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結局、約三時間の間に、入ってきた人物が7人、出て行った人物が3人。
これらをプリントアウトしたものを丁寧にクリアファイルに入れて、小走りで鑑識課に向かった。
前を通ったことはあるが、ドアを開けるのは初めてだ。緊張しながらノックをし、ノブを回した。
「失礼します!」
視界に飛び込んできたのは、棘下筋の浮き上がった背中だった。思わず後ずさると、
「あれ?木下」
後ろから入ってこようとした須貝にぶつかる。
その声に、棘下筋の主が振り返る。
「琴子ちゃん!」上半身裸のまま、男が嬉しそうに手を握る。
「刑事になったんだってな、おめでとう」
「え、あ、ありがとうございます」
どこかで面識があっただろうか。
今度は大胸筋を近距離で見ながら琴子は目を向いた。
「セクハラはそれくらいにして服を着てやれ」
デスクの一つに突っ伏していた壱道が顔をあげる。
「ごめーん、朝イチで仕事で煤だらけになったもんだからさ」
言いながら男は黒いTシャツをきた。
青い鑑識のズボンとの組み合わせが、妙に男らしく似合っている。
「鑑識課の二階堂。よろしくね。いやー会えるなんて光栄だなあ」
「はいはい、二階堂さん、余計なこと言わないでください」
須貝が運んできたコーヒーを両手で受け取り、琴子と壱道に渡すと、
「俺たち、壱道、二階堂コンビ!よろしく」と肩を叩く。
「熱っ」その勢いでコーヒーが手にかかった壱道か睨む。
「そんな顔で見るなよお。俺、お前が入院したと聞いて、マジで心配したんだぞ~!」
「ほざけ。入院じゃなくて、病院に一泊しただけだ」
「壱道君、それを世間一般では入院と呼ぶんだよ」
永遠に続きそうなやり取りを、交互に見比べながら、
「お二人は仲が良いんですね。同期なんですか?」
二階堂が笑う。
「ちげーよ!!おい壱道!お前がタメ口だから勘違いされるだろ!俺、5個も先輩よ?こいつの指導係だったの」
確かにそんな態度ではない壱道を見ると、お礼も言わずに受け取ったコーヒーを口に運んでいる。
「それより琴子ちゃん!聞いたよ、須貝から。駅の交番勤務のとき、逃げようとした痴漢を投げ飛ばしたんだって?」
唐突に振られた自分への話題に思わずたじろぐ。
「パワー系だよね、見た目に寄らず。パトロール中に見かけた引ったくり犯も、グーパンでぶっ飛ばしたって聞いたけど」
言いながらどんどん近くに寄ってくる。
「噂に尾びれがついてます」
もう二人の間は1メートルもない。
「でもそんな功績のおかげで刑事課に配属になったんでしょ?すごいよー、若い女の子が・・・」
「いい加減にしろ」
壱道が後ろから先輩の首根っこを掴む。
「須貝、いままでの説明、こいつにも」
ため息交じりに言った。「わかりやすく」
半ば呆れながら見ていた須貝が前に進み出た。
「部屋からは、ガイ者以外の指紋、足跡は出ませんでした」
「エリカのカードからも?」
「紙の性質上、指紋データはとれなかったんだ」
その手から二階堂がカードをとって片目を細める。
「こういうザラザラで凹凸のある紙は指紋がとりにくいんだよな」
「二階堂さん、素手で触るな。須貝、それはいいから、報告を続けろ。音声の件だ」
姿勢を正した須貝が続ける。
「留守番電話が櫻井からの杉本鞠江に対する電話じゃない可能性についての見解です。
考えられるパターンは、
①櫻井ではなく別人の声である可能性
②櫻井本人の声だけど、以前に録音された音声、つまり事件とは関係のない時に、関係のない人への言葉を録音されていた可能性
③櫻井の声だけど、いろんなデータを編集してつなぎ合わせて作成された可能性。
大きく分けるとこの三つ。
これを検証してみました」
思考がついていかないのでただ頷くことしかできない。
「まず櫻井本人の声かどうかですけど、声のデータを咲楽のホームページに載っていたインタビュー映像から採って、声紋鑑定を行った結果、間違いなく同一人物の声と断定されました。
次に、事件とは関係ないときに録音された音声である可能性について。
音声には背景音、または環境音と呼ばれる、声以外の音も入っているんです。
たとえば電気系統の待機音だったり、外から入ってくる雑音だったりするんだけど、昨夜、成瀬さんが夜中に現場に戻って取ってきてくれた音声と、雑音の入りかたは多少違うものの、背景音の一部がほぼ一致しています」
言いながらパソコンをいじる。
壱道はあの後一人で現場に戻ったのか。
須貝に勧められるまま、椅子に座りながら、愛想のない先輩を少しだけ見直す。
何度も聞いた櫻井の声が聞こえてきた。
「ここから。よく聞いて」
ボリュームを上げると、櫻井の声の後ろで微かにキュイーンという電子音がする。
「聞こえた?この電子音。何の音でしたっけ」
「空気清浄機だろ」二階堂が口をはさむ。
「衣類乾燥機」無表情で壱道が訂正する。
「リビングの窓際にあったんだけど、木下は覚えてるかな。
その乾燥機の待機音。
つまり少なくても、あの音声は、あのリビングで録られたものだということがわかりました。最後に、音声データを編集している可能性については、背景音が連続していてつなぎ目がないため、否定される」
「つまり」壱道が付け足した。
「あの櫻井の電話は、あの部屋から、櫻井本人が、あの言葉のまま発した声だったということだ」
「鑑識の結果は以上です」
須貝の言葉に二階堂が立ち上がった。
「どれ、俺もボヤ現場から採取してきたやつの鑑識始めっかなー。おい、須貝。そっち終わったならちょっと手伝え」
引き連れ、奥に入っていく。
「壱道さん」
いつの間にか二階堂の呼び方が移ってしまったが、彼は異に返す様子もなく何かを考え込んでる。
「どうかしましたか?」
「……あ?なんだ」
「音声ですが、結局いじった形跡はないってことですよね」
「そうだ」
なんだ。琴子の感じた違和感は何のことはなかったのか。
「何をがっかりしている」
こちらの感情を読み取るように、壱道が口を開いた。
「今回、証明されたのは、あの音声は、櫻井の部屋で、櫻井本人が話したってことだけだ。つまり、お前が予想した“電話じゃないかもしれない”という可能性は、否定されなかったってことだ」
他にどんな可能性が残されているのだろうか。
「そういえば監視カメラのチェックはどうした」
慌ててプリントアウトした写真を見せる。
「これを管理人さんに見せればいいんですよね」
受け取り、一通り目を通した壱道が、壁の時計を見て、マスクが吹き飛ぶような盛大なため息をつく。
「まさかとは思うが。早回しで見たりしてないよな」
「早回しってなんですか?」
二階堂が奥から盛大に笑う。「時代だねえ。倍速って言わないとわかんないよ!平成生まれは」
「俺だって平成だ」壱道が呟く。「それでどうなんだ」
「え、あ、はい。3倍に・・・」
言うと同時にガシッと小さい手からは想像できないほど強い力で頭頂部を鷲掴みにされる。
「捜査の基本だから覚えておけ。交通課だろうが、生活安全課だろうが、警察に身を置く限り、監視カメラは倍速で見るな」
「は、はい。すみません!」
慌てて立ち上がり、逃げるように鑑識課を後にした。
そして現在に至る。
監視カメラの映像は7時40分。
櫻井が帰ってから約一時間半を経過していた。だんだん視界がぼやけてくる。ミルクをたっぷり入れたカフェオレを口に運びながら目を擦る。
ただただ画面を睨んでいると、だんだん映像に映る自動ドアの枠が、二重に見え、三重に見え、人もいないのに動いて。
「あれ?」 慌てて巻き戻す。
錯覚ではない。自動ドアが開く。閉じる。人はいない。
「何これ」背筋が寒くなる。
エレベーターの方に動きはない。
何度も何度も巻き戻す。
やはり人の影などは映っていないが自動ドアは開く。そしてまるで誰かが通ったのを確認したかのように閉まる。
火がついたように立ち上がったところで、壱道が入ってきた。
「壱道さん!あの、これ!」
あまりの興奮に口がパクパクしている琴子を見て察したのか、無言でパソコンの前に座る。琴子も見せた方が早いともう一度巻き戻す。
無人のエントランス。
開く自動ドア。
壱道は無表情のまま何度も繰り返し再生する。
映像を共有できたことで、冷静になってきた頭で考えるが、この自動ドアの開閉が何を示すのかわからない。
「幽霊でも入って来たんですかね」
とぼけた問いに壱道が振り返りながらマスクを顎にずらす。
「まあ、何かは入ってきただろうな」
鑑識課に行ってからの壱道の様子がおかしい。愛想が悪いのは昨日からだが、余計に何を考えているかわからなくなった。
「成瀬君!」
パソコンを手に駆け込んできたのは浅倉だった。
「ちょっと!聞いてほしいものがあるの。音が荒いんだけど」
言いながら音声ファイルの再生ボタンを押す。
ザザッざザザッ ズズ
衣擦れの音だろうか、雑音が暫く続いた後、リズムが一定になる。
ズズズッズズッ ズズズッズズ。
雑音に合わせて時折、靴底のキュキュッという摩擦音、ギギッという机がずれる低い音も聞こえる。
「……や……め」
小さく声が聞こえる。
「う……ぐ……ぐっ……も……や……」
掠れた小さい声。雑音がひどくよく聞こえないが男性だということはわかる。
小刻みな音は一定のリズムで鳴り続けている。
たまに低いもう一人、男性の声が混ざる。
「……なん……ど……れが……ん?……ゆう だ」
男は笑っている。
急にその声が近くなる。
「今日も中で出すからな」
鳥肌が立つ。隣の壱道も眉間にシワを寄せながら目を細める。
雑音と、机の擦れる音、苦しそうな息遣いが一層早くなり、そして急に音が止まった。
あとには激しい呼吸音のみ。
掠れた声が、懇願するように呟く。
「もういやだ。こんなことやめてください。先生」
ガンッという激しい音。
遅れて倒れる机の音、何を言っているのかわからない割れた怒号。
そこで音声は終わった。
「詳細は不明。でもネットからダウンロードしたものではなく、なんらかの方法で音源を他の録音機器でダビングしたファイルのようね。
ま、私なんかよりも科捜研に送った方がいいとは思うけど、たいぶ簡易的なファイルだから、これ以上の分析は難しいと思う」
「このデータは保存されていただけか」
「今のところ編集したあとは見つからない。メールやネットについては今から調べる」
無言で壱道がマウスを受け取り、もう一度再生する。
誰が言葉にしなくてもわかる。
これは男が、男にレイプされている音声だ。
問題はこの声と櫻井がどんな関係にあるのか。
このどちらかが櫻井である可能性もある。
いつの間に唇を噛んでいた。
血の味がして琴子は我に返った。
「まずは」
壱道が立ち上がった。
「櫻井を“先生”と呼ぶやつらに話を聞く」
「じゃあ私は念の為データを科捜研に送って、パソコンの分析を進めるわね」
「特にそのデータを何に使っていたのかが知りたい。他にそういう類いのファイルがないかも、奥の奥まで探してくれ」
見つめ合いながら去っていく二人を見送りながら、空気と化した琴子はまた同じパイプ椅子に腰をおろした。
と閉まったはずのドアが、わずかに開き、住所が書かれたメモが投げ込まれた。