───イザナside
「…可愛い」
オレの腕の中でスヤスヤと気持ちよさそうに眠る世界一大事な宝物を優しく撫でる。
スッと絡まることなく指を通る柔らかい髪も、ガラス玉のように大きくオレしか映さない綺麗な瞳も、血色のいい真っ白の肌も、全てがぐちゃぐちゃに汚してしまいたいほど可愛い。
「幸せだよ」、だなんて自分が置かれている状況を全く知らずに言う○○の姿が酷く憐れで、それと同時に酷く愛らしかった。
誘拐、監禁、犯罪。そんな決して純愛とは言えない言葉で飾られるオレらの歪な関係性。
───本当はこんなことするはずじゃなかった。
○○と会ったのはちょうど2年前
酷い雨の日だった。
「…うっざ」
自分の汗とうざいほどに天から降り注ぐ冷たい雨に頭痛と耳鳴りが鳴りやまない。ジットリと濡れた肌と水分を多く含んだTシャツに本能的な不快感を味わう。きっと今のオレの不機嫌度はマックスだ。
──「…なんでだよ、イザナ」
耳に反響する“アイツ”の声に肌を伝う雨とは違う嫌悪感が沸きあがる。
「…なにが家族だよ、嘘つきが」
兄貴だと思って慕っていた男とも、母親だと思っていた女とも、妹だと思い迎えに行くと約束した女とも血の繋がりなんて無かった。最初から家族なんて居らず、ずっと孤独だった。
心の地底にあった嫉妬が噴火する。ガリッと悔しさに耐えるように唇を噛む。
何となく気づいていたんだ。ずっと。いつもすぐ傍に居たのに同じ極の磁石が反発し合っているような、そんな一向に縮められない距離感が常にあった。
エマとも、シンイチローとも、母さんとも。会ったことのないマンジローとかいう弟とも。
「……意味分かんねぇ」
抑えきれない思いをぶつけるように、人気のない路地裏の壁を力一杯殴る。
固いアスファルトの壁の触感と、ヒリヒリとした痛みが拳越しに伝わり、血が滲むのも構わず何回も、何回も。
我に返った時にはもう拳は血塗れで、皮膚が裂けた部分を血が糸をひいた様に流れる。乾いたアスファルトの上を自身の赤黒い血が生き物の様に壁を渡り、重力に耐え切れなくなった血液がポタリとオレの足の上に落ちた。
ヒリヒリと傷口に響くような痛みを出す褐色の拳をぼんやりと見つめながら、虚ろ気に足を帰路へと方向を定めたその瞬間。
「…アンタのせいであの人に嫌われるじゃない!」
荒っぽい言葉遣いで感情をむき出しにして話す女の声が路地裏を通じてオレの耳を刺す。
この世にあるすべての罵詈雑言の束を投げ込む甲高い女の声がキーンとする電気音のようなうざったい耳鳴りと重なり、ただでさえ酷い頭痛が揺れるように強まる。
うるせぇ、黙れよ。
不機嫌に染まった思考が脳裏を巡り、苛立ちがプラスされ、神経が張り裂けそうになる。
そんな癇癖の強そうな声に紛れて微かに聞こえる子供の泣き声をかみ殺したような小さな嗚咽に何となく興味が引かれ、声の聞こえる先に苛立ちを滲ませた瞳を送る。
オレの視線の先には母親と思われる女と、恐らくまだ2,3歳ほどの小さな女のガキ。
髪も体もボロボロで、喉元に溢れ出る嗚咽を飲みこむガキと、相変わらず荒れた言葉を吐き捨てる女の姿に、虐待か、となんとなく事情は察するがどうも助けようとは思えない。
“こっち”の世界に足を踏み入れてからこんなリンチのような光景は何度も見てきたし、何度もしてきた。今更ガキ相手にも可哀想なんて情は湧かなかった。
世間なんてそんなもんだと思う。
テレビや新聞に映る善人とかいう部類のやつらは本当に一欠けらしか居なくて、辛い環境から救われるやつなんてもっと少ないだろう。事情も知らず、「どうしたの?」だなんて生ぬるい綺麗ごとを述べているだけの奴に何が出来るというのだ。
それに、今のオレの心には他人を気遣う余裕なんて残っていない。
きっとどこかの善人もどきが助けるだろう。
考えを無理やり纏めるとガキと女から視線を切り、汚い現実から顔を背け、帰路へと付いた。
何の知識もないオレよりも、そっちのほうが安心だ。
───それでも三日後、あのガキは変わらずあの路地裏に横たわっていた。
「おい」
偶然通ったあの路地裏近く。
流石に三日も同じ場所、しかも同じ体制で倒れているガキが気になり恐る恐る声をかけた。
見たところ満足に飯も食ってないだろうし、親が来た様子もない。
まぁ親があの調子じゃ当たり前といえば当たり前だが。
「……死んでんのか?」
おい、と人形のように横たわるガキの肩を揺らし、肌を見た瞬間。驚いた。
小柄な体に合わないブカブカな服から覗く死人のように青白い首や背には、根性焼きで赤く爛れた肌の跡が雨粒の様にポツリ、ポツリと何個も浮かぶ上がっているのが見える。
青色に変色した痣、ガキ自身の爪などではない何か尖ったもので引っかいたような切り傷。小さい体に浮かぶ、鮮血に滲む隙もない深い傷に言葉を失っていると、突然それまで閉じていたガキの薄い瞼がぴくりと上下に動いた。そのまましばらく焦点を合わせる様にパチパチと浅い瞬きを繰り返すと、長い睫毛が囲むぼんやりと光の失った瞳でオレを捉える。
『…だあれ?』
絞り出すような虚ろ気に掠れた声。
そんな傷だらけのガキの顔を目にいれた瞬間、雷を受けたような衝撃を感じる。
「……は」
『?』
食べてしまいたいほどの可愛さというのはきっとこの事なのだろう。
小さな口から覗く赤い舌が作る声は、聞いていると思わず笑みが浮ぶほどの可愛らしい音をしていて、渇きのような愛の痙攣が一瞬で止まった気がした。
胸が締め付けられて息もできないほど激しく心臓が鼓動し始める。
「……は、え…ぁ」
深い憂いの光を帯びている丸い瞳から目が離せず、心の高ぶりと焦りを抑えきれない乱れた声が口から洩れる。その間も心臓は、ドグドグとただ事ではなく音を立て始める。
『おにいちゃん…だあれ?…ママ、…ママどこ?』
ママ、ママ、と縋るような弱弱しい声を零し辺りを見渡す一途で健気で純粋な姿に胸がチクリと痛んだ。こんな場所に三日も置いてけぼりにされ、捨てられたと同然なのに。
『ママぁー!』
あんな仕打ちを受けたというのに、体も心も傷つけられたはずなのに、まだこのガキは馬鹿みたい“母親”という存在に縋っている。
まぁまだ年端も行かないほど幼いようだし仕方がないだろうけど。
そんな姿に、母親じゃなくてオレに縋ってほしいな、って。
心臓がドンドン膨らんで肋骨を突き破ってしまうのじゃないかと思うほどドキドキする。
『…どう、したの?』
捨てられた、という同情からくる哀れみだったのかもしれない。
自分と似たような境遇のコイツに情を引っ張られたのかもしれない。
「…なぁ、オマエ」
だけど、そんな自分よりもずっと小さいガキに。
「オレんと来るか?」
ずっと傍に居てほしいと思ってしまった。
続きます→♡1000
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