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33歳の誕生日だった。
午前0時を過ぎた瞬間、スマホにはたくさんの通知が届いた。
『おめでとう!』
『今年もいい一年にしてね』
『またご飯行こう!』
明るい言葉が画面を埋めていく。
だけど僕は、そのどれにもすぐ返信できなかった。
ずっと、一つのトーク画面だけを見つめていたから。
彼とのLINE。
昨日送った『明日、誕生日なんだ』というメッセージは、まだ既読がついていなかった。
部屋の窓は少し開いていて、五月の夜風がカーテンを揺らしている。
遠くで車の走る音がして、どこかのマンションの灯りがひとつ消えた。
静かな夜だった。
僕はソファに座ったまま、スマホを胸に抱える。
きっと朝になれば返信が来る。
そう思いたかった。
彼のことが、本当に好きだったから。
朝、仕事へ向かう途中で見上げた空は綺麗だった。
薄く霞んだ青空。
初夏の風が髪を揺らし、街路樹の葉がさらさら鳴っている。
こんなに世界は穏やかなのに、胸の奥だけずっと落ち着かなかった。
職場では同僚たちが「藤澤先輩!誕生日おめでとうございます!」と笑ってくれた。
コンビニのプリンをくれた後輩。
「今日は主役ですね」なんて冗談を言う先輩。
僕はちゃんと笑った。
嬉しかった。
でも、一番欲しい人からの言葉だけは届かなかった。
仕事が終わる頃には、空は夕暮れ色に染まっていた。
僕は駅前の小さなケーキ屋に寄って、ショートケーキを一つだけ買う。
「ろうそく、お付けしますか?」
店員に聞かれて、私は少し迷ってから首を横に振った。
願い事なんて、もう叶わない気がしたから。
店を出た瞬間、スマホが震えた。
息が止まりそうになる。
画面には、彼の名前。
震える指で通知を開く。
『ごめん。ちゃんと話したい』
たったそれだけ。
でも、その短い文章だけで全部分かってしまった。
街の音が遠くなる。
信号の光も、人の笑い声も、全部ぼやけて見えた。
僕はその場で立ち止まったまま、彼に電話をかける。
数回のコールのあと、聞き慣れた声がした。
「……もしもし」
好きだった声。
それだけで泣きそうになる。
「誕生日、おめでとう」
最初にそう言われて、胸が苦しくなった。
優しくしないでよ、と思った。
まだ期待してしまうから。
「ありがとう」
かすれた声で返す。
少しの沈黙のあと、彼は静かに言った。
「俺、好きな人できた」
その瞬間、心の中で何かが静かに崩れた。
去年の誕生日、一緒に夜景を見に行ったことを思い出す。
来年も、その先も、隣にいると思っていた。
でも、“ずっと”なんて、夕暮れみたいに呆気なく終わる。
「そっか」
それしか言えなかった。
「今までありがとう」
最後の言葉は、驚くほど穏やかだった。
電話が切れたあと、僕はしばらく動けなかった。
空はゆっくり夜に変わっていく。
群青色の空に、細い月が浮かんでいた。
綺麗だった。
こんな日なのに、世界は綺麗すぎた。
だから余計に苦しかった。
僕は人混みから逃げるように歩き続け、気づけば川沿いの遊歩道まで来ていた。
水面には街灯の光が揺れている。
風が吹くたび、きらきらと形を変えていた。
ベンチに座る。
隣にケーキの箱を置いて、静かに俯いた。
涙がぽろぽろ落ちる。
恋が終わる瞬間って、もっと大きな音がすると思っていた。
でも本当は違う。
夕焼けが夜になるみたいに、静かに終わる。
気づかないうちに、大切だったものが遠くへ行ってしまう。
その儚さが、たまらなく苦しかった。
どれくらいそうしていただろう。
「…こんな夜に一人でどうしたんですか?」
不意に声が降ってきた。
顔を上げると、自販機のコーヒーを片手にした男性が立っていた。
歳は二十代半ばくらいだろうか。
黒いシャツの袖を少しまくっていて、夜風に髪が揺れている。
彼は私の返事を待たず、缶コーヒーを一本ベンチに置いた。
「よかったら、」
「……ありがとうございます」
「誕生日ですか?」
隣のケーキ箱を見て、彼が聞く。
私は少し迷ってから頷いた。
「33歳になりました」
「おめでとうございます」
その声は静かで、優しかった。
慰めようと無理に明るくする感じじゃなくて、ただ自然に寄り添うみたいな声だった。
「最悪の誕生日だけど…」
思わずそう漏れる。
すると彼は少し笑った。
「でも、誕生日って終わる頃のほうが印象残ったりしません?」
「……なにそれ」
「今日の最後に会った人とか、景色とか」
川の水面が揺れる。
夜風が静かに吹き抜ける。
その横顔を見た瞬間、不思議なくらい胸が落ち着いていくのを感じた。
さっきまで、世界の終わりみたいに苦しかったのに。
「僕、近くでバーやってるんです」
彼はそう言って、僕に名刺をくれた。
『Bar encounter 大森元貴 』
「あそこ。閉店後に散歩してただけなんですけど」
「バー……」
「誕生日なら、一杯くらい奢りたかったな」
冗談っぽく笑う。
その笑い方が、綺麗だと思った。
たぶん僕は、あの瞬間少しだけ救われていた。
失恋したばかりなのに。
泣いていたはずなのに。
それでも、新しく誰かに惹かれてしまう瞬間は、こんなふうに静かに来るのかもしれない。
終わった恋の痛みは、まだ胸に残っている。
きっとすぐには消えない。
でもその傷口に触れる夜風は、思ったより優しかった。
「33歳、悪い始まりじゃないかも」
僕がそう言うと、彼は少し目を細めて笑った。
川沿いの夜景が、水面でゆらゆら揺れている。
壊れてしまいそうなくらい綺麗な夜だった。
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