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三
イスパニョールの先行で始まったPKは、両チーム失敗なしで進んだ。
ただ、イスパニョールのキーパーは何度かボールを手に当てている一方で、神白はからっきしだった。心の揺らぎが、パフォーマンスに影響を与えていた。
ぱさり。敵のキーパーの蹴ったボールが、左側のゴール・ネットを揺らした。イスパニョール、十一人目のPK成功だった。
神白は右に跳んでいた。倒れたままの体勢で、ごんっと両の拳を地面に打ち付ける。
(くそっ! また逆! 何回、読み違えてんだ! しっかりしろっての!)
苛立ちながらも神白は、すくっと立ち上がった。ボールを拾い上げた後に、早足でペナルティ・アークへと向かう。
次のキッカーは神白。後攻のヴァルサの十一人目であり、外せば敗北が確定となる。
敵のキーパーがゴール前に移った。神白はボールを地に据えて、一歩二歩と後退する。
審判が笛を鳴らした。神白は雑念を頭から追い出し、おもむろに駆け出した。
右足をボールの真横に踏み込み、左脚を振り抜いた。渾身のインステップ・キック(足の甲によるキック)だ。
ミートの瞬間、敵のキーパーが機敏に跳躍した。
しかし、シュートはゴールの上方へ逸れていった。刹那、神白の血の気が引く。PK失敗。だが事態はそれに留まらなかった。
神白の蹴ったボールは、二十人弱の観客の一群の中央に飛んでいった。ふくよかな体型の中年男性が、慌てた様子で両腕で顔を防ぐ。
男性の前腕にボールが衝突した。男性は尻餅を搗き、すぐ後ろの若い男も巻き込まれて倒れた。
次の瞬間、二人の近くにいた男が憤怒の形相を浮かべた。すぐさま歩き出すと、バナーの壁を跨いで越えた。周囲の者も次々に追随し始める。
(何を怒ってるんだ? コートからボールが飛んでくるなんてよくあるだろ? 負けた腹いせか? それとも、まさか、俺がさっきの豚の頭事件の仕返しをしたとでも勘違いして──)
推理する神白の眼前で、観客たちが駆け出した。
危険を感じた神白は振り返り、全力で逃げ始めた。周りを見渡してすぐに、入場口への退避の方針を決める。
だが、べちゃ。背中に柔らかい何かが当たる感触がした。走りながら手を遣ると、ぬるりとした触り心地だった。
(何だ? 卵? ああくそ、悪質なサポーターってやつは!)
神白がイライラする間も、観客たちの追跡は続いた。ペットボトル、双眼鏡、靴。観客たちが投げた様々な物が、進行方向に転がった。
コート外に出た神白は、簡易フェンスを跳び越えた。入場口に逃げ込み、三段飛ばしで階段を駆け下りる。
「あっちゃー、大ピンチって奴だね。君はなーんにも悪いことはしてないのに、理不尽だよね。今も昔もスペインのサッカー・ファンは、良くも悪くも熱いね。ほら、こっちこっち。私がバッチリ助けてあげるから、礼拝堂に入って来なさいな」
どこかから日本語が聞こえた。楽しげで危機感のない、若い女の声だった。
(この声、どこから……。礼拝堂に? 袋小路じゃんかよ。くそっ、こうなりゃ一か八だ)
半ばやけくそな神白は、階段を駆け上がり左に空いた空間に入った。
木製の長椅子が八個ある、ほぼ正方形の礼拝堂だった。広さは、四十平米もないと思われる。
床はモノクロの石製で、両側の壁は落ち着いた白色。奥の石壁の手前には像が祭られている。像の両側はステンドグラスで、左の飾り文字、右の幾何学模様とも青、黄色、オレンジ等などの色が鮮やかな輝きを見せている。
カタルーニャ州の守護聖母、黒いマリア像が祭られる礼拝堂だった。奥にあるライトの穏やかな光とあいまって、静謐な雰囲気を醸し出している。ヴァルサの選手の中には試合前には祈りを捧げる人もいる、と神白は耳にしていた。
(仰せの通りに逃げ込ませてもらったよ。そんで、こっからどうす──)
神白が高速で思考する。
するとマリア像の少し前の天井から、何かがゆっくりと降りてきた。後ろには後光のような白色の光を伴っている。見ているだけで心洗われるような、神秘的で超越的な光だった。
(何だ、こりゃあ? 幻覚?)
神白が混乱する中、降下は終わって地面に着いた。神白は信じられない思い共に、降りてきた者を注視し始める。
活発そうな女の子だった。緑と黒を基調とした、一昔前のヴァルサのGKのユニフォームを身につけている。小ぶりな鼻は高めで、薄めの唇には得も言われぬ瑞々しさがある。
髪は茶色がかった黒色で、ポニーテールの後ろ髪を首の高さまで垂らしている。前髪は両側に分けており、白くて滑らかな額がなんとも綺麗だった。
身長は百七十センチ半ばで、黒色のハーフ・パンツから伸びる脚はすらっと長い。スレンダーではあるが、身体の描く曲線はおそろしく優美で見とれてしまうものがあった。
「今、天井から降りて……。あなたは、何者? そもそも人間?」当惑しつつも、神白は言葉を捻り出した。
女の子は口角を上げ、人なつっこい笑顔になる。ぱっちりとした二重瞼が印象的だった。日本人的だが、西洋人の血が混じっていそうな風貌である。
「突然だもの、気になるよね。でもでも、状況は待っちゃあくれない」
歌うように口ずさんだ次の瞬間、暴徒と化した観客たちが礼拝堂に入ってきた。神白を発見し、凄い形相で近づき始める。
(やばい! 逃げ──)神白は焦るが、唐突に観客たちはすうっとその場に静止した。
「話を聞いて(EscUchame)。あなたたちは神白くんを追って礼拝堂に入った。だけど、成果ゼロの空振り。礼拝堂には、だーれもいなかった。だよね?」
余裕たっぷりのスペイン語で歌うように言い放ち、女の子はキランと擬音すら聞こえてきそうなウインクを決めた。目にした男性が皆、恋に落ちそうな、チャーミングなものだった。
怒り狂った面持ちの観客たちだったが、ふうっと毒気の抜けた顔になった。すぐに皆ほぼ同時に頷き、くるりと来た方向に向き直った。表情は穏やかで、先ほどまでの興奮は微塵も感じられなかった。
観客たちが出て行き、神白はそろそろと女の子に視線を移した。
「うふ、びっくりさせたかな? 私の名前はエレナ・リナレス・ハポン。ヴァルセロナSC・フェメニ〈ヴァルサの女子フットボル・チーム〉のキーパーだよ。割と衝撃的な出会いになったけど、人生ってきっとそんな物だよね」
エレナの爽やかな日本語での自己紹介に、返事に迷う神白は立ち尽くすのみだった。
四
直後、礼拝堂には警備員たちが入ってきた。神白たちを見つけると安堵の表情を浮かべ、コートに戻るよう告げてきた。
神白は指示に従い、コートに向かって歩き始めた。どういう訳か、エレナも従いて来ていたが。
試合終了後の挨拶を終え、コートの外でヴァルサ・フベニールAの面々は輪になり、監督の話を聞いた。責めの言葉こそなかったが、敗北の原因の分析があった。
神白は、苦々しい思いと共に、監督の論評を傾聴していた。真剣そのものな顔付きで当然のように輪に加わるエレナが気になってはいたが。時折ふむふむといった感じで頷く様が、可愛らしくて目を惹かれた。
監督の話が終わり、選手たちは各々でクール・ダウンのストレッチを始めた。神白は皆から少し離れたところに腰を下ろした。今は一人でいたい思いだった。
エレナの件は気になってはいた。だが、敗戦の責任者という自責の念は、あまりにも強かった。
神白は股割り前屈の姿勢になり、左足の爪先へと両手を伸ばす。すると、すぐさま肩に手の感触が生じ、ぐっと身体が前に行った。
「痛っ! 誰だよ、いきなり……」突然の痛みに、神白の口から言葉が漏れた。
「本日からフベニールAの第二GKコーチを務めます、みんなのアイドル、エレナ・リナレス・ハポンです♪ 以後お見知りおきを。って言っても、あなた以外の人は、みんな、私はずーっと第二GKコーチだった、って認識なんだけどね」
背後から、女性の愉快げな声が聞こえてきた。
「何を訳のわからない……。礼拝堂での催眠術めいた真似といい、君はいったい何者なんだ?」
ストレッチに耐えつつも、神白は疑念を口にした。
「『君』だなんて、失礼しちゃうな。私の年齢、まだ知らないでしょ? もし年上だったら、笛が鳴ってる。君はレッドで一発退場、だよ」
(そういやそうか。迂闊だったな)神白は小さく後悔する。
「まあでも私は十八歳。君からすると、見目麗しい美人同級生。だから気易くタメ口で、呼び名は気易く「エ・レ・ナ」でよろしくね」
エレナは親指を立て、にこりと愛嬌たっぷりに微笑む。
(ってか見目うんぬんは年齢とは関係ないだろ。見た目は凄い聡明そうなのに、奔放というか自由というか。掴み所のない人だ)
アップダウンの激しいエレナの台詞に、神白は思考を巡らせる。
「初耳な情報がてんこ盛りだろうから、順を追って説明するね。私は、日本人の血が混じったスペイン人。ハポンっていう姓は、江戸時代にスペインに渡った慶長遣欧使節団の末裔だからなの。芸術の都ヴァルセロナで生まれて、優しい両親の元でのびのびと育って、六歳の時にサッカーを始めた」
エレナは落ち着いた調子で説明を始めた。エレナの特異な経歴に、神白は興味を惹かれる。
「私は必死で練習した。やるからには頂点! トップ! 全プレイヤーの目標だもんね。弛まぬ努力と、ある程度はあった才能のおかげで、十七歳の時にヴァルセロナSC・フェメニのスカウトの目に留まった。十八歳でトップに上がって、すぐにレギュラーを奪取したのよ」
一転、エレナの声は弾んでいた。
背後なので見えはしない。だが、神白にはエレナの得意げな表情が目に浮かぶようだった。
(女子と男子じゃ状況は違うけど、十八歳でレギュラーは大したもんだよな。俺も日本にいた頃は、神童だ何だって身の丈に合わない騒がれ方をしてたけど、エレナもそういう人の一人ってわけだ)
神白は一人、納得していた。
「でも、あれこれ事情があって、私はクァンプ・ナウの礼拝堂であなたと出会い、怒り狂うファンから催眠術の力で救った」
ストレッチを中断し、神白は振り返った。
「説明、飛ばし過ぎでしょ。いったい何がどうなって、ヴァルサ女子期待の若手キーパーが、マリア様の御使いみたいな存在になってるんだ?」
努めて穏やかに、神白はエレナに問い掛けた。
「教えてもいいけど、私の使命とは無関係だし止めとくね。あまり進んで話したい内容でもないし」
諦めたような雰囲気で、エレナはぽつりと言葉を漏らした。
「使命って、何?」神白が静かに疑問を口にする。
「あなたがサッカーで成功するための支援。それが私の全て。使命にして生きがい」
エレナは一瞬にして真顔になった。これまでの飄々とした佇まいとは一線を画していた。
神白が言葉を失っていると、エレナはふいに余裕たっぷりの笑顔になる。
「そりゃあ気になるよね。こーんな絶世の美人が急に現れて、『私には使命がある』だなんて嘯くんだもの。引っかからないほうが嘘だよ、うん。でも今はとにかく私を信じて腕を磨くのよ。今日の失敗程度でへこたれちゃあダメだよ。勝利も敗北も、全ての経験を糧にもっと上を目指すの。そうすりゃ自然と道は開けるから」
確信に満ちた口振りで、エレナは言葉を紡いだ。神白は思いを巡らせる。
(正体はめちゃくちゃ気になるけど、俺を助けたいって気持ちは本物なんだろな、うん。誠意には誠意でもって応えなくちゃいけない)
結論づけた神白は、「ありがとう。そんじゃあこれからよろしく」と右手を差し出し握手を求めた。
「ちょっとちょっとちょおっとぉ。握手はいいけど聞き流さないでよ。まさかの二度目よ。『見目麗しい』とか『絶世の美人』とかはきっちり突っ込んでくれないと。私を自分大好きな痛い女にしないでよ」
慌てた様のエレナは早口で一人喚いた。
(んなむちゃくちゃな。怒りそうな気がしたからスルーしたんだっての。……良い人そうだけど、一癖も二癖もある感じだな)
神白は声には出さず、呆れるのだった。