もう本当に、俺は取り返せないんだ」
chance視点
歩き去る背中が、ひどく重かった。
冷たい風が頬をなでても、肌に何も感じない。
でも、心の奥のどこかだけが、じんわりと熱かった。
あんな姿、見たくなかった。
でも、見てしまった。
Itrapped。
あの人が、自分に「愛してる」と言ってくれたなら、
きっと昔の自分なら、泣いて喜んだ。
でも今は――その言葉を受け取れる場所が、胸の中から消えてしまっていた。
あの人は、
強くて、傲慢で、自信家で、
俺のすべてを踏みにじったくせに、
今は壊れた子供みたいに見えた。
「笑えよ」って言われた。
「ざまぁみろって言えよ」って。
……そんな風に見えた? 俺は?
たしかに、感情はもう上手く出せなくなった。
笑い方も忘れたし、
涙なんて、いつの間にか流れなくなった。
でも、あの人の姿を見たとき――
胸の奥が、確かにチクッとした。
(やめてよ、そんなの。
俺、あんたのこと……もう忘れたかったのに)
振り返れなかった。
目を合わせたら、たぶん崩れてしまいそうだった。
あの声、あの震え、
助けてって言いたそうな目。
全部、まだ焼きついて離れない。
(俺のせいじゃないよね?
……でも、俺が“変わってしまった”から、
あの人は、壊れたのかもしれない)
ぐるぐると、答えの出ない考えが頭を巡る。
無表情の下で、心だけが走っていた。
「……どうしてさ。
あんなに俺のこと、いらなそうにしてたくせに。
今さら、そんな顔するんだよ」
駅のホームで、立ち止まった。
スマホの画面を開く。
一度もブロックしなかった。
未読のまま、通知だけが積もっていく。
指先が、名前をなぞる。
送られてきたメッセージ。
未送信のままの下書き。
「助けて」
「まだ遅くないなら」
「声が聞きたい」
「ごめん」――
スクリーンをそっと閉じる。
何も返せない。
返したら、また引きずり込まれる気がして。
(俺、もう戻れないよ。
壊れたのは、俺も同じだから)
でも。
でも――
“あの人が、どこかでひとりで崩れていく”
そのイメージが、ずっと頭から離れない。
(助けたい、って思った。
でもそれは、俺のため?
それとも……あの人のため?)
自分でも、わからなかった。
ただ、今ひとつだけわかるのは――
**「あの人のことが、まだ胸のどこかで生きてる」**ってことだった。
それが、嬉しいのか、苦しいのか、
それすらもう、判断できない。
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