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ミーチオン地方の東部に、かつて豊かだったことがなく、神々の一瞥さえも賜ることのなかった荒れ野があった。それゆえ、善き人、正しき人の中にこの土地を愛する者は数少なかった。
そのため、神々の恩寵を失った盗賊や追放者、信仰を捨てた者たちは好んでこの土地を徘徊し、岩陰に潜み、無辜の民から蓄えを奪う策を企んでいた。夜の伴侶たる月もまた、影の落ちない荒漠たる大地がゆえに、かの土地を愛していた。
欠け始めた月が清らかに滑らかに従者の星々を引き連れて荒れ野を覆う夜空を横切っていく。その面が大いに陰れども光の粒子は荒涼とした大地に染み渡り、砂の一粒、地割れの一筋まで偏に余さず慈愛を注ぐ。このような月の魔力の衰えつつある夜においても、狡猾な盗賊たちは宝物の満たされた穴蔵を夢に見ながら、荒野のねぐらに身を隠して真に暗い夜を待つのだった。
対して餓えた魔の者たちは――彼らは常に餓えているのだが――魔力を帯びた月の光をたらふく浴びようと荒野に現れては、淡い月光に少しの憂いを感じることもなくけたけたと笑い、乾いた土の上を転げる。
北から吹き渡る夏に怯える乾いた風も、それに付き添う腰巾着の砂埃もこの地の者には目もくれず、息を潜めるようにして荒野を通り過ぎ、南の湿地へと飛んで行く。飾り付けるを良しとしないために、行く手にもどこにも遮るものはなく、全て夜空の眷属は人の行き来も稀な荒野の何事をも見通している。
ユカリたちは荒野を通り抜けるにあたって隊商に同行することとなった。そこが邪悪な土地であり、魔性や信仰無き輩がうろついているからだという。彼ら隊商は多くの傭兵を雇っているので、その恩恵にあずかるというわけだ。交渉はそれなりに上手くまとまった。どの傭兵よりもパディアが強靭であったことがそれに関わっている。
このような土地では人も住めないのだろう、とユカリは思い、また口にもした。しかしパディアはそれを否定し、この荒野に棲む蛮族について語った。
新月を除いて一切の月を恐れぬ人間はただ蛮族のみであり、蛮族であるがゆえにであり、ゆえに蛮族である。
泥濘族という者どもがいた。はるか古には東の大陸に王国を持つ者たちだったという。かつては夢にも現れ出でない栄光ある大国であったが、かの末裔たる彼らには、かつての栄光も、はてはその時代の記憶さえも残っていないという。
かの王国は長く支配下にあった小国の築いた反乱同盟との戦に敗れ、南の山々から北の果ての海、もしも存在するならばそこに浮かぶ島々に至るまで全ての領土と誇りを奪われ、柘榴の宝珠に真銀の角笛、神々も羨む七色の噴水、形ある全ての財宝と秘密を失った。生き延びたわずかな民草は命と魂だけを抱え、このグリシアン大陸に逃げ延びたそうだ。
慈悲深き神々は服わぬ民である泥濘族さえも貴き御心の明かりで照らし出し、この大陸に仮住まいすることを許しながらも、同時に残酷極まりない神々は彼らの胸の裡に燃え盛る炎をけしかけ、持たざる者たちをこの荒野に追いやったという。
ただ一柱、故郷に留まる人間に関心を持たない泥濘に浸る者だけが、命と魂の他に何も持たざる泥濘族に暗闇の中の喜び、すなわち星明りを賜ったという。
パディアに教わった泥濘族の伝承にはどこか子供を脅かすような教訓めいた馬鹿々々しさをユカリは感じた。その後、ビゼに教わった泥濘族の生きざまはこの荒野に賢明に生き抜く人々のように感じさせた。
わずかな水とわずかな畑、わずかな家畜を大事にし、多くの古き教えと泥濘族にだけ伝わる秘密を守り、豊かな天を仰ぎながらも貧しい大地で決然と生きる人々。神々よりもありふれた自然を愛する族と言った話だった。
ユカリとパディア、ビゼが旅路の途上の赤い荒野で実際に出会った泥濘族はそれなりに世俗的だった。それはそれでユカリは安心する。禁断の儀式や忌まわしい慣習に巻き込まれることはなさそうだった。
日干し煉瓦と毛皮でできた彼らの住まいはそれだけであればみすぼらしいが、二つとない不思議でありながらどこか見覚えのある文様が描かれていて、ユカリを魅了した。確かにそこには長い歴史で育まれた意味が幾重にも込められているのに、そうと分かっていてもその内容を想像することしかできない事実に快感があった。
日が落ちて、篝火が灯されても、ビゼや隊商の商人、傭兵たちと泥濘族の大人たちは広場に大きな焚火を作り、宴を繰り広げている。ユカリもまたその末席に加わっていた。
焼けた肉の香ばしい匂い、この荒れ地でわずかに栽培されるという香草の香り、山羊の乳から作ったという酒の甘い匂いがぷんぷんと漂ってきて、ユカリは少し気持ち悪くなっていた。
隊商に同行すると決めた際、泥濘族の集落に立ち寄るという話は聞いていた。民芸品の商談があるとのことだったが、この宴の様子を見るにどうやら彼らにとっては二の次らしい。
泥濘族の逞しい男たちが奏でる楽の音に合わせて、麗しく、そしてやはり逞しい女たちが舞い踊る。長く伝わる舞踊だ。そこには古き獣の咆哮が示唆され、それを退治する英雄の物語が込められている。多くの王の善き行いと過ちが描かれ、神話と予言が語られている。しかし《時》の猟犬たる《老い》と《忘却》は等しく地上の人間に牙を剥き、泥濘族の中にそれを知る者も、読み解ける者も最早いなくなっていた。
泥濘族のやや浅黒い肌そのものや焦げ茶色の髪を束ねる髪飾り、身につけた装飾品は焚火の光を反射する星釉と呼ばれる顔料で彩られていて、しなやかかつ切れ味鋭い手足の動きが作る舞踊の光景はまるで竜巻に弄ばれる星々のようだった。
家々に描かれた意味深い文様もまた星釉を使っているようで、昼間とは違う不思議で神秘的な天の宮殿のごとき光景に包まれている。
泥濘族がかつての王国から命と魂の他に何一つ持ち出せなかった一方で、星釉はグリシアン大陸に渡ってきて手に入れたものだった。それは多くの伝統と混ざり合い、時には塗りつぶしてしまったが、彼らの生活文化をより深く輝かしく彩った。
ユカリは宴の特に盛り上がっている人々から少し離れた場所で長椅子に座り、緊張した面持ちで、両手の指を弄んでいる。
この村にやってくる半日前から魔導書の気配を感じていた。そして今も魔導書が近くにあることをユカリの感覚は警告している。それでいてあいかわらず、場所も距離もまるで分からない。まだ先にあるのか、もう通り過ぎたのか、あるいはこの村に隠されているのか。もしもこのまま旅を続けて、ある瞬間気配が途切れてしまったならば、引き返さなくてはならない。しかし依然として自身が魔導書の存在を感じ取れる距離さえ把握できていないでいる。
「ねえ、お姉さんは宴に入らないの? お酒も飲んでなかったよね」と泥濘族のあどけない少年に話しかけられる。
いつの間にか五人の子供に囲まれていた。それぞれに背も年齢もばらばらの三人の少年と二人の少女。
子供達も大人たちと同様に星釉で体のあちこちに不思議な文様を描いている。焚火や篝火の騒々しい明かりを受けながら、星の子のように厳かに煌めいていた。
「私もまだ子供だからね」とユカリはため息をつきつつ言った。「夕食を食べたら一日が終わり。後は寝て、夢を見て、起きたら次の日だよ。君たちはまだ寝ないの?」
「僕たちはさっき鶏に夜の餌をあげてきたところだよ」と別の男の子が言った。「僕たちの仕事なんだ。もう終わったけどね。お姉さんも仕事がないなら僕たちと遊ぼうよ。大人が宴をしている時は夜に遊んでいても怒られないんだ。みんなお酒を飲んでいるからね」
「いいけど」とユカリは言って、他の二人の少女の方を見る。「どんな遊び? 六人でやる遊びがあるの?」
この村で子供たちがよくやる遊びを教わる。まず準備として地面に大きな多重の円を描く。一人一つ何かの植物の根っこを編んだ大小の輪を持つ。この輪にもあの顔料が使われているようだ。
順番に地面に描いた円の中心へと輪を投げ、一巡した時点で中心に最も近く輪を投げた者が輪を総取りするというのが基本的な内容だ。
他にも同じ距離なら大きい輪を優先したり、投げた輪が他者の輪に触れると失格だったり、他者の輪に触れることなく輪を重ねると後に投げた者が優先されたりと細かい決まりがあった。
これらの遊びでさえも、古くは泥濘族の逃げ延びてきた失われた王国の時代から長く継がれたものだった。地面に描いた円にも投げる輪にも、あるいは投げる時の掛け声や身振りでさえも、多くの意味が込められていて、その遊び自体が魔術的行為であり、また古き物語を伝える手段でもあった。しかし今となってはそれを知る者はどこにもいない。
ユカリはそこそこ上手くやれたが、悪戯好きな風の不正の申し出を断った後からは、謎の突風が時々引っ掻き回し、あまりいい成績をとれなかった。
ユカリの村には年の近い者がいなかった。年上か年下。このような遊びは幼い頃に年上の少年少女と興じて以来だった。だからだろうか、ユカリは思いのほか熱中し、ビゼが近くにいる事にしばらく気づかなかった。
突然そばに現れたビゼを見て、びくりと跳び退き、非難する。
「いるなら声をかけてください」と言ってユカリは、さっきまでビゼも加わっていた宴の方を見る。パディアはまだ飲み食いしている。「宴は楽しみました? こういうのは久方ぶりじゃないですか?」
ビゼは少し赤くなった顔で呂律の怪しい返事をする。「ああ、こんなにも楽しいのは何年振りか分からないよ。鎧に閉じ込められて……いや、鎧に閉じ込められる前、魔導書探求の旅においても、大した贅沢は出来なかった。すると、最後の贅沢は旅立つ前の決起会だね。皆が僕たちを讃え、同情し、永遠の別れを惜しんだものだ。それにしても、この隊商に同行したのは正解だったね。少なくとも僕にとっては」
眠たそうに微笑むビゼからユカリは少し離れる。
「お酒臭いです」とユカリは顔をしかめて言った。「私にとっても正解ですよ。偶然ではありますけど、魔導書の気配を感じましたから」
二人で手近にあった長椅子に落ち着く。ビゼはそのまま倒れ込んでしまいそうにふらついている。
「ユカリさん、今も気配を感じているんだね。途切れることなくずっと?」
「はい。昼間に気配を感じてからずっと、です。同じくらいの感覚で。肌がひりつく感じ」
子供に急かされ、ユカリは謝って輪を返す。少しお話をしているから遊んでいて、と。
うーむ、とビゼは唸り、考え込むように腕を組む。そうして少し考えた後、もしかして眠ってしまったのかとユカリが思い始めた矢先に答えた。「強く感じることも弱く感じることもない、ということはそれで距離を割り出すこともできないということだね?」
ユカリは頷いて答える。「そういうことです。それがあれば距離や、あと方向なんかも簡単に探り出せるんでしょうけれど、実際はただあるということ以上の何も分からないです」
「それぞれの魔導書を比べても感じる気配は同じなのかい? 種類というか肌触りというか」
「変わらないですね。どれも同じです。でも数は分かります。自分が魔導書を手に入れる度に感覚が重なっていく、というか。うまく言い表せませんが」
うんうんと頷くビゼの首は骨が無くなってしまったかのように揺れている。
「なるほど。つまり昼に言っていたように、ユカリさんが既に持っている魔導書を除くと、新たに一枚の魔導書を感じる、ということだね?」
それを聞いてユカリは答える。「ええ。本当に一枚かは分かりませんが、私の感じる気配は他の魔導書一枚と同じ感覚です。でももしかしたら複数枚の紙に渡って一つの魔法について記されているか、あるいは一枚の紙に複数の魔法が記されている可能性もありますよね。なので魔導書そのものの気配ではなく、記されている魔法の気配を感じているのかもしれません」
「なるほど。良い着眼点だね。ただ実際のところ、一つの魔導書に一つの魔法というのが定説だよ。例外はないが、あくまで今のところ見つかっていないというだけのことかもしれない。とはいえ魔導書そのものではなく、魔法の気配を感じているのではないか、という推測はかなり確からしいんじゃないかな」
子供たちの投げた星々を突風が弄んでいる。いつの間にか遊びに参加している小さな不思議を子供たちは難なく受け入れて、六人の歓声はより高まり、さらに遊びに熱中しているようだ。
「魔導書の気配については何か知らないですか? ビゼさんは感じないんですよね?」
「ああ、僕もパディアも感じない。恐らくは君を除いて、この世の誰も魔導書の気配を察知できないと思う。そもそも魔導書を探知する方法自体何一つ発見されていない。つまり君の存在を除けばね。魔導書が既知の手段で破壊できないことは知っているね? 救済機構なんかは焚書と称してあらゆるものを焼き尽くし、灰の中に魔導書を見つける、ということをやっているが。あれは探知とは違うけれどさ。魔導書を見出す手段なんてそれくらいのものさ。まあ、もしも誰かが探知する手段を見つけたとしても公言しないだろうけど」
「ビゼさんも?」とユカリは遊びに興じる子供たちの方を向きながらも横目でビゼを見て言った。
ビゼが変な顔をする。怒っているわけではないようだが、驚きとわずかに哀しみを表している。
「信じてもらうしかないが、僕もパディアも知らないし、今後知ることがあれば君にも隠さず教える。確かに魔法使いは秘密主義者が多いが、そもそも君は僕にとって恩人なんだから。いや、恩を感じているから信じてくれ、というのも虫のいい話か」
義母さんが秘密主義者だとは思わなかったけど、と頭の中で考えたユカリはしかし頭の中で頭を振る。義母さんにはとても大事なことを秘密にされていたのだった、と思い直す。やっぱり秘密主義の魔法使いは多いのだろう。
「別に疑ってないですよ。こうして魔導書の元にも案内してもらっているわけですし。何冊あるのか知らないですけど、とにかく一つ一つ確実に集めていくしかないでしょうし」
「何冊あるのか、か。そんな発想したこともなかったよ」
ユカリは不思議そうな面持ちで返す。「なぜです? 一冊が完成していて、さらに新たな魔導書が見つかっているんですから、自然な発想だと思いますけど」
「そうだね。だけど君からはある一つの事実が抜け落ちている」勿体ぶった様子でビゼはユカリの瞳を見つめ返す。「完成した魔導書が人間の前に現れたのはこれが史上初めてのことなんだよ」
そういえばそうだ、とユカリは気づく。初めて見た魔導書が完成された一冊だったせいで気づかなかった。
「つまり一冊の魔導書がいくつもの項目ごとに分断され、散らばっている、と考えられてきたわけですね」
ビゼは少しばかり自嘲気味に笑う。
「説ともいえない当たり前の発想という感じだよ。誰も論じてすらいない。そもそも大して重要なことではないという話かもしれないけどね。そんな事より、魔導書自体の研究や制作者についての考察の方が重要視されていたってことだね」
制作者は今目の前にいる人の前世だよ、とユカリは言ってしまうのを堪える。少し心苦しくはあるが、この秘密を明かして得することなどない。
宴はまだまだ続いている。商人の中には泥濘族の女性の為に荷車から出してきた輝かしい布地を広げている者もいる。蜘蛛の糸で織りあげた黄金の布。高熱を滾らせる鋼のような真紅の綺羅。柔らかく透き通った水の如き綵。
傭兵の中には泥濘族の戦士に武勲を語り聞かせている者もいる。砂漠に潜む人食いの小鬼、歯軋り族から逃げ果せた物語。邪悪なる沼の竜を目撃したという逸話。かの牢獄塔象牙の檻からの脱獄者に恩を着せたという秘話。
グリュエーの加入する子供たちの輪投げ遊びも終わりが見えない。星釉で煌めく輪が宙を飛び交う様は流星の矢が飛び交う星々の戦のようだった。
どれもがユカリの好奇心を刺激したが、子供たちから離れた場所に一人で人形遊びしている子供に気が付いた。ユカリは悪戯な笑みを浮かべ、お節介してやれ、とその子供の元へ行く。