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ガラスプロムナードは今からちょうど三年前にオープンした、ガラスアーティスト咲楽がオーナーを務める、ガラスアート美術館兼ガラス工芸教室だ。
市街の城跡に近い県立公園に隣接したそこは、自然に囲まれ、切妻の屋根に白塗りの外壁で北欧風の建物は、敷地内に端正に配置された花壇が、公園の噴水と一体なり、まるで絵本の一頁のようだ。
2階の窓には色鮮やかなステンドグラスが輝き、入口両脇の大きな窓には、咲楽の作品だろうか、花瓶やガラスの花など、煌めくガラス作品がプリントされたフィルムが一面に貼られている。
その美しい造形にしばし見とれた琴子は、はっと我に返ると正面の入口から中に入った。
正面に咲楽の写真が飾られていた。その前にクロスが敷かれた大きなテーブルが置かれ、無数の花が備えられていた。
「おはようございます。女刑事さん」
Private onlyと書かれたドアから、アトリエ職員の永井が出てきた。
嬉しそうに琴子を上から下まで眺めて、もう一度噛み締めるように言った。
「女刑事さん」
永井は笑いながら続けた。
「女刑事さんという存在が好きなのです。
あなたは若いから知らないでしょうけど、私たちの年代なら“あぶない刑事”シリーズの浅野温子扮する真山薫を知らないものはいない。
自由奔放で周りを振り回して、それでいてチャーミングで色っぽくて、私たちはとりこになったもんです」
「はあ」
恥ずかしくなったのか永井は一つ咳払いをして、
「あ、こんな私めの戯れ言はどうでもいいのでした。奥で成瀬巡査長様がお待ちです」
事務所に入ると、ソファに身体を沈め、膝に肘をついた壱道が何かの資料を見ていた。
「お疲れ様です」一礼して前に立ち、メモを取り出して読み上げる。
「残りのカメラのチェックが終わり、さきほどマンションの管理人さんにご確認いただいてきました。まず一人目ですが、605号室の住人で名前はーーー」
「おい」遮って壱道が睨む。
「一から十まで報告する気か」
「え、っと」
「自動ドアの他におかしいところはあったのか」
「ないです」
「では報告は以上でいい」
言いながらメモを取り上げ丸めてゴミ箱に投げる。唖然とする琴子の手にファイルが押し付けられる。
「ガラス教室の生徒名簿だ」
いきなり本題に入る。
「永井に頼んで、今日の3時から、教室で使っていたガラスの手本やら道具やらを形見分けするという名目で、生徒を集めてもらっている。
生徒の大半が、四、五十代の主婦層。あとは五十代の男性が二人、大学生の女子が一人、高校生の女子が二人、母親と一緒に来ている高校生の男子が一人。それと」
言いながらパンフレットを手渡す。
ガラス教室の広告のようだ。A4サイズのチラシの上に、ガラスの花瓶を持った櫻井の写真が印刷されており、下側の左右に二人の青年の写真が載っている。
「左下が青山純。大学生で、生徒の一人でありながら櫻井の助手のようなこともしているらしい。不定期に依頼のある、小学生や観光客を対象にしたガラス教室なんかは、櫻井の代役もするそうだ」
印刷されている写真を見る。
笑顔が眩しい、こんがりと小麦色に日焼けした、爽やかな青年だ。
「右下のが滝沢隼斗。同じく大学生で、美術大学のガラス工芸科在籍。賞も受賞していて、所謂、咲楽の一番弟子」
言われるままに、視線を右に移すと、左の青年とは対照的に、色白で細い、顔にそばかすのたくさんある男の子が、不器用そうに笑顔を作っていた。
「こいつらをまずは聴取する」
話は以上、というようにファイルを取り上げながら腕時計を見て、ソファの背もたれに体を預け、名簿で顔を覆うと、壱道はそのまま動かなくなってしまった。
「昨夜、寝てないそうですよ」
永井が耳打ちしてきた。
そうか。
壱道は琴子が帰宅した後にマンションに戻り、背景音のデータ集めをし、管理人から監視カメラの映像を借りたりと、もろもろ動いていたのだった。
ネクタイもワイシャツも変えていないというより、家に帰っていないのか。
琴子は朝礼に遅れた壱道を呆れた自分が少し恥ずかしくなった。
「女刑事さん」永井が優しく声をかけた。
「3時までまだ時間があります。もしよければ、咲楽先生のガラスを見てみませんか。
奥が展示室になっておりますので」
日本どころか世界でも名前の挙がる咲楽の作品。見てみたい。だが、壱道には遊びじゃないと怒られるだろうか。
「拝見したいのは山々ですが、勤務中ですので」
「うだうだ言ってないで見てこい。ウロウロされても迷惑だ」
名簿の下からくぐもった声が聞こえた。
「俺はもう拝観した」
昨日よりは幾分マシになったガラガラ声が、五秒も立たないうちに規則正しい寝息に変わる。
ね、と永井がウインクする。琴子は素直に従った。
ホールを抜け、アイアンワークの美しい両開きのドアを開けると、あまりの眩しさに目が眩んだ。
「大丈夫ですか?」
目を覆った琴子を心配そうに覗き込む。
「いや、鳥目なもんで」笑いながら、
あれ、私、確か昨日もーー。
「見事でしょう」
記憶に引っ掛かったものは、涙ぐんだ声に掻き消された。
確かに、見事の一言だった。体育館ほどの大きさのホールに、無数のガラス作品が展示されている。
ちょっと洒落たカフェにありそうなグラスから、本格的な花瓶まで、色とりどりに展示されている。
奥のケースには、ガラスの工芸品が置かれトンボ玉やガラス細工がところ畝ましと並んでいる。
「観ていただきたいのは向こうなんです」
涙を吹きながら、永井が少しだけ得意そうに奥を指差す。導かれるまま歩を進めると、一際ライトアップされた空間があり、その真ん中に作品が並んでいた。
「これはまだ彼が大学生の時に、国際ベネチアコンクールのガラス部門で、審査員特別賞を受賞した作品です」
一番手前の作品を指して永井が説明する。
題材は“コスモ”。球体の中に無数の星がはいっていて、まるで宇宙を小さくして閉じ込めたかのようだ。
「ガラスアーティスト、咲楽の誕生ですね。のちに彼の代表作となるオーブシリーズに繋がるものがあります」
そこで永井が一枚の写真を取りだした。
目にはいった瞬間、琴子は思わず「えっ!」と呟いた。
「これ、ガラスなんですか??」
永井はその反応に満足そうに大きく頷いた。
「さあどうぞ、特等席で、御覧ください」
振り向くと、その作品を愛でるためにあるような、真っ赤な座り心地の良さそうな二人がけのソファが置いてある。琴子はそれに腰を下ろすと、改めて写真をみつめた。
「これ、どうやって作るんですか」
「実は私たちにもわからないんです。お弟子さん達でも知らないんじゃないかな。
バーナーワークという、ガラスの管をガスバーナーの炎で熱してとかし、巻きつけたり芯を作って伸ばして切ったり拡げたり、そういう方法で作っているのはわかるんですけど、詳しいことは何も。
咲楽先生は生徒さんやお弟子さんは取るけど、自分の作品は手伝わせなかったもので。
先生が亡くなってしまった今となっては、結果的にオーブシリーズの技術も永遠の謎となってしまいましたよね」
言いながらため息をつく。
「咲楽先生が世に発表したオーブシリーズは季節ごとに、春のナデシコ、夏のラベンダー、秋のグラジオラス、冬のスズランエリカの4つです。ただ行方がわかっているのは、この写真に写っているナデシコただ一つ。
これは咲楽先生がデビュー直前、ガラスを学ぶために留学していた、ウイーンにある国立大学に寄贈され、展示されています。
他の作品は、咲楽先生が個人的にあげてしまったりして、もうどこにあるのかわからないものもありまして」
「あげるって・・・高価なものなのでしょう」
「ええ。もし市場に出回れば、数百万にはなるでしょうね」
言葉を失う。
「でも彼はオーブに限らず、作品をお金で人に譲り渡すようなことはしていませんでしたし、完成した作品にはそこまで思い入れもないらしく、ここに飾るための最小限の作品を除いては、早々に手放してしまっていましたからね」
「でも咲楽先生のご自宅には、結構作品ありましたよね」
「作品?ああ、ステンドグラスのランプのことですか?あれは作品というより、照明ですよね。
咲楽先生は確かに教室ではステンドグラスも教えておられましたけど、専門はバーナーワークなので、そっちはアマチュアレベルの技術しか持っていません」
マンションの部屋にあった数々のステンドグラスを思い出す。
「以前、先生に聞いたことがあります。
素の自分とガラスアーティストの咲楽とは区別をしたいから、部屋には作品は置かないのだと」
再度、咲楽の作品を見回す。
自ら首に縄をかけ、一歩を踏み出した彼は、咲楽と櫻井、どちらだったのだろう。
「咲楽さんは永井さんから見て、どんな人物でしたか」
「そうですね・・・」
言いながら両手を組み、少し体をのけぞらせて話し出した。
「つかみどころのない、自由で、適当で、薄情者で、結構、振り回されました。自分勝手で傍若無人で。でもどこか憎めなくて、彼が笑うと、こちらが怒っていたことなんて、なんてつまらないことなんだろうと思える。いろんな意味で常識の通じない人でしたね」
「所謂、天才肌な感じですか?」
「うーん。でもその才能に奢ることはないんですよね、不思議と。自分のこだわりが強いくせに、若い才能や感性については素直で貪欲で。
お弟子さんやガラス教室の生徒たち、講師として派遣されていく小学校の子どもたちでさえ、彼の前では新しい感性についての師であり、刺激であり、何よりの楽しみでした。
彼は作品の創造よりも、教室をメインで考えていたように思いますね」
「親しくしていた人や、交際相手なんかは知りませんか」
「あまり人と深く付き合うタイプではありませんでしたからね。
携帯電話は持っていましたけど、それでプライベートの電話をかけているのは一度も見たことありません。
知人が訪ねてくることもありませんでしたし、手紙やハガキなどが来たこともただの一度も」
これはここだけの話にしてほしいのですが、と永井は笑いながら続けた。
「実は恥ずかしながら、咲楽先生の本名さえ、昨日初めて知った次第でして。教室のみんなも、きっとお弟子さんでさえ、知らなかったんじゃないでしょうかね」
琴子はもう一度、写真の中の“ナデシコ”を見た。
ガラスについて貪欲に素直に純粋に追い求めたガラスアーティスト咲楽と、自分が死んだときのことまで具体的に指示しながら自殺の準備を進めていた櫻井秀人。
そこには、それこそガラスのように透明でありながら、けして相容れない壁があるように感じた。