相当慣れているんだと思っていましたが、俺のアパートに着いてきた彼女は終始不安そうでした。
それは熱い風呂に入っても、軽食を食べワインを開けても、変わりませんでした。
ベッドに入ると、彼女はおそるおそる俺を見つめ、
「ねえ。横山君の目ってそんなに鋭かった?なんかあたし、怖いよ」
と唇を震わせました。
自分の中で何かが崩れ落ちていくのを感じました。
今までの人生で何も求めたことはありませんでした。
容姿もクラスで五番目くらい、
背も高い方から五番目くらい、
何も不自由もなければ人に羨まれることもない生活。
その中で、唯一、心の底からほしいと思いました。
この愚かでかわいい女が。
一度関係を持っても、汐梨さんの態度が目に見えて変わることはありませんでした。
ですが、他の男性客に対する過剰なスキンシップは心なしが少なくなったように感じました。
また夫婦で何か言い合いになり、江崎さんが出ていく夜には決まって、俺のアパートで体を重ねるようになりました。
何となくですがこのまま行けば、この夫婦は勝手に壊れるんじゃないかという予感がありましたし、汐梨さんも案外簡単に絆されてくれそうだと期待していました。
自分は盗られる側じゃなく盗る側なのだから、何も焦ることはない。
ゆっくりじっくり手に入れればいいのだと、構えていました。
「本当に来てくれたんですね」
今まで聞いたことないような江崎さんの声に、俺達は揃って入り口に現れた男を見ました。
そこには、東北の小さなバーにはそぐわない、モデルのような男が立っていました。
「近くを通ったもので寄ってみました。なるほど、いいお店ですね」
どこか都会の香りを感じさせる物腰と話し方、そして低く落ち着いた声が、とにかく目を引きました。
高いカウンターチェアにも余裕のある足の長さで座ると、彼は江崎さんと楽しそうに話し始めた。
他の客もいるときに、特定の相手と長時間話すのは異例でした。
「特別なお客様なんですね」
並んでカウンターから見ていた汐梨さんに話しかけると、
「ガラスアーティストなんですって。知ってる?咲楽っていうの。店に飾るオブジェを依頼しているみたい」
芸術には微塵も興味がわきませんでしたが、江崎さんのこの異様な反応には、いささか気になるものがありました。
しかしこの男に興味をもったのは、俺だけではなかったのです。
「私も咲楽先生ってお呼びしてもいいですか?」
カウンターに身を乗り出すようにして、汐梨さんが小首を傾げていました。
そうか、余裕ぶって、その可能性を考えていませんでした。
江崎さん以外にライバルが現れる、という可能性を。
不安な月日は流れ、何度目に来たときか忘れましたが、彼は両手に収まるくらいの袋を持って店に現れました。
「なんですか、これは」
江崎さんが期待のこもった目でそれを見ると、咲楽さんはその眼差しに満足するように包みを開けました。
「信じられないほどキレイ」
思わず汐莉さんも呟きました。
そこには、丸い空間に、花が、時間が、閉じ込められていました。
「フラワーオーブ!」
江崎さんが飛び上がらんばかりに喜びました。
「やはり素晴らしいです。この花は?」
「グラジオラスです」
江崎さんは両手でオーブを包むと、まるでわが子のように抱きしめました。
「ずっと眺めていたくなりますね」
「そうしていただいて構いませんよ。僕からのささやかなプレゼントです。この店に似合うかなと思って」
そう言われた江崎さんは信じられないことに、その目に涙まで浮かべていました。
二人はカウンターにそれを置き、文字通り、オーブを肴に酒を呑み始めました。
「オーブの中にはどれも昆虫が一匹入っていますよね」
他の客のことも忘れてうっとりとガラス球を見つめた江崎さんが言いました。
「これが何ともかわいらしい」
「女性ファンの間ではリアルすぎて気持ち悪いと悪評ですよ」
「そんなことはない。だけど、花と言えば蝶を連想しますが、蝶は入れないんですね」
「よくぞ気がついてくれました」
咲楽さんは満足そうに笑います。
「蝶は盗蜜をしますからね」
「とうみつ?」
スコッチをロックで飲んでいる咲楽さんが、グラスを傾けながら話始めました。
「被子植物は昆虫に花粉を運んでもらいうために花弁をつけている。つまり花の目的は受粉であり、結実であり、その先にある種子散布、発芽であるはずです。
そのためにポリネーター、いわゆる受粉者たちの力を借りる。
蜜蜂が最たる例で、蜜をあげる代わりに、足に花粉をつけて運んでもらう。
彼らは公正なギブアンドテイクの関係にあるんです」
「そうですね」
「ただし、蝶は、花の形状や大きさにより、花粉に触れずに口吻が蜜に届き得る。
つまり花にとって何もメリットがない盗蜜者になる可能性がある。
甘いところはいただくのに、花の幸せもその後の人生も責任を取らないずるい存在だ。だから僕は、蝶は嫌いなんです」
「なるほど。盗む蜜と書いて盗蜜、ですね」
「だからオーブにはちゃんとそれぞれの花のポリネーターを入れてあげてる。受粉できるように」
「お優しいんですね」
「優しい?まさか。残虐なんですよ」
クククと咲楽さんが面白くてしょうがないというように笑います。
「オーブはね。願いが叶うの直前で、その期待ごとガラスの中に閉じ込めてしまってるんです。
その蜜香に引き寄せられた昆虫が、今にも留まらんばかりのところで、その欲望を永遠にお預けにしているんだ。
こんなに酷なことはないでしょう」
少し興奮したように付け加えます。
「オーブシリーズはね、マゾヒズムの象徴なんですよ」
江崎さんは持っていたグラスを置き、カウンターに両手をつきました。
「そうでしょうか。私は逆だと思いますね。精一杯咲き誇った花は、やっと思いを寄せた昆虫に振り向いてもらえた。こちらにやってくる。
今までの努力も、強い思いもやっと結ばれる。
オーブはそんな幸せの絶頂を閉じ込めた作品なんですよ」
グラスを見つめていた咲楽さんが顔をあげました。
「そうでしょう。だってその先に何がありますか?黒く朽ち果て、種子を落としたら、もう養分も残っていない。水を吸い上げる力もない。枯れて微生物に食べられて土に還るだけ。きっとその生命が失われるとき、夢に見るのは、昆虫が留まろうとしたこの幸せの瞬間ですよ」
「なるほど。そういう解釈も素敵だね」
咲楽先生が頷くと、江崎さんが勝ち誇ったように微笑みました。
「人間だって同じです。セックスする前の駆け引きが一番興奮する」
俺は洗っていたショットグラスを危うく落としそうになりました。
江崎さんの隣でいろんな客との会話を聞いてきましたが、彼が性的なことを言うのは、これが初めてでした。
咲楽さんも少し驚いた様子で見上げていました。
「ーーーまあ、そうかもしれないな」
言ってから何かを少し考えるように首をかしげ、一呼吸置いてから、咲楽さんが席を立ちました。
「だけど僕は、自ら盗蜜者になるつもりはないけどね」
ふっと息を吐き小さく頷いた江崎さんを、振り返らずに咲楽さんはブーケを後にしました。
このときは江崎さん発した言葉の真意を、俺は履き違えていました。
自分の妻に手を出そうとしている男に牽制の意味を込めて話したのかと思いました。
「間違いが起こる前に手を引けよ」と。
それに対し間男が、
「人のものには手を出しませんからご安心を」、そういう意味の会話かと思っていました。
それがとんだ勘違いだったと知るのは大分あとです。
とにもかくにもオーブは、数々の花のオブジェの主役となるべく、ガラスケースの中に並んだのでした。