テラーノベル
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七月がもう遠くになって、空がぼんやりとした青に覆われていた。
暈けたような入道雲は輪郭を失って、半分うろこ雲のような姿をしている。
窓からの風景。
閉めきった強化ガラスからは高い鳥の声だけが漏れて、一片の風も入らない。
水に溶解しかけたNaClを凍らせたように、同心円状の模様を残してレースカーテンが佇んでいる。
―八月、だ。
今は八月だ。
そっとカレンダーを見やる。七月で止まったままの。
夏休みの、折り返し地点。
私は今そこに立っているのだ。
私たちは今、そこに立っているのだ。
六月が終わったような心地のまま、八月を過ごしている。
夏という標本箱に何も入れられていない気持ちのまま、夏休みを半分食してしまった。
ぼわりと瞳孔が拡がりそうになる。溜め息と区別のつかない深呼吸を一つ。
それから、私は検索バーにタイプを打ち込む。
「懶惰の歌留多」
臥竜。おれは、考えることをしている。ひるあんどん。面壁九年。さらに想を練り、案を構え。雌伏。賢者のまさに動かんとするや、必ず愚色あり。熟慮。潔癖。凝り性。おれの苦しさ、わからんかね。仙脱。無慾。世が世なら、なあ。沈黙は金。塵事うるさく。隅の親石。機未だ熟さず。出る杭うたれる。寝ていて転ぶうれいなし。無縫天衣。桃李言わざれども。絶望。豚に真珠。一朝、事あらば。ことあげせぬ国。ばかばかしくって。大器晩成。自矜、自愛。のこりものには、福が来る。なんぞ彼等の思い無げなる。死後の名声。つまり、高級なんだね。千両役者だからね。晴耕雨読。三度固辞して動かず。鴎は、あれは唖の鳥です。天を相手にせよ。ジッドは、お金持なんだろう?
そうだ。
そうだ。そうなのだ。私はまさに臥龍、考えることをしている、昼の行燈、面壁九年、雌伏、賢者、潔癖、凝性、絶望、ニヒリズム、死後の名声、苦しさ、悲しさ、それそのものだ。
私は、動いていないわけではない。
一秒一秒をゆっくり過ごしていたら、今に辿りついただけだ。
全ての行動が昼の行燈のように目立たないけれど、それでも、私は意味を以てしてそれをやったのだ。
カーソルを動かす。
ファイルを開く。
『朝。』
『寂しさが、悲しみが、死を夢む。』
『暗く深い海の底で息をしているようだ。』
『私は、私の中に空間を抱えている。』
『違う。』
『ある冬の日。クリスマスを終え、年末のムードに浸り始めた都会。』
『静かなピアノが流れ、皿の上のケーキを毒々しく飾る。』
『夏の温度が空に溶けて、品性の欠片もない午後だった。』
『七月がもう遠くになって、空がぼんやりとした青に覆われていた。』
一行目だ。
私が夏に書いた、私の文章の、一行目。
私は夏を酔ったように過ごしていたわけではない。
私は、文章を書いている。
私は精神世界を作っている。
世界を。
―狂苦人難を。
狂苦人難を含む、私の精神世界を。
ふと、遠くで蟬の鳴く声が聞こえた。
それと同時に、アスファルトで焦げ死ぬ蚯蚓を思い出した。
それから、あの場所の中庭の草を。
それから、あの建物の分子構造を。
それから、目に星を宿しているように見せるには角膜に『光の色を分散し本人に眩しくないようにしつつ外部から見て星の形に光を反射しているようにする』フォトニック構造を仕込まなければならないのであって現代技術はまだそれに追いついていないことを。
それから、―私の将来像を。
大丈夫、と声が聞こえた気がした。
生きている。
夏休み最終日に絶望に浸らずとも、充実した夏休みを過ごしている。
ふう、と息を吐いた。
今日は、八月十三日。
乱反射する透明な水の、その光のような日光が起きたばかりの布団に落ちている。
午前九時。
いい天気だ。
コメント
1件
おお、これは……めっちゃ好みの文体だわ。 「夏という標本箱に何も入れられていない気持ち」って表現、解像度が高くて刺さった。 主人公が「動いてないわけじゃない」って自分を肯定する流れ、すごく共感できる。 そして「狂苦人難」ってワード、めちゃ気になる。続きも読みたい🔥
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yu.nn
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