桃という名を持つことは、彼にとって呪いだった。
学校では、その柔らかく女の子のような名前を笑われた。
「桃って名前、マジでやばくね?」
「ピンク頭www」
靴箱には汚れたゴミ、机には「消えろ」「クズ」と彫られた文字。教師は見て見ぬふり。誰も助けてくれない。
だが、家はそれ以上に冷たかった。
親はいない。事故だった。いや、本当は桃が生まれたせいだと、長男の紫は言った。
「お前が泣きわめいてたせいで、母さん気が散って運転ミスったんだよ」
それが事実なのかどうか、桃にはもう分からなかった。ただ、否定する力もなく、頷くしかなかった。
次男の赤は口より先に手が出る。桃が何もしていなくても、うまくいかないことがあるたびに殴り飛ばされた。
「お前、ほんと邪魔。なんでまだ生きてんの?」
三男の青は、淡々としていた。表情はいつも冷たく、桃が倒れていても通り過ぎるだけ。
「情けは無意味」と言い切るその目は、まるで氷のようだった。
四男の橙は陽気にふるまいながら、誰よりも残酷だった。桃の苦しみを娯楽として消費した。
「なーなー、泣いてくれへん?泣いてる顔、ほんま笑えるから」
末っ子の黄。まだ幼いはずなのに、その目は兄たちと同じ色をしていた。
「ぼくね、さとにぃきらい。だってみんな、そう言ってるもん」
桃が唯一、心のどこかで信じたかった存在すら、自分を憎んでいた。
家の中に部屋は与えられず、物置の片隅が桃の居場所だった。腐った毛布と、破れたぬいぐるみ。餌のように投げられる夕食。感情はとうに摩耗し、毎日をただ「消えずにいる」だけだった。
夜、布団の中で桃はよく思った。
「明日、目を覚まさなければいいのに」
でも朝は、容赦なく訪れた。
ある日、学校の帰りに一匹の猫を見つけた。痩せ細った灰色の子猫。どこか自分に似ている気がして、桃はパンの端切れを差し出した。子猫はすぐに懐き、桃は物置の隅に隠れて餌を与えるようになった。
「お前は、俺のこと嫌いじゃないよね?」
それが唯一の救いだった。
けれど、幸せを桃が持つことは許されなかった。
ある夜、赤が猫の鳴き声を聞きつけ、物置をこじ開けた。
「は?何勝手に飼ってんだよ。きっしょ」
猫は震えていた。桃は必死で庇ったが、赤の蹴りは容赦なかった。
「い、やだ……やめて……!」
猫は、動かなくなった。
桃の腕の中で、まだ少し温かいその小さな命が、完全に冷えるまでの時間は、永遠のようで、あっけなかった。
それ以来、桃は声を発さなくなった。
笑わず、泣かず、怒らず。
学校でも、家でも、空気のように扱われた。いや、空気より邪魔だとさえ言われた。
そして冬の終わり。雪が溶け始め、春の気配が訪れたころ。
桃は、何も言わずに家を出た。誰にも気づかれず、気にも留められず。
向かったのは、学校の裏にある古い桜の木の下。まだ花は咲いていない。けれど、その枝は、桃色に染まる日を待っていた。
桃は、その木に縄をかけ、足元の土を見下ろした。
「俺がいなくても、誰も困らない。誰も泣かない。だったら……もう、いいよね」
最後の瞬間、頭に浮かんだのは、あの猫の澄んだ目だった。
誰にも愛されなかった。でも、あの子は、確かに震える手からパンを受け取ってくれた。
それだけで、救われた気がした。
桃は微かに笑った。
そして、静かに身を投げた。
数日後、桃の体は見つかった。けれど、誰も泣かなかった。
兄たちはそれぞれに、
「まあ、遅かったくらいだな」
「めんどくさい荷物が一つ減った」
と、吐き捨てるだけだった。
ただひとつ、変化があった。
その春、桜の木は、例年よりも濃い桃色の花を咲かせたという。
誰も気にしなかった。
でも、風に揺れる花びらの中に、小さな魂が、ふっと笑ったような気がした。
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