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魔女は、血の匂いが嫌いだった。
それでも人は、血を流してから彼女のもとへ来る。
病、怪我、呪い。
命が欠けかけた者ほど、彼女を神と呼んだ。
白い外套の魔女は、祈りを受け取らない。
礼金も、感謝も、跪く膝もいらなかった。
ただ「生きたい」と言われたときだけ、手を伸ばした。
その日、城から使者が来た。
「王が、お会いになりたい」
使者の声は震えていた。
命令ではなく、懇願に近かった。
城は高く、冷たかった。
石の壁に刻まれた歴代の王の名が、魔女を見下ろしている。
謁見の間で、彼女は初めて王を見た。
若くはない。
だが、その瞳は、まだ折れていなかった。
「魔女よ」
王は、玉座から立ち上がらなかった。
「我が国の民を、幾度も救ってくれたと聞く」
「治しただけです」
「同じことだ」
短く笑い、王は続けた。
「……王妃が、死んだ」
その言葉に、魔女は何も言わなかった。
「寿命だと、医師は言う。呪いも、病もなかったと」
王の声は低かったが、揺れていた。
「それでも、私は納得できない」
魔女は静かに首を振った。
「人の寿命は、変えられません」
王は、その言葉を予想していたようだった。
「それでも、話を聞いてほしい」
それが、最初の夜だった。
王は、王妃の話をした。
笑い方、怒り方、眠る前に必ず本を読む癖。
魔女は、治療も、魔法も使わなかった。
ただ聞いた。
それが、二夜、三夜と続いた。
涙ながらに王は言う。
「君は、命を救う魔女だ」
「私は、死を拒む人しか助けません。言葉を発せなくなった骸を助けることはできないのです」
魔女は王の必死さに繰り返しの謝罪をする。
「なら……」
王は眉間に皺を寄せ、目を閉じた。短く、息を吐く音が聞こえる。
次の瞬間、彼は腰の剣に手をかけた。
鞘から抜かれた刃が、鈍く光る。
王は剣を返し、静かにその刃を自身の首へ預けた。
「私の命と引き換えならどうだ?」
剣が触れた首から血が垂れて、沈黙が落ちた。
◇◇◇◇
魔女は、その夜、手を洗い続けていた。
血はついていない。
それでも指先が、赤く見えた。
用意してもらった桶の中で揺れる自分の指を見つめながら、思い出すのは王の首元だった。
刃が触れ、皮膚が割れ、細い血の線が生まれた瞬間。
「私は血の匂いが嫌い」
それなのに、魔女はあの時、目を逸らせなかった。
魔女のした決断に、王は剣を納めた。
何も言わず、何も命じず、ただ立っていた。
その沈黙が、命令よりも重かったのを覚えている。
魔女は、自分が間違え始めていることを知っていた。
人の寿命は変えられない。
死は、戻らない。
それが、彼女が魔女である理由だった。
それでも……。
彼の声が、耳から離れない。
王妃の名を呼ぶ声。
誰にも聞かれぬよう、夜の奥で擦り切れた、弱い声。
魔女は清楚な白い外套を羽織り、部屋の奥へ進んだ。
そこには、机の上にリボン結びで封じられた羊皮紙、黒のインク、ペン。
「使わない」と決めてたものだけが、そこにあった。
魔女は、封を解き、一枚の羊皮紙を取り出す。
死者の名を書くためのもの。
指が震えた。
名前を書くことは、呼ぶことだ。
呼ぶことは、境界を叩くことに等しい。
境界の向こうには、決して優しいものだけがいるわけではない。
「……私は」
声に出すと、喉が締まった。
「私は、善意で生きてきた」
それは言い訳だった。
人を救ってきたこと。
祈りを拒んできたこと。
神にならぬよう、距離を保ってきたこと。
すべて、この瞬間のためではない。
魔女は、ペンを持つ。
王妃の名を、思い出そうとした。
だが肝心の名前が、思い出せない。
笑い方は知っている。
本を読む癖も知っている。
王が語る声で、何度も聞いたはずなのに。
名だけが、霧の向こうにある。
死者は、名を失う。
それを呼び戻すのが、禁忌の第一歩だった。
魔女は、目を閉じた。
善意で生きてきた人生が、
今、たった一人のために、裏返ろうとしている。
沈黙が、長く伸びる。
魔女は、羊皮紙を再び手に取った。
そして、震える指で、初めて死者の名を書く覚悟をする。
その瞬間、彼女はまだ知らない。
『アメリア』
この名が、
世界から彼女を切り離す事になる。