──12月20日。Lと約束した日。 凍てつく空気が街を満たし、白い吐息がすぐに霧散する。午前11時過ぎ。
Bの姿は、アパートにはない。
──それが、シキにとっての「隙」だった。
部屋の窓をわずかに開けると、冷気が指先を舐めるように忍び込んでくる。
黒のコートに身を包み、内緒で外へ出た。階段をひとつずつ静かに下りながら、胸の奥に灯る感情に名前をつけようとして──できなかった。
知りたいと思う、私自身のこと──月読安楽死事件という怪奇事件──そして、私が後を継ぐはずだった男性、Aのこと──
思い出すのが楽しみのような、でも怖いような、自分がどのように変わってしまうのか、はたまたいつも通り変わりもしないのか、どうなってしまうのか分からない展開にドキドキした。
私の中で抜け落ちた記憶。
それを取り戻しにわざわざ日本へ来たんだ。Lに頼まれた以上、必ず解決しなくては──いや、頼まれてやるんじゃない、私が知りたいから事件の真相を暴くんだ。
Lが手配した車が、角を曲がった先に停まっている。身を潜めつつ歩み寄り、助手席のドアを軽く叩く。
「──乗せてください」
その声は思ったよりも不安げで、でもはっきりしていた。
中にいる男性は、短く頷くと、無言でドアを開けた。
私は覚悟を決めて助手席に座り、静かにドアを閉める。少しだけ車内が揺れ、しんとした沈黙が広がった。私はコートの裾を整えながら、横目で運転席の彼を見た。
「……君が“シキちゃん”かい?」
沈黙を破るように、彼は訊ねた。
「はい。私がシキです」
素直に答えた。
「そうか。君が……」
男は一度視線を前に戻し、手を伸ばしてジャケットの内ポケットから何かを取り出した。
「僕の名前は『レイ』。──『レイ・ペンバー』。FBIだ」
そう言って、彼は一枚のバッジを見せてきた。
金属のプレートが冬の日差しを受けて、わずかに光った。
「……。レイ、さん?」
短く沈黙が落ちたあと、私はため息交じりに呟いた。
「私がキラだったらどうするんですか?……死んでますよ? レイ・ペンバーさん」
彼は目を丸くして、しばらくこちらを見つめた。
「ッ!……こりゃ、やられた……」
やがて、少しだけ苦笑して目を逸らす。
「でも、大丈夫だ。君はキラじゃない。何せ、あのLが指名した『探偵』だしね」
探偵!?
「ち違います!私は探偵なんてそんな大それたものではなく──私立探偵です……いえ、私立探偵というより、無私立探偵です」
何言ってるんだろうと笑いそうになった。でも、私の言っていることは間違ってないのだ。私は探偵の卵であり、探偵という役職を持っているわけでもない。私立探偵と呼ぶにはおこがましい。なんせ、探偵の能力はあれど、事件解決は一度もしたことがないのだから。
「……無私立探偵、か。あはは。面白いことを言うね、シキちゃん。さすがLに選ばれただけのことはある」
私は目を伏せる。唇が自然と強く結ばれていく。
「Lに選ばれた訳ではありません。私が“月読”の地に縁がある──それだけです」
声は囁くように静かだったが、その中には微かな棘が混じっていた。
Lに選ばれたなんて、そんな簡単に認められては困る。そんなことで選ばれるのなら──ワイミーズハウスの子供たちは、あんなに頭を抱えて悩まない。あんなにもがき苦しまない。
だからこそ、肯定するわけにはいかなかった。
「でも、君には期待してるよ、シキちゃん」
レイさんはそれだけを言い残し、ゆっくりと車を発進させた。
車内には微かな暖房の音と、タイヤが雪を踏みしめる音だけが響いていた。
「……シキちゃんは、“月読”に縁があるって言ってたけど……具体的に、どのように関わっていたんだ?」
その言葉に、私は思わず息を呑んだ。
「っ……! Lから聞いてないんですか?」
少し声が上ずった。
「?……いや。Lからは“11時にここへ来い”という命令しか下されてない」
レイさんは素直に答えた。冗談も誇張もない。
本当に、何も聞かされていないらしい。
「ええ……なんて安直なの……」
本当に、最低限のことしかしてくれないようだ。
「ははっ、Lはいつもこうだよ」
レイさんはハンドル越しに、どこか懐かしむように笑った。
「あなたは……何度か、Lの命を受けたことがあるんですか?」
「ん?昔、1回だけね」
彼は軽く頷いて、続けた。
「Lから直接指示を受けてたわけじゃない。──でも、Lが率いてた現場にはいたことがある。FBIの捜査協力という形でね」
その言葉に、私は思わず小さく瞬きをした。
(Lの現場……?)
どこか現実感がなかった。
Lは常に“存在しない存在”だったから。
名前も顔も曖昧なまま、“正義”だけが独り歩きするような人だったから。
「じゃあ、Lの“声”を聞いたことがあるんですね」
私はぽつりと呟いた。
レイさんは首をすくめ、少し目を細めた。
「加工音声ではあったけど……端末越しのノイズ混じりの指示で……」
目の前の景色を見つめながら、彼はゆっくり言葉を選ぶように続けた。
「──それはもう、緊張したさ。何をするにも失敗できない。Lの期待に答えなくてはって、プレッシャーだけが僕を蝕んでいった。でも、あれは……僕にとって良い経験だったと思う」
そう語る横顔には、僅かな誇りと、微かな後悔のようなものが滲んでいた。
それを見て、私はふと問いたくなった。
「その現場……どうなったんですか?」
レイさんは当然のように言った。
「──勝ったよ」
少しだけ目を細めて、前を見たまま答える。
その言葉に、私は瞬きすらできなかった。
“勝った”という言葉が、こんなに誇らしく、かっこよく響くなんて思ってもみなかった。
──やはり、Lは強い。
どんな悪にも屈しない存在。
正体すら明かさず、それでも確かに誰かの命を救ってきた。──そして、私たちハウスの目標であり、夢、希望だ。
しばしの沈黙のあと、私はぽつりと訊ねた。
「……レイさんは、“月読安楽死事件”について、何か知っていますか?」
レイさんはハンドルに視線を落としながら、少しだけ口元を歪めた。
「未解決事件だからね……噂程度しか知らないさ」
肩をすくめるその仕草には、少しだけ皮肉が混じっていた。
「そもそも、あの事件自体、僕は信じてない。だって──“被害者全員が安楽死”なんて、信じられるかい?」
その声は穏やかだったが、明らかに疑念を含んでいた。
私はゆっくりと視線を前に戻し、淡々と告げる。
「──私も昔は、信じていませんでした。ですが、今は信じます」
「……?」
レイさんが訝しげにこちらを見る。
「キラは、心臓麻痺で人を殺せる。手を汚さず、姿も見せず、名前と顔だけで」
言葉にすることで、私の中の何かが冷えていくのを感じた。
「月読安楽死事件も、全員が安楽死──恐らく、あの事件には……キラの力が関わっていたと、私は見ています」
車内の空気が、一段と静まった。
レイは言葉を失ったように黙ってハンドルを握りしめる。
「同じキラがこの事件を引き起こしたのか──はたまた、別の“キラ”が存在するのか……」
言いながら、自分でも信じられないような感覚があった。
けれど、それは論理でも妄想でもなく、直感だった。
「真相はまだ分かりませんが──私は、“あの地”で記憶喪失になっています」
レイさんの視線が横から射す。
「記憶喪失!?」
私は言葉を止めなかった。
「月読に行けば、何か思い出せるかもしれません。私の失われた記憶が戻れば、キラの殺しの仕方や、事件の真相も、Lが知りたかった全ても繋がるかもしれないんです!」
そして、私を託した先輩──Aのことも──
ここから先に進んだら、もう後戻りできない、そんな予感が押し寄せてきた。その感覚を消し去ろうと、意識的に息を整える。心の中で繰り返す言葉──「怖くない。やらなきゃ意味がない」と自分に言い聞かせた。
息を整え、まっすぐ前を向く。
「……お願いします! レイさん、私を“月読”に連れて行ってください!」
声が震えたのを感じる。自分でも驚くほど強い感情がこみ上げてきた。でも、言葉にしないと前に進めない気がした。
一瞬の沈黙の後、レイさんが軽く頷く。彼の顔には、どこか穏やかな表情が浮かんでいる。
「ああ。そのつもりさ。二人で真相を暴こう」
「はい──」
私は力強く頷く。決して戻れないと分かっていても、この先に進まなければならない。私の決意が車を加速するように月読へと向かった──
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!