咲楽さんがブーケに来るのは、決まって平日の夜でした。
聞くところによると、週末は展示会などで県外に外出する機会も多く、アルコールを入れたくないとのことでした。
あれは何曜日のことだったでしょうか。汐梨さんが、咲楽さんの前に立ち、話しかけました。
「水曜日は、彼女さんとデートなんですか?」
咲楽先生はグラスを傾けていた手を止め、不思議そうな顔をしました。
「どうしてそう思うんですか」
汐梨さんが得意の上目遣いで、見つめて言います。「だって、咲楽先生、決まって水曜日は来てくれないんですもの」
「ああ」と短く言って、彼は静かに微笑みました。
「実は僕のアトリエで、ガラス教室を開いているんですよ。それが水曜日なんです」
「あ、だから先生なんだ!」
愚かな解釈をして大げさに微笑みます。彼女の小芝居を見るのは久しぶりでしたので、いささか気分が悪くなりました。
「じゃあ彼女さんとのデートはいつしているんですか?」
「こら、汐梨」
普段、客との会話にめったに干渉しない江崎さんが、険しい顔で汐莉さんを牽制しました。
「プライベートを聞くなんて失礼だろ」
「構いませんよ」
咲楽さんは、二人を見比べてで口許に笑みを浮かべながら答えました。
「僕に恋人はいません」
「え!」汐莉がしなを作る。
「勿体ない!こんなに素敵なのにー」
江崎が苦笑する。
「すみませんね、不躾な妻で」
「いえいえ」
江崎さんが他の客に呼ばれて行っても、汐莉さんは咲楽さんの前を離れませんでした。
「咲楽さんっておいくつ?」
「もうすぐ29になります」
「ご出身は?東北じゃないでしょう?言葉がキレイだもん」
「いいえ、生まれは宝畠町です。小学校までそこにいました。ここよりもっと田舎です」
「嘘でしょ!?」
両手を口に当てる。
「父方の実家も宝畠町なの」
そんなに驚くことか?俺は多少イラつきながら、他の客のビールを注いでいました。
「だからかな。他人の気がしないの」
思わず視線を投げると、咲楽さんのグラスで見えないように隠しながら、手を握っていました。
「もっと先生のこと、知りたいな」
血の気が引きました。
咲楽さんに惚れたのか、それとも明らかに他とは態度をかえている江崎さんに嫉妬したのか、どちらにしても汐莉さんの本気を感じました。
そのままどれくらい二人が無言で見つめ合っていたかわかりませんが、俺にとっては拷問のような時間でした。
「それは、そういう意味にとっていいんですか」
沈黙を破ったのは、咲楽さんでした。
「構わないけど?」
はにかみ、少しだけ前屈みになりました。
正面に座る人間だけが、彼女の妖艶な胸元が見えるように。
「汐梨さんてそういう人なんだ。意外だな」
「やだ。誰にでもってわけじゃないのよ?」
咲楽さんが微笑みました。
突然、見つめ合っていたはずのその目が、瞬きや少しの躊躇もなく、瞳だけこちらを向きました。
俺は取り繕う暇もなく、殺意丸出しの顔をそのまま硬直させていたと思います。
やがて汐莉さんが違和感に気づき、こちらを振り向こうとするのを、彼は優しく手で顔を包み、自分の方を向かせました。
「あなたは蝶のような人だ」
汐莉さんが嬉しそうに微笑みました。
「わかりました。今後は遠慮なくいかせてもらいますね」
「わ、咲楽先生、こわーい」
汐梨さんはおどけて見せましたが、横で盗み見ていた俺は別の意味で、背筋を冷たいものが通るような感覚がしました。
「江崎さん、今日は帰りますね」
ビールを半分以上グラスに残したまま、少し離れたテーブル席に
ついていた江崎に手を上げると、咲楽さんは去っていきました。
残された汐莉さんは、彼が出ていったドアをしばらく見つめていました。
「ねえ、私ってそんなに魅力ない?」
俺の下で股を開きながら、彼女は悪びれた素振りも見せずに言いました。
「咲楽先生、全然誘ってこないんだけど」
「俺に聞かれてもわかりませんよ」
心底呆れながら腰を振るのを止めると、
「やめないで!」と足を絡みつけて来ました。
「ねえねえ、私相手じゃ勃たない?」
「勃ってなかったら、突っ込めてないですよ。もう今にも萎えそうですけどね」
「だってさあ、あのときの会話って、そういう意味じゃないの?」
「あのときって?」
「惚けないで。聞いてたでしょ。この間の私達の会話!」
「さあ、俺にはわかりません」
「焦らしプレイかな」
「知らないって」
だんだん腹が立ってきて、腰の動きを激しくすると、彼女は苦痛だが快感だかに顔を歪ませました。
「汐梨さんにとって、俺は本当に留まり木以外の何でもないんすね」
言うと、汐梨さんはギュッと抱きついて言いました。
「どういう意味?」
「今度は咲楽さんに飛び立っていくんですか」
動きを止めて汐梨さんを見ました。
大きい両の目が、2つとも俺を通り過ぎて天井を見ていました。
「だって、マー君が惚れた相手だもん」
その発言が、同性愛的なものを示すのか、憧れや尊敬を示すのかはわかりませんでした。
もしかしたら彼女自身、その時点ではどちらだったのかわからなかったかもしれません。
でもはっきりしたのは、彼女は咲楽さんに惚れていたわけではなく、江崎さんにとって間違いなく特別な存在である咲楽さんに嫉妬しているということでした。
それからも咲楽さんは、水曜以外の平日に、多いときは週に2回現れました。
でも汐梨さんと話をすることなく、静かに酒を飲み、気まぐれに他の客と冗談を言い合い、江崎さんと何やら深い話をして、二時間ほどで帰っていくのが通例となっていました。
変化のない二人の関係とは反比例して、汐梨さんが俺のアパートに来る頻度は日に日に上がっていきました。
江崎さんの親の具合がいよいよ良くないらしくて、実家に泊まる日が増えてきたのです。
彼女は俺に抱きつき、唇と体を重ねながら、江崎さんや咲楽さんの話をしては、ぶーたれていました。
確かに面白くはありませんでしたが、俺は傍観者に徹すると心に決めていました。
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「ところで刑事さん、どうしました?体調でも悪いんですか」
見ると、隣で壱道が額を抑えながら俯いている。
「いや、寝不足が続いているだけだ」
カップに残ったコーヒーを飲み干すと、
「悪いがもう一杯ブラックを頼む」と言った。
「刑事も大変なんですね」
横山が笑いながらコーヒーメーカーに近づいていった。と彼が後ろを向いた瞬間、琴子のカップを引き寄せ、一気に飲むと、琴子の前に戻した。
そんなに眠いのか。
新しいコーヒーを持って横山が戻ってきた。
「話を続けますよ。大丈夫ですか?」
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事件が起きたのは、それからしばらくしてからです。
江崎さんが実家に帰る日、いつものように汐梨さんは俺のアパートに現れました。
その日はひどく酔っ払っていて、足元もおぼつかない感じでした。靴を脱いでバッグを置いたところで、彼女はアッと悲鳴に近い声を出しました。
「忘れた!化粧ポーチ」
「一日くらいいいでしょう」
「だめに決まってるでしょ!クレンジングから乳液から美容クリームから、全部入ってるのよ!」
たちの悪い酔い方をした女には逆らわないほうが得策だと判断し、フラフラしている汐梨さんを引っ張り、一度店に戻ることにしました。
とっくに閉店していますし、江崎さんは実家に泊まってるし、誰もいないはずでした。
店の入口に着くと、携帯電話で明かりを取り、鍵を開けました。
「ポーチはどこですか」誰もいないとわかってはいても、暗い部屋に入るときは声を潜めてしまうものです。
「カウンターか、事務所かな」
いつも何気ない顔で仕事をしている場所が、他に誰もいなくて真っ暗だと、なんだかいけない気分になりました。
「ここで、する?」
「バカなこと言わないで。ここはマー君との大事な場所なんだから」
この人は・・・。浮気相手の前で堂々と惚気る彼女に流石に腹が立ち、いたずらしてやろうかと構えた瞬間、
「あっ」
明らかにおかしい声が聞こえたました。
「だからふざけないでって」
振り向いた汐梨さんの口を覆いました。
「んん」
確かに聞こえてきました。男のうめき声、というよりあれは。
青ざめて動けなくなった汐梨さんを優しくカウンター席に座らせ、俺は事務所に足を進めました。
一歩一歩近づくごとに大きくなる声、一定のリズムで聞こえている音。
扉がほんの少し開いていました。
覗くまでもありませんでしたが、一応確認の意味を込めて見てみました。
刑事さんは、男と男の交わりというものを見たことがありますか?
俺は初めて見ました。
二人がソファの上で、後背位で繋がっていました。
裸ではなくむしろ必要最低限の服の乱れしかなく、それが逆に二人の気持ちの強さを物語っていました。
男女のそれとは違い、殆ど骨と骨のぶつかり合う音は、激しく、動物的で、少し恐ろしく感じました。
強く腰を打ち付けられて、頭を左右に振り乱しながら快感に耐えている様子の咲楽さんを見て、ああ、そうかと思いました。
いいんですね?遠慮しませんよ。
あの言葉は、誘惑じゃない。
宣戦布告だったのか。
不思議と違和感や嫌悪感はありませんでした。
なんででしょうね。
咲楽さんがどこか中性的な印象があったからかもしれません。
妙に納得して、二人の情事を見ていました。
咲楽さんの細く白い体を包み込む逞しい腕、激しくスタミナの切れない腰使い。情熱的に這う唇。
そうか。ああいう風に愛すると、女はメロメロになるのか。いくら抱いても汐莉さんが振り向いてくれないはずだ。
そう思ったら笑いが込み上げてきました。
いつの間にかカウンター席に座らせたはずの汐莉さんが、俺のすぐ後ろから二人を見つめていました。
泣くわけでもなく、取り乱す訳でもなく、ただただ間抜けに口を開けて見つめている彼女を見て、俺はいよいよ吹き出しそうになり、乱れに乱れる二人に視線を戻しました。
呆然としている女と、薄ら笑いを浮かべている男。
俺たちは二人揃って敗北者の顔をしていたと思います。
彼女は咲楽さんに、俺は江崎さんに、滑稽にも惨敗したのです。
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