夜明け前にレイはアランを加えた少数精鋭の部隊を組んで領南へと発った。
俺はそれを見送ってから、薄暗い廊下を足音を忍ばせながら歩く。
馬小屋へ向かう為だ。
レイの声が耳の奥にこびりついている。あの低く冷たい声で『ついてくるな』と告げられた瞬間の空気の重さが、何度も思い返される。レイは俺を守りたいんだろうけど、俺だってレイを放っておけないんだよ……こんな時くらい、俺だって役に立ちたい。
馬小屋に着き、レイのものよりも一回り小さな馬を選ぶと、急いで支度を整えた。
鞍をつけ、手綱を握る頃には、東の空がほんのりと明るみを帯びていた。
「行こう……」
馬のたてがみを軽く撫でると、俺もまた領南へと馬を走らせた。
俺はもしかして間違っているのかもしれない。レイの命令を無視して、彼に迷惑をかけるだけなんじゃないのか?そんな疑念が胸の奥に広がり、手綱を握る指先が少しだけ震えた。
けれど――俺には、このままじっと待つなんてできなかった。鍵としての役割を担っている以上、俺が動かなければいけない時もある。フランベルクを守るために、そしてレイを守るために、俺にしかできないことがあるはずだ。
夜明け前の空気は冷たく、俺の頬を刺すようだった。
馬の足音だけが静寂の中で響く。けれど、胸の中では不安がざわめき、冷静さを保とうとする自分と、どうしようもなく焦る自分がせめぎ合っているようだった。
※
森の入り口に差し掛かる頃、太陽はすっかりと真上に上がっていた。しかし、森の中は薄暗いままだ。枝葉が覆い茂り、空を遮っている。
「……普段なら、結界が森を守ってるはずなんだけど……」
馬から降り、慎重に森の奥へと歩を進める。いつもなら感じるはずの穏やかな空気が、どこかざわついている気がする。
「空気が変だ……」
周囲を警戒しながら進むうちに、遠くからかすかな声が聞こえてきた。俺は立ち止まり、耳を澄ませる。
「……レイの声?」
声が聞こえる方角に向かい、静かに茂みをかき分けながら進む。
近づくにつれ徐々に声がはっきりしてきた。
茂み越しに、レイとアランの姿が見えた。二人は短い距離を隔てて向かい合っている。レイの表情は険しく、アランはいつもの軽い笑みを浮かべている。
レイが連れてきた騎士たちが近くにいないのを見るに、偵察に向かわせたのだろう。
「結界の異常にお前が関与しているんじゃないのか?」
「兄さん、何を言ってるんだ。僕がそんなことする理由なんてないだろう?」
ここに来てもこんな感じなんだな、この二人……。
俺は息をひそめつつ、それを聞いていた。
レイがこんなに感情的になるなんて……アランがやっぱり何か企んでいるのか?
もう一歩、と近づいたとき、足元の枯葉がわずかに揺れた。俺は一瞬、音に気付かれたかと緊張する。しかし、次の瞬間――。
森の奥から響いた低い唸り声に、俺の全身が凍りついた。
音のする方に目を向けると、薄暗い木々の間で巨大な影が揺れている。
「嘘だろ……」
喉の奥で言葉が掠れる。フランベルクの結界がある限り、魔物がこの領域に侵入するはずがない。それなのに、目の前の現実がすべてを否定するかのように魔物が現れている。
そして、魔物の赤い瞳が隠れている俺を捕らえた。
「っ!」
牙をむき出しにしたそれが、低い唸り声を上げながら動き出す。森の静けさを引き裂く音とともに、鋭い爪が木の幹を削りながらこちらに迫ってくる。
「なんで、こんなことが……!」
心臓が喉元で激しく脈打つ。全身が硬直して、足が地面に縫い付けられたみたいに動かない。
「下がれ、カイル!」
鋭い声が響くと同時に、森の茂みを突き破ってレイが飛び出してきた。
その瞳は魔物をまっすぐに見据え、冷たい怒りを帯びている。
「くっ……!」
レイの剣が閃き、魔物の爪が鋭い金属音を立てて弾き飛ばされた。彼の姿は目を見張るほどに鮮烈で、目の前の脅威さえ忘れさせるような凄まじい迫力があった。
レイの背後から、柔らかい笑い声が響く。
「兄さんがここまで余裕をなくすなんてね、珍しいじゃないか」
その声の主はアランだった。彼はいつもの穏やかな笑みを浮かべたまま、魔物へと視線を向けている。
「何をしている、アラン!下がれ!」
レイが怒鳴る中、アランは静かに剣を抜き、まるで舞うような動きで魔物の隙を突いた。
剣の刃先が的確に急所を捉え、魔物は一声呻き声を上げて崩れ落ちた。
「兄さん。これでもそれなりに腕は立つほうだよ。……終わりだ」
剣を振り払ったアランは、カイルに目を向けてにこりと笑った。
魔物が倒れると同時に、レイが俺に詰め寄ってきた。
「カイル、なぜ命令を守れないんだ!」
その声には激しい怒りと苛立ちが滲んでいて、俺の胸を刺す。
「お前がいなければ、もっと冷静に対処できた!何かあったらどうするつもりだ!」
「で、でも、俺がいなきゃ、結界の異常に気付けなかったかもしれない!」
俺も思わず声を荒げてしまう。レイの怒りが俺に向けられる理由も分かっているけど、それでも言いたいことが溢れて止まらない。
「二人とも、その辺にしておきなよ」
不意に、アランが柔らかな口調で割って入った。
「ここで言い争うより、まずは休む場所を探すべきだろう。偵察にやった騎士たちと合流して近くの宿屋に向かおう」
レイはアランを睨みつけたが、次第に肩を落として短く息を吐いた。
「……行くぞ、カイル」
その低い声は、怒りを抑え込んだような硬さがあった。
俺はその背中を見つめながら、小さく頷いてその後を追った。