三月―――いろいろあったけど、私は大学を無事卒業した。
お祖父さんの墓前で報告を済ませたその日、壱都さんも卒業のお祝いをしよう言ってくれた。
私の卒業のお祝いをしてくれる人がいるというだけで嬉しい。
壱都さんは忙しいはずなのに今日のためにプレゼントまで用意してあった。
ラベンダー色のイブニングドレスとパールが付いた銀の髪飾り。
それを着てホテルディナーにおいでと言うのだ。
そのフォーマルな服装にレストランが今までより、もっとかしこまった場所だということがわかった。
壱都さんは私にただ贅沢させているわけではない。
春から、私は井垣グループの秘書室で勤務し、会社のパーティーや仕事関係の奥様達とも付き合っていくことになる。
その時、挨拶すらできずにいるわけにはいけないのだ。
―――私は壱都さんと結婚するのだから。
「よく似合ってるね」
壱都さんがホテルのロビーで待っていた。
仕事が忙しいとはいえ、壱都さんは私のことをちゃんとみていてくれる。
「そう……?」
「なに?気に入らなかった?」
「大人っぽくて似合っているかどうか、不安だったの」
イブニングドレスを初めて着た私はドレスに着られてないか心配だった。
「綺麗だよ」
その一言で不安が消え、壱都さんが差し出してくれた手に自分の手を重ねた。
エスコートされるのも初めてだったけど、壱都さんはなれた様子で自分の腕に絡ませると、エレベーターに乗った。
ホテルのフレンチレストランはエレベーターを降りたすぐ先にあった。
紺に金の刺繍が入った絨毯が敷かれ、両側に絵画が並び、店内のフロアには大きなシャンデリアが吊るされている。
シャンデリアの灯りが白のカーテンとテーブルクロスをオレンジ色に染めて、店内がより一層ゴージャスに見えた。
まるで、フランスの王侯貴族のような内装。
店内で食事を楽しんでいる人達は全員がフォーマルな服装をしていた。
「いらっしゃいませ。白河様。井垣のお嬢様とご婚約されたそうで、誠におめでとうございます」
「ありがとう」
壱都さんはなれているのか、さらりとお礼を返す。
私は戸惑いつつ、ぺこりと会釈をした。
席に案内されると、食前酒が運ばれ、グラスにシャンパンが注がれた。
「壱都さん、ここのレストランによく来るんですか?」
「ここは白河家がよく利用するレストランなんだ。祖父が洋食派っていうのもあるけど、昔からの知り合いが多い」
「そうですか」
「なに?|気後《きおく》れした?」
「ええ……」
「そうだろうと思ったけど、あえて連れてきたんだ。この先、白河家の集まりで何度も来ることになるだろうから」
それは私が壱都さんと結婚した時、ここにきても怖気づかないようにするため。
「今日は食事を楽しめばいいよ」
食事なら大丈夫と、私は言いかけて気づいた。
お祖父さんが生きていた頃、私は作法の先生に誘われてレストランに何度か食事に行った。
その時、マナーを教えてもらったのはもしかして―――そのことに気付き、ワインを飲む手を止めた。
もしかして、お祖父さんはこうなることをわかっていたのだろうか。
私がこうして壱都さんと食事をすることも、好きになることも、全部。
「なにか考え事?」
「お祖父さんは私のこと考えてくれていたんだなって思ったんです。私が困らないようにずっと助けてくれていたんだって」
一人残される私のためにお祖父さんはたくさんのものを遺してくれたのだ―――形の見えないものまで。
涙がこぼれて、私の手に落ちた。
最近では水仕事をしなくなったせいか、手荒れもなくなった。
そのことに気づき、また涙があふれてきた。
ハンカチを差し出し、壱都さんは笑う。
「井垣会長が一番のライバルかもしれないな。でも、そろそろ泣き止んでもらわないとね」
珍しく壱都さんは憂鬱そうに溜息をついて、テーブルに小さな箱を置いた。
「これは?」
涙をハンカチでぬぐって箱を見た。
「開けてみて」
箱を開けると、中からリボンの形をしたデザインの真ん中にハート型の大きなダイヤモンドがキラキラと輝いているプラチナリングが現れた。
「どうせ泣くなら、指輪をつけた後にして欲しかったな」
少し拗ねたように言いながら、壱都さんは指につけてくれた。
「ありがとうございます。すごく……」
すごく高そうですね、と言いかけて言葉を呑み込んだ。
こんな時に言うセリフじゃないと思い直した。
「すごく気に入りました」
そう言うと、壱都さんは嬉しそうに微笑んだ。
嬉しそうなのはいいけれど、この指輪、とてつもなく高いのでは?
思わず、涙もひっこんでしまった。
驚きすぎて。
指輪をじっと見ていると他のテーブルで食事をしていた女性がこちらを見ていることに気づいた。
もしかして、知り合いなのかなと思って会釈すると、その女性は立ち上がり、こちらにやってきた。
「白河の壱都さんじゃなくて?」
黒のロングドレスを着たマダムだった。
美人で目元に泣きぼくろがある色っぽい女性。
「お久しぶりです」
「白河会長はお元気なのかしら?」
「もちろんです。分厚いステーキを口にするくらいに」
「まあ!それはよろしいこと。壱都さん、この方はもしかして、井垣のお嬢様かしら?」
「ご存知でしたか」
「ええ。壱都さんがご結婚されると聞いて、噂になっていましたのよ。朱加里さんでしたわね」
「はい」
「どうぞよろしくね」
「こ……こちらこそ……よろしくお願いいたします」
「今度、私の家のサロンに来てくださる?仲のいい奥様達とお茶会を開いていますの」
サロン?お茶会?
ポカンと口を開けた私に壱都さんが代わりに答えてくれた。
「機会がありましたら、ぜひ」
「楽しみにしていますわね」
すっと手を差し出されて、緊張気味に握手した。
まるで、外国のようだった。
「それではね」
上品なマダムは微笑むと去っていった。
なんて優雅な身のこなしだろうか。
すべてが自然だった。
「これから、こういうことは何度でもあると思うよ」
「……わかってます」
慣れないといけない―――今になって指のダイヤモンドがずっしりと重く感じられたのだった。