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泣けるわぁ...いい...人外...
一気に最終話です。
『君の願い。叶えてあげる』
夜の住宅街は、どこか押し黙ったように静かだった。街灯の下を並んで歩く俺とまろの足音だけが、舗装されたアスファルトに軽く響いては消えていく。
夏が終わりきらない生ぬるい風が頬を撫でた。俺はポケットに手を突っ込みながら、口の中で噛みつぶすように言葉を漏らした。
「……親なんか、いらねぇよ」
不意にこぼれ落ちた本音。吐いた瞬間、空気が変わった。隣で歩いていたまろが、足を止めたのだ。
俺もつられるように立ち止まり、街灯のオレンジの下で視線を伏せた。胸の奥から込み上げてくるものを押さえきれなかった。
「今さら干渉してきて、勝手に心配してるみたいな顔してさ。どの口が言うんだって思う。ガキの頃は殴るか無視するかしかなかったくせに、都合よく“親”ヅラされても……鬱陶しいだけなんだよ」
そこまで吐き出して、初めてまろの顔を見た。けど、俺が期待してた“同情”や“慰め”は一切なかった。
代わりに、まろは真剣な目を俺に向けてきた。普段ならおどけた調子で笑ってるのに、そのときのまろは妙に静かだった。
「……ないこ」
「なんだよ」
「――ほんまに、いらんのやな?」
まろの声音には、いつもの軽さが欠片もなかった。胸の奥をざらついた指先で掻きむしられるみたいに痛い。俺は苛立ちを隠すように言い返す。
「あぁ。いらない。そんなもん、俺の人生に必要ねぇ」
「……そっか」
短くそう答えたまろは、ふいに前を向き、夜道を歩き出した。足取りが早い。俺は少し遅れて追いかける。
「おい、どこ行くんだよ」
「決まっとるやろ。“親なんかいらん”言うたんはないこや。なら、うちが――殺したる」
心臓が一瞬止まったような感覚。
冗談じゃなかった。本気の声色だった。まろは振り返らずに言葉を続けた。
「ないこが望むんなら、うちはその願い叶える。ないこの邪魔するモンは、全部消したる。せやろ?」
「……は?」
乾いた笑いが漏れた。俺は足を止める。頭が追いつかない。
「お前、本気で言ってんのか」
「本気や」
まろは立ち止まり、振り返った。真っ暗な夜の底みたいな瞳で、俺を見据える。
「うちはないこの願いなら何でも叶える。せやから、いらんのやったら殺したる。それだけや」
頭の中で何かがぐちゃぐちゃに混ざり合った。怒り、驚き、そしてほんの少しの――安堵。
俺の言葉を真に受けて、ここまで動こうとするやつなんて、今まで誰もいなかった。だからこそ、怖かった。
「……バカか、お前」
「バカでええ。ないこのためになるなら、なんでもする」
「そんなことして、どうすんだよ。殺して、俺が喜ぶとでも思ったのか?」
「思った。せやから、行く」
まろは本当に歩き出そうとした。俺は慌てて腕を掴んだ。
「待てって! ……やめろ」
「ないこ、止めんな。うちは――」
「違うんだよ!!」
声が夜空に跳ね返った。自分でも驚くくらい大きな声だった。
まろが振り返る。その目を真っ直ぐ見ながら、俺は言葉を吐き出した。
「俺が言ったのは……ただの八つ当たりだ。あいつらにされたこと思い出すと、全部ぶち壊したくなる。でも……俺は、望んでなんかない。親が死んでほしいなんて……本当は、望んでねぇんだよ」
胸の奥が軋む。喉が痛い。けど、言わなきゃならなかった。
まろは黙って俺を見ていた。やがて、ふっと息を吐いて笑う。
「……なんや。結局、止めるんやな」
「当たり前だろ」
「ほんま、めんどくさいやっちゃなぁ」
「うるせぇよ」
俺がそっぽを向くと、まろは掴まれた腕を解き、ぽんと俺の肩を叩いた。
「でもな、ないこ。うちは別に間違ったこと言うてへん思うで」
「は?」
「“殺す”んは極端かもしれへんけど……要は、ないこが抱えとる重荷をどうにかしたかったんや。あんたがいらん言うんなら、消したる。それくらい、うちにとっては普通のことや」
その“普通”が恐ろしい。でも、だからこそ――俺は少し救われた。
誰も本気で俺のために動こうなんて思わなかった。けど、まろだけは違う。
「……ありがとな」
「え?」
「本気で俺の言葉を信じてくれて、動こうとしたこと。馬鹿げてるけど、嬉しかったんだよ」
「……アホやなぁ」
まろは照れくさそうに笑って、頭をかいた。
夜風が二人の間を吹き抜けた。少しだけ軽くなった気がした。
「じゃあ、ないこのほんまの願いはなんや?」
「……え?」
「“親なんかいらん”んやったら、それ以外で何を望んどるんや。願い、言うてみ」
まろの問いかけに、俺は言葉を失った。
本当の願い――。考えたことがなかった。
でも、ゆっくりと心の底から答えが浮かんでくる。
「俺は……親なんかより、今を大事にしたい。俺に関わってくれるやつ、笑い合えるやつ……お前みたいなやつを、大事にしたい」
まろは目を見開き、それからゆっくり笑った。
「……それでええやん。うちは、その願い叶えたる」
そう言って、夜の空に拳を突き上げる。俺は呆れながらも笑ってしまった。
不器用で、物騒で、でも真っ直ぐなまろ。その存在が、俺の支えになっていた。
――そのとき、携帯が震えた。画面には、見慣れた番号。
親からだった。
胸の奥がざわめく。拒絶したい気持ちと、どこかで期待する気持ちが交錯する。
俺は携帯を睨みつけたまま、動けなかった。
「出ぇへんの?」
「……わかんねぇ」
「出んでもええし、出てもええ。ないこが決めることや。……せやけど」
まろは少しだけ真剣な顔になった。
「もしまた傷つけられるようなことがあったら、そのときは――ほんまに、うちが殺したる」
冗談じゃない声音。俺は慌てて笑ってみせる。
「……やめとけって。もういいよ」
「ほんまにええんやな」
「あぁ。俺は、もう親に縛られたくねぇ。これからは、自分で選んで生きてく」
携帯の着信は途切れた。夜風がひときわ強く吹いた。
俺は深く息を吸い込んで、吐き出した。
「まろ」
「ん?」
「ありがとな」
「おう。なんぼでも言え。うちはないこの味方やからな」
その言葉に、胸の奥が温かくなる。
俺は確かに今を選んだ。もう、過去に縛られる必要はない。
君の仕事
俺は、ずっと気になっていた。
まろが普段どんな仕事をしているのか。
口を開けば冗談や軽口ばっかりで、肝心なところは「秘密や」って笑って誤魔化す。けど、俺は知りたかった。まろの真剣な姿も、普段の俺が見られていないまろの横顔も。
「なぁ、まろ」
「ん? なんや、ないこ」
「今日……仕事あるだろ? 俺も、ついていっていいか?」
言った瞬間、まろは目を丸くした。すぐに笑い出すと思ったのに、なぜかしばらく黙り込んで、真剣に俺の顔を見てきた。
その沈黙が、逆に怖かった。
「……ほんまに言うてるんか?」
「本気だよ。まろのこと、もっと知りたいんだ」
「ふーん……」
まろは肩をすくめ、溜め息を吐いた。
けど、次に浮かべたのは、どこか挑発するような笑みだった。
「しゃあないな。じゃあ、来てみぃ。ただし――怖なっても知らんで?」
夕暮れ時。
まろの仕事場へと足を踏み入れた俺は、すぐに自分が場違いなところに来たと悟った。
薄暗い倉庫、並んだ木箱、外には黒塗りの車が数台。鋭い視線をした男たちが行き来している。空気そのものが張りつめていて、ひと呼吸するのさえ息苦しい。
「……ここ、まろの仕事場……?」
「せや。これが、うちの仕事や」
いつもの気楽な調子とは違う、低くて硬い声。
俺は思わず息をのんだ。
まろは、その空気に溶け込むように堂々としていた。
誰かが近づいてきた。背の高い男で、眉間に深い皺を寄せながらまろに話しかける。
「まろ。予定どおり、荷は入った。これから例の相手に渡す」
「了解や。細心の注意で頼むで。ヘマしたら命取りやからな」
そのやりとりを見て、俺は心臓が跳ねるのを感じた。
――まろは、本気で命のやり取りをしている。冗談抜きで、ここは危険な場所なんだ。
「なぁ、ないこ」
「……な、なに?」
「足震えとるで」
「っ、べ、別に……!」
まろがニヤッと笑う。けどその目は笑ってなかった。
本気で俺を試している。そう思った。
仕事は着々と進んでいく。
木箱の中身は見せてもらえなかったが、俺の想像ではきっと……そう、危ないものだ。
車に荷を積み込む男たちをまろが監督し、時折鋭い声で指示を飛ばす。その姿は、俺の知ってるまろとは違っていた。
「しっかり締めとけ! 甘かったら全部水の泡やぞ!」
「は、はいっ!」
部下らしき男たちが一斉に返事する。
その光景は、なんだか不思議だった。
まろが“みんなの頭”であることを、俺はようやく肌で理解した。
「……すごいな、まろ」
「何がや?」
「みんな、まろの言葉をちゃんと聞いて動いてる。……尊敬されてるんだな」
「アホ。尊敬やあらへん。信用や」
まろはふっと笑って、肩を軽く叩いてきた。
その一瞬だけ、いつもの柔らかさが戻った気がした。
だが、すべてが順調ではなかった。
搬出が終わりかけたとき、不意に外で怒号が響いた。
「裏切り者や! 伏せろ!」
銃声。耳をつんざくような音が倉庫に響く。
「ないこ! 伏せぇっ!」
反射的にまろが俺を押し倒した。頬をかすめるように弾丸が飛んでいく。
心臓が凍りつく。視界が揺れて、全身から血の気が引いていった。
「っ……な、なんで銃なんて……!」
「これが“仕事”や言うたやろ!」
まろは腰のホルスターから銃を引き抜き、迷いのない動作で応戦を始めた。
普段のまろからは想像もできない、鋭く、冷たい表情。
俺は、ただ震えながらその背中を見つめるしかなかった。
数分が永遠みたいに長く感じられた。
やがて銃声が収まり、敵が退いたことが分かった。
倉庫の中には、緊張と汗の匂いだけが残っていた。
「……ないこ」
まろが振り返った。
「大丈夫か?」
「っ……お、俺は……」
言葉にならない。
怖くて、でも、同時に胸の奥が熱くなっていた。
あの背中を守りたい。隣に立ちたい――そう思ってしまったんだ。
「……なぁ、まろ」
「ん?」
「俺も……一緒に戦いたい」
「アホか」
即座に否定された。まろの声は怒気を含んでいた。
「さっきの撃ち合い見たやろ。うちは命張っとるんや。ないこにできることやあらへん」
「でも! 俺だって……俺だって、まろの隣にいたいんだ!」
声が震えた。
まろは一瞬、目を細めて俺を見つめ、そして深く溜め息を吐いた。
「……ほんま、しょうもないやっちゃな」
「なにそれ」
「怖がっとるくせに、まだ強がっとる」
そう言って、まろは俺の髪をくしゃりと撫でた。
その手が温かくて、涙が出そうになった。
「ええか。ないこは、守られる側や。うちにとって……大事なもんや。だから危険なとこに立たせるわけにはいかん」
「……っ」
「せやけど――気持ちだけは、受け取っとく」
その一言に、胸がいっぱいになった。
その夜。
仕事を終え、車で送られる途中、窓の外の街明かりをぼんやり眺めながら思った。
まろの仕事は、俺が思っていた以上に危険で、残酷で、そして重かった。
けど、だからこそ、まろが背負っているものの大きさを知れた気がした。
「……なぁ、まろ」
「なんや」
「やっぱり俺、まろのこと、もっと知りたい」
「……はぁ。ないこは物好きやな」
呆れたように笑いながらも、まろは俺の肩を引き寄せた。
その仕草が、妙に優しくて、安心させてくれる。
「うちの仕事、そんなに甘ないで。けど……隣にいたい言うてくれるなら、まぁ……嫌いやないわ」
「っ……!」
心臓が跳ねる。
窓の外の夜景が滲んで見えた。
――俺はやっぱり、この人の隣にいたい。
どんな仕事をしていても、どんな危険があっても。
そう思いながら、俺は静かに目を閉じた。
『命って儚いね』
夜の帳が下りた街を、俺とまろは並んで歩いていた。
まろの仕事に付いて行くのは、もうこれで二度目だ。前回は俺にとって衝撃的な場面が多すぎて、正直、夢か幻かと思うくらい現実感がなかった。けれど、今こうして再び彼と肩を並べて歩いていると――現実なんだと実感する。
「なあ、ないこ」
横を歩くまろが、不意に声をかけてきた。
「前んときより顔色ええやん。慣れてきたんか?」
「……慣れるもんじゃないだろ」
俺は思わずそう返してしまう。
「人が倒れてるとことか、血とか……見慣れちゃいけないもんだろ」
まろはふっと笑った。どこか切なげな、けれど温かみのある笑みだった。
「せやな。けどな、仕事柄、うちはそれを見んとアカン立場なんや。……ほんで、ないこも一緒におる以上は、どうしても目に入ってまう」
俺は返す言葉をなくした。ただ黙ってうなずくことしかできなかった。
目的地は古びた団地の一室だった。
ドアの前に立った瞬間、まろの顔つきが一気に変わる。さっきまでの柔らかさは消え、鋭い眼差しが闇を貫いていた。
「ないこ。入ったら静かにな」
「……ああ」
ドアをノックすると、中から弱々しい声が返ってきた。
「どうぞ……」
中に入ると、六畳ほどの和室に布団が敷かれ、その上に一人の老人が横たわっていた。痩せ細った体、青白い顔色、荒い呼吸。
――死が近い。
俺でもわかった。命の灯が今にも消えかけていることが。
まろは布団のそばに座り、静かに老人の手を握った。
「こんばんは。様子、見に来ましたで」
老人はかすかに目を開け、まろを見て微笑んだ。
「ああ……また来てくれたんか……」
その笑みは穏やかで、どこか安堵したようでもあった。
俺はそっと後ろに立ち、二人を見守る。まろは言葉少なに、ただ静かに手を握り続けていた。その様子はまるで、命の最後の瞬間を見届ける役割を自ら引き受けているように見えた。
しばらくすると、老人は力尽きたように目を閉じた。呼吸も次第に弱まり、やがて止まる。
部屋に沈黙が訪れる。
「…………」
俺は息を飲んだ。
目の前で、一つの命が終わった。ついさっきまで、そこに確かに“生きていた人”がいたのに。声を発して、笑っていたのに。
その事実が、胸に重くのしかかる。
まろは老人の顔に布をかけ、そっと手を合わせた。
「お疲れさんやったな……」
その声には、涙のようなものが滲んでいた。
帰り道。
俺たちは夜風に吹かれながら、しばらく黙って歩いた。
ふと、口が勝手に動いた。
「……命って、儚いんだな」
まろは俺をちらりと見て、苦笑した。
「せやな。うちは何度も見てきたけど……何回見てもな、慣れることはないわ」
「慣れない……のか」
「うん。むしろ、見れば見るほどわかる。命がどんだけ重いか、尊いか」
夜空を見上げるまろの横顔は、月明かりに照らされて神秘的にさえ見えた。
「ないこ。今日のこと、忘れんでええ。辛かったら辛いまんまでええ。ただな……」
そこで言葉を区切り、まろは俺にまっすぐ視線を向けてきた。
「“儚いからこそ、大事にせなアカン”ってことだけは、覚えといてほしい」
俺は何も言えなかった。ただ、胸の奥で熱いものがこみ上げてくるのを感じていた。
アパートの前まで来たとき、俺は足を止めて言った。
「なあ、まろ」
「ん?」
「もし俺が……死にたくなるくらい、どうしようもなくなったらさ。お前、どうする?」
まろは少しの間、黙って俺を見つめていた。やがて、真剣な顔で答えた。
「……アホ。そんなこと言わすな」
そう言って、俺の頭を軽く叩いた。
「うちは絶対止める。生きてる限り、何があってもな」
その言葉に、俺の胸はじんわりと温かくなった。
――命って儚い。けど、儚いからこそ、守りたい。
まろの横顔を見ながら、俺は心の奥でそう強く思った。
その夜。布団に入っても眠れなかった。
老人の最後の笑顔が何度も脳裏によみがえる。
でも同時に、まろの言葉も。
「儚いからこそ、大事にせなアカン」
きっと俺はこれからも、命の重さを何度も突きつけられるだろう。けれど、まろと一緒なら――逃げずに受け止められる気がした。
『俺の過去』
静かな夜だった。
倉庫の仕事の後、俺は一人で街を歩いていた。ないこは部屋で休ませている。今日見たものが、まだ頭の中でぐるぐると渦巻いていたからだ。
夜風が顔を撫でる。肌に触れる冷たさに、昔の記憶がふと蘇った。
俺は、いまだに自分の過去を語ることはほとんどない。いや、語れない。まだ、ないこには知らせない。
――あの日のことだ。
俺が生きていた頃。高校二年生になる少し前の夏。
あの頃、俺は明るくて、やんちゃで、でもどこか繊細な少年だった。
ないことは……幼馴染だった。毎日のように一緒に遊んだ。けれど、ないこはもう覚えていないだろう。俺の死によって、彼の記憶から俺は消えたのだから。
小学校の裏庭で、砂まみれになって笑い合った日々。
風鈴の音が響く縁側で、二人でアイスを分け合った日々。
そのどれもが、今でも胸の奥に痛いほど鮮明に残っている。
でも、ある日――全てが終わった。
俺が死んだ理由は、単純に事故や病気じゃない。
――俺は誰かの命を守るために、死ななければならなかった。
そのときの選択は、誰にも迷惑をかけず、誰にも理解されず、孤独に行われたものだった。
事件は、俺がまだ十七歳の夏だった。
その日、街では大きな火事が発生した。
古いビルの倒壊が迫る中、数人の子供たちが取り残されていた。俺は迷わず、助けに向かった。
無理もない。俺はその子たちを守るためなら、自分の命なんて惜しくなかった。
でも、瓦礫の下敷きになり、俺はそこで生き絶えた。
――死んだ瞬間の感覚は、奇妙だった。
痛みも恐怖もなく、ただ体が軽くなり、視界が澄んでいく。
そして、気づいた。自分がもう生者ではないことに。
死後の俺は、人々の生活の中には介入できない。
けれど、ないこのそばにはどうしてもいたかった。
あの子がひとりで危険に巻き込まれるのを見過ごすことはできなかった。
だから、俺は死神として、彼の命を刈り取る存在として現れた。
ただし、俺の心は揺れ動く。
――本当は、この子の命を奪いたくない。
それでも、この存在のルールが俺にそれを求める。
俺の死は、ないこにとってはもう過去の出来事だ。
けれど、俺にとっては過去も現在も未来も、全てが彼と絡んでいる。
俺が死んだ日、ないこはまだ小さな子供だった。
その日、俺は彼の手を握り、安心させたかった。
「大丈夫、俺がいる」と言って、最後に笑った。
その笑顔だけが、俺の死後も彼の胸に残るはずだった。
けれど現実は違った。
事故の混乱の中で、ないこの記憶から俺は消えた。
今の彼が、俺を覚えていないのも当然だ。
それでも俺は、ずっと彼を見守ってきた。
彼の笑顔、彼の泣き顔、彼が選ぶ道のすべてを、遠くから追い続けた。
大人になってからの俺は、ないこの側に立つことを選んだ。
死神としての仕事を背負いながらも、彼の生活に介入し、守り、時に叱り、時に慰める――そんな日々。
だけど、ないこにはまだ、真実を明かしていない。
明かせば、彼は混乱し、怖がり、恐れるだろう。
だから、今は黙って見守るしかない。
それが俺の選んだ道だ。
街灯の下、冷たい夜風が頬をかすめる。
俺は深く息を吸い込み、吐き出した。
――命は儚い。
だけど、その儚さを知ったからこそ、俺はなおさら、ないこを守りたい。
この子の命を、自分の手で守ることが、今の俺にできる唯一の行為だから。
俺は静かに夜空を見上げる。
見上げる星は、まるで過去の自分の笑顔を映しているようで、胸が熱くなる。
ないこがまだ知らない、俺の過去。
死んだ理由、幼馴染だったこと、そしてこの心の揺れ。
すべては、まだ封印されている。
けれど、いつか――
ないこが覚えるべき時が来たら、そのときは全てを明かすつもりだ。
それまでは、ただそばにいる。
命の儚さを知った俺だからこそ、できること。
――ないこの命を守ること。
『知らぬが仏』
夜の校舎は、またしてもひどく静まり返っていた。窓の外には月が浮かび、どこか薄く滲むような光を床に落としている。
俺――ないこは、まろと並んで歩きながら、七不思議の一番目とされる存在を調べにきていた。
「……花子さん、か」
「せや。小学校やったらトイレの花子さんやけど、この学校のはちょっとちゃうらしいで」
まろが淡々とした調子で言う。その声色は、俺を安心させようとしているようにも思える。
ただ、七不思議という言葉の裏に潜む“死者”の存在を俺はもう何度も目にしてきた。もはや「ただの噂」で済ませられないことはわかっていた。
花子さんの噂は、こうだ。
三階の東棟、女子トイレの一番奥。誰もいないはずなのに扉を叩く音がする。中を覗けば、そこには「花子さん」と名乗る少年がいる――。
「……少年?」
「そう。名前はりうら、って言うらしいわ」
俺は目を瞬いた。花子“さん”と言えば、普通は女の幽霊だと思う。しかし、ここに残された噂は妙に具体的で、しかも性別が逆だった。
「……まあ、行くしかないか」
「そやな。気ぃつけや」
俺とまろは懐中電灯を手に、三階のトイレへ向かった。
女子トイレの前に立つと、異様な空気が漂っていた。
扉の前に立っただけで、背中に冷気が走る。
俺は息を呑み、ドアを押した。中は驚くほど静かで、誰もいないように見える。
――コン、コン。
唐突に響いた音に、俺は全身を硬直させた。
音は奥から聞こえる。三番目ではなく、一番奥の個室から。
「……来たな」
まろが小さく呟いた。
俺は意を決して、奥の扉に近づいた。すると――。
「……おいで」
少年の声がした。低すぎず、高すぎない、柔らかい声。
次の瞬間、扉がゆっくりと開き、そこに立っていたのは確かに“少年”だった。
整った顔立ちに短めの赤髪。制服姿で、どこか現実離れした雰囲気を纏っている。
彼はにやりと笑い、俺を見つめた。
「……俺の名前は、りうら。ここでは花子って呼ばれてるけどな」
りうらは自ら名乗った。
幽霊らしい薄い透明感があるが、表情は驚くほど人間らしい。
「お前ら、わざわざ俺に会いに来たんだろ?」
挑発的な笑み。だが俺は一歩踏み込んだ。
「七不思議の一番、花子さん……いや、りうら。お前はどうしてここに?」
問いかけると、りうらの笑みは少しだけ陰を落とした。
「どうして、か……。答えは簡単だ。俺は、忘れられたからここにいる」
「忘れられた?」
俺は眉を寄せる。隣でまろは唇を固く結んだ。
りうらは俺を見据えたまま、言葉を続ける。
「俺にはな、大事な幼馴染がいた。ガキの頃からいつも一緒にいて、くだらないことで笑い合ってさ。でも、そいつは俺を忘れちまったんだ」
心臓がひやりと凍るような感覚があった。
りうらの目は、俺を刺すように真っ直ぐだった。
「……お前、もしかして――」
問いかけかけた瞬間、りうらはにやりと笑った。
「思い出さなくていいよ、ないこ。知らぬが仏、ってやつだからな」
俺の名前を呼ばれて、思考が止まった。
なぜ、こいつが俺の名前を知っている? まろ以外に、俺の存在をこう呼ぶ幽霊なんていなかったはずだ。
「お前……俺を……」
言葉を探していると、りうらはわざとらしく肩をすくめた。
「まあ、気にするな。俺は花子で、ここに縛られてるだけの存在さ」
それ以上は語らず、りうらはふっと姿を薄くした。
「……まろ」
トイレを出て廊下に立った俺は、息を詰めたまま声を絞り出した。
「今の……りうら。なんで、俺の名前を知ってる?」
まろは目を伏せた。少しの沈黙のあと、ゆっくり答える。
「……ないこ。お前、昔のこと覚えてへんのやろ」
「昔……?」
「あのりうらは、ほんまにお前の幼馴染や。ガキの頃、いつも一緒に遊んでた。……せやけど、お前は忘れてもうたんや」
耳の奥で鐘が鳴ったような衝撃。
りうらの言葉が、今になって心に重くのしかかる。
「忘れ……た?」
「そうや。りうらは、お前に忘れられたまま死んでもうた。だから幽霊になって、ここに縛られとるんや」
呼吸が詰まる。
りうらの笑み、その声、その視線。全部が胸を締め付けて離さない。
「……なんで俺、覚えてないんだよ……」
拳を握る。記憶の底を探ろうとしても、空白が広がっているだけだ。
りうらの存在は確かに心のどこかに刻まれているようで、それでも形にならない。
「俺、りうらを……」
声が震えた。まろは何も言わず、ただ横で俺の肩に手を置いた。
その夜、俺は眠れなかった。
りうらの言葉が何度も頭の中で響いていた。
――知らぬが仏。
もし俺が彼を思い出せば、彼は救われるのか。
それとも、俺が思い出すことは彼を傷つけるだけなのか。
答えは、まだ出ない。
ただひとつ確かなのは、りうらが俺を“知っている”という事実だけだった。
『淋しい神様』
夜の校舎は、まるで世界から切り離された小さな箱庭のようだった。
窓の外には星の光も届かず、ただ暗闇が支配している。まろとないこが七不思議を追いかけて歩くこの場所は、静けさという名の膜に覆われ、どこか息苦しいほどだった。
「なぁ、ないこ。次は“淋しい神様”やろ?」
まろの声が廊下に響いた。
彼の声は軽く響いても、どこか影を帯びている。死んだ存在だからなのか、彼の言葉は生者とは違う揺らぎを持っていた。
「……ああ。七不思議の四番目。放課後、旧図書室に行くと“神様”が現れて、願いを叶えてくれる……ただし、代償が必要って噂だ」
ないこは手にしたノートを開き、集めたメモを確認する。
その字は几帳面で、どの七不思議にも簡単な伝承と、発生場所が書き込まれていた。
「代償、ねぇ。そんなん、神様っちゅうより悪魔やん」
「ま、俺もそう思う。だがここに現れる“神様”は……本物かもしれない」
ないこの言葉に、まろは目を細めた。
幽霊である彼は、人間では気づけない空気の濁りを察する。――この学校には、確かに“人ならざるもの”がいる。七不思議という形で囁かれているが、その一つ一つはただの噂ではない。
二人は旧校舎の奥へと足を踏み入れる。
古びた木の床は歩くたびにきしみ、壁に貼られた掲示物は色あせ、剥がれかけている。
そして――突き当たりの扉に辿り着いた。そこには「旧図書室」と書かれている。
「ここか……」
「うん、間違いないわ」
ないこがドアを押すと、重たい音とともに扉が開いた。
中は思っていた以上に広い。書棚が並び、古い本が積まれている。長い間誰も入っていないはずなのに、空気はどこか澄んでいた。むしろ、静謐な神社に足を踏み入れたときのような緊張感が漂っている。
そのとき、ふっと風が吹いた。
本のページが勝手にめくれ、カタンと机の上のインク瓶が揺れた。
ないこが眉をひそめ、まろが身構える。
「……来るで」
次の瞬間、光がふわりと揺らぎ、部屋の中央にひとりの青年が姿を現した。
白い衣をまとい、背筋はすっと伸びている。年齢は二十歳前後に見えるが、纏う気配は人ではない。まるで長い時間を超えて存在する“何か”だ。
「ようこそ……僕の祠へ」
静かな声が響いた。
青年は微笑を浮かべ、ゆっくりと二人を見回す。
「……お前が、“淋しい神様”か?」
ないこが問いかけると、青年は頷いた。
「そう呼ばれているみたいだね。僕の名は――ほとけ。昔から、この場所で願いを聞き届けてきた」
「願いを叶える代わりに、代償を取るんやろ?」
まろがにらみつける。
しかし、ほとけは目を伏せるだけで否定はしなかった。
「願いを叶えるには力がいる。その力は“等価”でなければならない。代償を支払ってくれる者がいるから、僕は存在できるんだ」
「……つまり、見返りなしじゃ動かんってことか」
「そういうことだね」
ないこは思わず拳を握った。
どれだけ願いがあっても、その代わりに何かを失う――そんな取引に乗れば、取り返しのつかないことになるかもしれない。
実際、この七不思議を追ってきた中でも、“代償”を払ったがために不幸になった人間の痕跡はいくつもあった。
「……あんた、何でそんなことしてんだ」
「僕が淋しいからだよ」
静かな答えに、空気が凍りついた。
ほとけは淡く笑いながら、しかしその目はどこか虚ろだった。
「僕は神様だけど、信じられなければ存在できない。昔は祈る人がたくさんいた。でも今は誰もいない。この学校に縛られ、ただひとりで……声をかけてくれるのを待っている。だから、“代償”と引き換えに願いを叶える。そうすれば、僕を忘れないから」
その言葉は哀しかった。
願いを叶えるのは善意ではなく、存在を繋ぎ止めるため。
彼はただ、自分を必要としてほしいだけなのだ。
「……淋しい、神様」
まろが小さくつぶやく。
幽霊である彼には、その孤独がよくわかるのだろう。
自分も、死んだ時からずっと孤独だった。ないこに再会できるまでの長い時間、ただ漂い続けてきたのだから。
「けどな」
ないこが前に出る。
「代償を払わせてまで願いを叶えさせるなんて、結局は誰かを不幸にしてるだけだ。そんなことしてまで、存在を繋ぎ止める意味はあるのか?」
問いかけに、ほとけは返事をしなかった。
ただ目を伏せ、その肩が小さく震えているように見えた。
――僕は、消えたくない。
――忘れられるのが、怖い。
言葉にしなくても、その心の叫びは伝わってくる。
ないこは拳を下ろし、深く息を吐いた。
「……あんたが、ただの悪い存在やないことはわかった。けど、俺たちは七不思議を追ってる。全部の真実を確かめるまでは、あんたの“取引”に乗るわけにはいかん」
「そうか……」
ほとけは寂しげに微笑んだ。
「なら、また来ればいい。僕はここで待っているから」
光が揺らぎ、彼の姿はゆっくりと薄れていった。
残されたのは、静まり返った旧図書室と、まだ漂う神聖な気配だけ。
まろとないこは顔を見合わせ、無言でその場を後にした。
――淋しい神様。
彼の存在は、七不思議の中でもひときわ複雑で哀しいものだった。
次に会うとき、彼の真意をもっと深く知ることになるだろう。
『忘れたい』
夜の神社は、静けさを越えて、不気味なほどの沈黙に包まれていた。
灯籠の明かりはすでに途絶え、社の奥には黒い影がひっそりと横たわる。
ほとけは拝殿の前に腰を下ろしていた。
まろとないこ、りうらはすでに帰った。だが、彼は「少し一人になりたい」と言って残ったのだ。
頬に触れる風が、冷たい。
けれど、それ以上に胸の内に広がる記憶の断片が、どうしようもなく重かった。
「……なんで、今さら、こんなことを」
ぽつりと、ほとけは呟く。
頭の奥で鳴り響く声がある。何度も、何度も。
──僕は、神様だった。
──いや、神様にされた。
子供の頃から不思議な力を持っていた。
水を操る。願いを叶える。病を和らげる。
村の人間はそれを「神の子」と呼んだ。
だが、本当は違った。
その力は祝福ではなく、呪いのようなものだった。
人を救えば救うほど、自分の命が削れていったのだ。
幼い頃はただ楽しかった。
困っている人を助ければ、笑顔が返ってくる。その笑顔を見るだけで嬉しかった。
だが、成長するにつれ、体の中が空洞になっていくような感覚に気づいた。
そしてある時、気づいてしまった。
僕の「寿命」は、人を救えば救うほど短くなっていくのだと。
「忘れたい……」
ほとけは額に手を当てた。
断片的な光景が次々と脳裏に浮かぶ。
――泣き叫ぶ母親に抱かれた幼子を癒やす自分。
――戦で傷ついた兵士の血を止める自分。
――疫病に倒れた村人に水を与える自分。
助けるたびに、体が痩せていった。
髪が抜け、目が霞み、皮膚は青白くなり……。
それでも人々は言った。
「神様、神様」
「もっと救ってください」
やめたいと口にしても、やめさせてもらえなかった。
「あなたは神様だから」と。
やがて村人たちは、僕のことを社に祀った。
生きながらに神とされた。
そして、最後の命の炎を燃やし尽くすように……僕は死んだ。
「……だから、忘れたいんだ」
ほとけは震える声で呟く。
この記憶は呪いだ。
思い出せば思い出すほど、胸が苦しい。
今の「僕」が壊れてしまう。
でも――なぜか、ここで会った彼らを見ていると、思い出してしまうのだ。
ないこ。りうら。まろ。
特に、ないこを見ていると、胸の奥に説明のつかない感情が渦を巻く。
彼は、前世の僕と何か関わりがあったのだろうか。
「……まさかね」
苦笑してみせる。
けれど、その可能性を完全には否定できなかった。
拝殿の奥から、かすかな声がした。
『……神様』
ほとけの心臓が跳ねる。
耳を澄ますと、確かに声が聞こえる。
子供の声。どこか懐かしい。
『神様、また助けて……』
幻聴だ、とすぐに気づいた。
けれど、耳を塞いでも消えない。
ほとけは立ち上がり、拝殿の扉を押し開けた。
中は闇に包まれている。
その奥に、白い影が立っていた。
小さな子供。血だらけの服を着て、泣いている。
「……っ」
ほとけは息を呑む。
これは幻覚だ。過去の記憶が形を取っただけだ。
だが、影は口を開いた。
『忘れないで、神様。僕たちを救ってくれたこと……忘れないで』
「やめろ……」
ほとけは後ずさる。
心がざわめき、胸が裂けるように痛い。
「忘れたいんだよ……! あんな過去なんて、もう要らないんだ!」
叫び声は拝殿に木霊し、夜の神社に広がった。
――その瞬間、影は霧のように消えた。
残されたのは、ほとけ一人。
膝をつき、肩を震わせていた。
……忘れたい。
けれど、忘れられない。
自分が神と呼ばれ、そして人々のために死んだことを。
その記憶が、今もなお彼を縛っていた。
翌日。
「おーい、ほとけ! ぼーっとしてんじゃねぇぞ」
ないこの声が響き、ほとけは我に返った。
学校の帰り道、三人で歩いていた。
まろは前を歩き、りうらは口笛を吹いている。
「……あ、ああ。ごめん」
「なんだよ、元気ねぇな」
「ちょっと寝不足でね」
苦笑で誤魔化す。
本当のことなんて言えるはずがない。
「僕は前世で神様だった」なんて。
「人を救って死んだ」なんて。
誰にも知られたくなかった。
ましてや、この温かな時間を共に過ごす彼らには。
だから、心に押し込める。
忘れたいと願いながら。
けれど、ほとけはもう気づいていた。
忘れたいと願うほど、その記憶は鮮明になっていくのだと。
そして、その記憶はいつか、彼らの運命に触れるだろう。
(……それでも、今はまだ言えない)
ほとけは小さく息を吐き、笑顔を作った。
「さ、行こうか。七不思議の調査がまだ残ってるだろ?」
「おう!」とないこが返す。
まろとりうらも笑い、夕暮れの街を歩いていく。
ほとけはその背中を見つめながら、心の奥底でただ一言を繰り返した。
――忘れたい。
だが、決して忘れられない。
その呪いを抱えたまま、彼は歩き続けていく。
『嫌われる君』
夏の蝉の声が遠くで響いていた。
放課後の教室には、まだ数人の生徒が残っていたが、その中心で目立っていたのは――白い髪の少年、初兎だった。
「なあ、アイツさ……」
「なんでここに居んの?」
「やっぱ気味悪いよな」
小さな声で交わされる囁き。だが、本人には届いていないと思っているだけで、確実にその声は初兎の耳に入っていた。
彼は無理に笑顔を作ることもなく、机に突っ伏して空を見つめるだけだった。
僕は初兎や。関西からこっちに来て、もう半年以上経ったはずやのに……どこ行っても居場所があらへん。
彼の心の声は、どこか淡々としているが、その実、深い孤独を孕んでいた。
関西弁で話すだけで「浮く」。それだけならまだしも、彼の白髪、妙に冷たい雰囲気がさらに噂を助長させていた。
「見た目、なんか人間っぽくないよな」
「怖……」
声が刺さる。
机に突っ伏していた初兎の拳が、僅かに震えた。
そんな彼に、話しかける人物がいた。
「なあ、初兎」
振り向けば、幼馴染のないこが立っていた。その隣にはまろもいる。
「……なんや、お前ら」
「いや、お前が一人でおるから。珍しいなと思って」
ないこが笑いながら言うと、初兎は目を逸らした。
「珍しいことなんかないで。僕はいつも一人や」
「……初兎」
まろが低い声で呼ぶ。彼の関西弁は柔らかいが、その目はまっすぐだった。
「なんや。説教でもすんのか?」
「ちゃう。ただな……お前、自分で壁作っとるやろ」
「は?」
「人に嫌われてる思うて、最初から距離置いてるんや」
初兎は笑った。冷たい笑みだった。
「……ほんなら何や。僕は好かれるように努力せぇ言うんか?無理やで。僕はもう、嫌われ役でええ」
言いながら、彼の心はざらついていた。ほんとうは認められたい。ほんとうは一人で居たくない。
けれど、その願いは叶わないと信じてしまっていた。
夕暮れの校舎裏。
初兎は一人、ベンチに腰掛けていた。赤く染まった空を見上げる。
「僕は、なんで人間やねん」
口にした瞬間、自分で驚いた。
まるで、人間であることが「呪い」であるかのように。
そこに、影が差した。
「……人間であることが嫌か」
振り返れば、りうらが立っていた。花子としての顔ではなく、幼馴染としての「りうら」の顔だ。
「りうら……」
「お前、自分で思ってるほど嫌われてねぇよ」
「ははっ、また綺麗ごとか?」
「綺麗ごとじゃねぇ。お前のこと、本気で心配してるやつがここにいるだろ」
りうらの視線の先には、まろとないこ。二人は少し離れたところで、こちらを見守っていた。
初兎は唇を噛んだ。
「……僕は、嫌われるのに慣れてもうたんや」
「慣れたんじゃねぇ。諦めただけだ」
「……っ」
その言葉は鋭く、心の奥に突き刺さった。
夜、初兎は夢を見た。
夢の中で彼は、無数の人影に囲まれていた。皆が彼を指さし、罵倒する。
「お前なんて必要ない」
「消えてしまえ」
――僕は、嫌われる君。
そう言い聞かせながら、彼は耳を塞いだ。
だが、その中で一つだけ違う声があった。
「僕は、お前を嫌ってない」
振り返ると、まろが立っていた。
その背後にはないこ、そしてりうら。三人が彼のもとに駆け寄ってくる。
「……僕は……」
初兎は涙を零した。
翌朝。
彼は初めて、クラスで自分から口を開いた。
「おはよう」
ただそれだけの挨拶。
だが、それを聞いたクラスメイトたちは一瞬驚き、それからぎこちなく返した。
「……お、おはよ」
「……あ、ああ」
初兎はぎゅっと拳を握った。
――一歩や。小さいけど、それでも確かに前に進んだ一歩や。
放課後。
屋上にて、初兎はまろにぽつりと漏らした。
「なあ、まろ。僕は、いつかまた嫌われるんやろか」
「さあな。でもな、嫌われたらまた戻ってくればええやん。ここに」
「……戻ってきてええんか?」
「当たり前やろ。俺ら、仲間やんけ」
初兎は泣き笑いを浮かべた。
その顔は、昨日までの冷たい笑みとは違う、人間らしい温もりを帯びていた。
――それでも彼は、まだ「嫌われる君」のままだ。
だが、その肩を支える手がある限り、完全に孤独ではなかった。
そしてその日、初兎の運命が大きく動き出す。
まろに「死神にしてほしい」と頼む、その未来へと。
『ありがとう』
夜が深く沈み、星明かりさえ薄れる頃。
古びた神社の裏手、苔むした石段に二つの影が並んでいた。
「……ほんま、ここでええん?」
まろが低く問う。
白髪の少年――初兎(しょう)は小さく頷いた。
「うん。ここがええ。誰にも邪魔されへん場所やし」
初兎の声は、凍り付くように静かだった。彼の目は闇を見つめながらも、揺らがない。
まろはそんな幼馴染を見つめ、深く息を吐く。
「しょう。もう一回だけ聞くで。……ほんまにええんか?」
初兎は口元をほんの少しだけ笑みに歪めた。
「ええんよ。僕はもう、人間でおるんが……しんどいんや」
その言葉に、まろの胸がひりつく。
彼は知っていた。初兎がどれだけ孤独を抱えてきたかを。
幼いころから、初兎は周囲になじめなかった。
彼の存在は、なぜか人々の「嫌悪」を呼びやすかった。本人が悪いわけではない。ただ、彼がそこにいるだけで周囲の空気が重くなる。理由はわからない。けれども、笑いかけられるより、避けられることの方がずっと多かった。
「嫌われる君」――そんなあだ名までついた。
それでも、彼は必死に笑っていた。
「僕は大丈夫や」って。
「そんなん、気にせぇへん」って。
でも、それが嘘やってことを、まろだけは知っていた。
だからこそ、今夜の頼みがどれほど重いものか、まろにはわかっていた。
「死神になったら……もう戻られへん。お前が“人”として持っとる時間も思い出も、全部、形を変えてまう。ほんまに、それでええんか?」
まろの問いかけは必死だった。
しかし初兎は、まっすぐな瞳でまろを見つめる。
「まろ。僕は……人間としては、生き切られへんのや。せやけど――死神やったら、少なくとも……誰かを困らせることはなくなるやろ?」
その言葉に、まろの拳が震える。
「アホか。死神やったら困らすこともあるに決まっとるやろ!」
「せやろな。でも……“生きてるだけで嫌われる”よりは、マシや」
初兎の声は淡々としていた。
諦めきった響きに、まろは胸を掻き毟られる思いだった。
「ほんまに……お前は、ずっとそんなんばっかりやな」
まろは顔を伏せる。
初兎はそんな彼に、ふっと笑った。
「まろ。僕な、感謝しとるんや」
「は?」
「ずっとそばにおってくれて。僕がどんだけ嫌われても、笑って“アホやな”って言うてくれて。それだけで……僕は救われとったんや」
初兎の声が震えていた。
強がりばかりだった彼が、初めて弱さを見せていた。
「せやから――最後に頼む。僕を……死神にしてくれ」
まろは目を閉じ、唇を噛んだ。
涙が出そうになるのを必死にこらえながら、問い返す。
「……それが、お前の望みなんか?」
「うん」
「一番、大事な願いやって、言えるんか?」
「……うん」
まろは長い沈黙の末、ゆっくりと頷いた。
「わかった。お前の願い、叶えたる」
初兎の目がわずかに見開かれる。
「ほんまに……ええんか?」
「ええわけあるか、ボケ。……でもな、幼馴染の頼みや。無視なんかできるかい」
まろは立ち上がり、手を前に掲げた。
空気が揺れ、闇がざわめく。
彼の背後に、黒い影が蠢き出す。
死神としての力。
それは、生と死の境界を引き裂く禁忌の術だった。
「初兎。目ぇ閉じぇ」
「……あぁ」
初兎は素直に目を閉じる。
まろは彼の胸に手をかざし、呟いた。
「これから先、お前は“人”やなくなる。笑うことも泣くことも、昔みたいにはできへんかもしれん。それでも……後悔すんなよ」
「……せぇへん。僕は、もう決めたんや」
まろの掌から、冷たい黒光が広がる。
初兎の身体を覆い、深淵へと引きずり込むように絡みつく。
「……っ」
初兎は思わず息を呑んだ。
全身を凍える闇が駆け巡る。
人間としての温かさが、少しずつ失われていく。
だが、その瞬間。
彼の口元が、穏やかな笑みに変わった。
「……ありがとう」
それは、まろに向けた最後の言葉だった。
黒い光が弾け、静寂が戻る。
そこに立っていたのは、もはや人間ではなかった。
蒼白な肌に、冷たい気配を纏った存在。
初兎は――死神となった。
まろは拳を強く握りしめる。
胸の奥がずしりと重い。
「……アホ。なんで笑っとんねん。そんな顔で“ありがとう”言われても……嬉しいわけあるか」
けれども、初兎の穏やかな微笑みは、消えなかった。
彼が初めて心から安らいで見せた笑顔だった。
そして――
まろは知っていた。
この笑顔を守り続けることこそ、自分の新しい役目になるのだと。
「……わかったで、しょう。お前が選んだ道、最後まで見届けたる」
夜風が吹き、木々を揺らす。
死神となった初兎の影は、静かに月明かりの中に溶け込んでいった。
『孤独な歌』
夜の体育館は、いつだって薄暗い。
窓の隙間から月明かりが差し込んで、埃をまとったバスケットゴールの鉄枠がぼんやりと浮かんでいる。舞い上がった塵はきらきら光り、誰もいないはずの空間を不思議な輝きで満たしていた。
その静寂を破るように、かすかな歌声が響く。
――低く、切ない旋律。
そして、どこか諦めを含んだ声色。
「……♬」
歌うのは、一人の少年。
黒い髪を揺らしながら、ステージの中央に立ち、誰もいない客席に向かって歌っていた。
けれど、その姿は、よく見なければ掴めない。
彼は幽霊だった。
「……悠佑、か」
僕――初兎は、そっと扉を開いて体育館に足を踏み入れる。
夜の冷気と、歌声の震えが、肌を撫でてくる。
悠佑は僕に気づかず、目を閉じて歌い続けていた。
いや、気づいていたのかもしれない。けれど、止められない。止めたら、自分が存在する意味を失ってしまうから。
彼の歌は、まるで祈りだった。
届くことのない願いを、声に乗せて、虚空に投げている。
僕は足を止めて、その声に耳を傾けた。
――ああ、胸が苦しい。
言葉にできへんほど、寂しさと痛みが混ざった歌や。
歌い終わると、悠佑は静かに目を開いた。
その瞳が僕を捕らえた瞬間、彼はかすかに笑った。
「……聞いとったんか、初兎」
「ごめんな。盗み聞きするつもりはなかってん。ただ……気づいたら、立ち止まってもうて」
「ええよ。どうせ俺の歌なんて、誰にも届かへんし」
そう言いながらも、悠佑の声は震えていた。
強がりの奥に、どうしようもない孤独が隠されている。
僕は少し躊躇ってから、近づいた。
幽霊の彼に触れられへんのは分かってる。けど、それでも距離を詰めたかった。
「悠佑……なんで、歌っとるん?」
「なんでって……俺は、歌うことしかできへん幽霊やからな。ここで歌うんが、せめてもの生きとる証拠なんや」
「生きとる証拠、か……」
「笑えるやろ? もう死んどるのにな。せやけど俺、忘れられるのが一番怖いねん。歌ってへんかったら、ほんまに消えてまう気がして」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
僕も同じやから。死神になってから、何度も「忘れられる」ことの恐怖を見てきた。
悠佑の歌声は、誰かに届かんまま消えてしまう。
それが、どれだけ残酷なことか――彼自身が一番分かっとる。
「悠佑」
僕は思わず、声を張り上げた。
「俺は、忘れへん。絶対に」
悠佑は驚いたように目を見開いた。
けれど次の瞬間、寂しげに笑った。
「お前一人に覚えてもろても、意味あらへんやろ。人前で歌って、初めて歌は生きるんや。せやけど、俺は……」
そう言って、幽霊の身体を見下ろす。
その透き通った手は、もう現世に触れることができへん。
僕は拳を握った。
無力感に襲われながらも、何とかしてやりたいと思った。
――このまま悠佑が消えてしまうんは、嫌や。
その夜、僕は決意した。
彼の歌を、みんなに届ける方法を探すって。
次の日。
僕は、まろのところに駆け込んだ。
まろは死神や。僕を死神にした張本人でもある。
彼なら、幽霊を一時的にでも人間に戻す術を知っとるはずや。
「まろ! 頼みがあるんや!」
「……初兎。なんや、そんな血相変えて」
「悠佑を……あいつを、一時的に人間にしてほしい」
「人間に、やと?」
まろは目を細め、じっと僕を見つめてきた。
その視線に耐えながら、僕は必死に言葉を重ねた。
「悠佑は歌いたいんや。ほんまは、人前で。みんなに聞いてほしいんや。でも幽霊のままじゃ、それができひん」
「……お前、あいつにどこまで入れ込んどるんや」
「入れ込んどるとかちゃう。あいつの歌を聞いたら、放っとかれへん。孤独で震えとるあいつを、見てられへんのや」
しばし沈黙が流れる。
まろは腕を組み、何度もため息をついた。
「……方法が、ないわけやない。ただし、代償が大きい」
「代償?」
「幽霊を人間にするいうんは、魂に無理をかけることや。長くはもたん。下手すりゃ、完全に消滅する」
「……っ」
息を呑む。
けど、悠佑の「届かへん」という言葉が頭をよぎる。
「それでも……やらせてやりたい。あいつの歌を、この世に刻ませたい」
まろはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「お前、ほんまに人を巻き込むのが得意やな。分かった。俺がやったる。ただし――責任は、お前が取れ」
「……ああ」
こうして、僕らは準備を始めた。
数日後、夜の体育館。
悠佑は僕とまろの言葉を聞いて、しばらく絶句していた。
「……俺を、人間に?」
「一時的にな。でも、その間だけはお前の歌、みんなに届く」
悠佑の瞳が揺れた。
それは驚きと、恐怖と、そして抑えきれへん期待の色。
「ほんまに、ええんか……?」
「ええも悪いもない。お前が歌いたいんやったら、俺が背中押す。それだけや」
僕がそう告げると、悠佑は目を伏せ、唇を噛んだ。
そしてゆっくりとうなずいた。
「……やらせてくれ」
その声は震えていたが、確かな決意があった。
まろが呪を唱えると、悠佑の身体が淡く光りだす。
透明だった手が、徐々に色を取り戻していく。
心臓の鼓動が、彼自身にも聞こえたのだろう。驚いた顔で胸に手を当てた。
「……俺……生きとる?」
「一時的にな」
僕は笑って答える。
悠佑の瞳には涙がにじんでいた。
「初兎……ありがとう」
「礼は、歌で返してくれ」
悠佑は小さくうなずき、ステージへと歩き出した。
――孤独な歌が、今度は人に届く歌になる。
その瞬間を、僕は見逃さへんよう、しっかり目に焼き付けた。
『こんな俺でも』
体育館の照明に照らされる舞台の上。マイクを握る僕の掌は、震えていた。いや、僕じゃない。今ここに立っているのは「俺」だ。幽霊であるはずの俺が、死神の力を借りて一時的に人間の姿を得た。
――ほんまに大丈夫なんか?
さっきまで控室でまろに聞いた自分の声がまだ耳に残っている。まろは珍しく真剣な顔で「大丈夫や。お前の願いやったんやろ」と背中を押してくれた。
俺の願い。それはただひとつ、人前で歌いたいということや。死んでから何年も、体育館の隅でこっそり口ずさんで、誰にも届かん歌を重ねてきた。でも今日だけは違う。俺の声が、ちゃんと人に届く。
ステージの下、集まった観客のざわめきが耳に刺さる。心臓がまだ慣れてへんように、胸の奥で不規則に暴れている。息を吸うことも、足を踏み出すことも、全部がぎこちない。
「悠佑、楽しんでこい」
袖から初兎が関西弁で声をかけてくれた。いつもは冗談ばかり言うのに、今日ばかりは真剣や。その視線がまっすぐ俺にぶつかる。
「……おおきにな」
それだけ返して、俺はマイクを口元に近づけた。
イントロが流れる。ピアノの旋律が、体育館いっぱいに広がっていく。俺の喉が震え、声が溢れる。
――歌え。俺の存在を刻み込め。
最初の一節を吐き出した瞬間、俺は確かに「生きてる」と思えた。客席の空気が変わった。ざわめきが静まり、全員が俺の声に耳を傾けている。
声が届いてる。俺の歌が、人に向かって届いてる。
その実感が胸を熱くさせる。
けれど同時に、頭の片隅に冷たい感覚もあった。――これは幻や。まろの力で借りた身体や。時間が来れば消えてしまう。
「……」
それでも、今だけは考えんとこう。歌に全部をぶつけよう。
サビに差しかかると、自然と目が潤んできた。俺の歌詞は、ずっと抱えてきた孤独や後悔をそのまま込めたものや。死んでからの虚無感、生きてる頃に言えんかった言葉、全部が音になってあふれ出す。
観客の顔が揺れて見える。前の方で泣いてる子もおる。誰かの胸に、俺の声が刺さってる。それが嬉しくて、苦しくて、もうどうしようもなかった。
最後のフレーズを絞り出して、音が消えた瞬間――
体育館に大きな拍手が広がった。
「……ほんまに、聞こえたんか」
マイクを握ったまま、呆然とつぶやいた。観客は立ち上がり、口々に「すごい」「泣けた」と声を上げている。その全部が俺に向かっている。俺という存在を、確かに感じてくれている。
涙が止まらんかった。
ステージ袖に戻ると、初兎が満面の笑みで迎えてくれた。
「やったな、悠佑! めちゃくちゃ良かったで!」
「……ほんまか?」
「当たり前や! お前の声、ちゃんとみんなに届いとった。俺も鳥肌立ったわ」
その言葉に、また胸が熱くなる。
少し離れた場所で、まろが静かに頷いていた。あいつは多くを語らんが、その目が「よくやった」と伝えてくれる。
――もう思い残すことはない。
心のどこかでそう思った。
でも同時に、わずかな未練も芽生えていた。もし、この身体をずっと持てたら。もし、人間として歌い続けられたら。どんな未来が待っていたやろうか。
「悠佑」
名前を呼ばれて振り返ると、初兎が真剣な顔をしていた。
「なぁ、また歌いたいって思ったら、俺に言えよ。まろも協力してくれるはずや」
「……ええんか?」
「ええに決まっとる。お前の歌はな、人の心を動かすんや。そんなん簡単に埋もれさせるのはもったいないわ」
俺は思わず笑った。
「初兎、お前……ほんまにええ奴やな」
「今さらかいな」
二人で笑い合う。ほんの束の間の人間の時間が、あまりにも温かくて、消えるのが惜しくなった。
けれど、まろが静かに近づいてきた瞬間、その身体に違和感が走った。足元が揺れる。視界がぼやける。――時間や。
「もう戻るんか……」
声が震える。初兎が必死に手を伸ばしてくれる。
「悠佑!」
その手に触れたかった。けれど指先はすり抜けて、次の瞬間には俺の身体は透明になっていった。
再び幽霊の姿に戻った俺は、冷たい風をまとったように軽い。観客も、もう俺を見つけることはできない。けど、確かに聞いてくれた。俺の歌を覚えてくれる人は、この先きっとおる。
「……ありがとう」
呟いた声は、もう誰に届くわけでもない。でも初兎とまろだけは、その言葉をちゃんと聞き取ってくれたように頷いた。
俺は、もう幽霊や。けど――
こんな俺でも、歌うことはできるんや。
その証を胸に刻んで、再び体育館の闇に溶けていった。
――――――
『皆集合!』
その日、どういうわけか全員の予定が空いた。
りうら(花子さん)がぽつりと「みんなで集まらん?」と提案したのがきっかけだった。普段はそれぞれ違う場所にいて、死神だったり神様だったり幽霊だったりで、同じ時間を共有するのは難しい。けれど、不思議な偶然が重なって、全員が顔をそろえることになった。
廃校の旧校舎にて
場所は、りうらの“本拠地”ともいえる女子トイレではなく、旧校舎の広い教室。
埃っぽいけど窓を開ければ風が入ってきて、広々として遊ぶにはちょうどいい。
「なんか、修学旅行の自由時間みたいやな」
初兎(死神)は関西弁丸出しで笑いながら机に腰かけた。もとは人間だったからか、こういう雰囲気をいちばん楽しんでいる。
「修学旅行なんて懐かしい響きだね。僕は神様だから、そういう行事は経験できなかったけど」
ほとけ(神様)は穏やかに微笑む。神らしく落ち着いた雰囲気なのに、今日ばかりは少し浮き足立っているように見えた。
「俺は幽霊やし、修学旅行なんて行けるはずもないけどな。……けど、今日は歌わんでもええやろ?」
悠佑(幽霊で歌う男)は照れたように頭をかく。体育館でひとり歌っていた孤独な姿からは想像できないくらい、今は柔らかい表情をしていた。
「歌わんでもええけど、歌ったら盛り上がるんちゃう?」
初兎が茶化すと、悠佑は「お、おい!」と赤面する。
「お前ら、まずは何して遊ぶ?」
まろ(死神)が腕を組んでみんなを見渡す。
死神らしい鋭さは影を潜め、友人としての顔だけを出していた。
「俺は普通にトランプとかしたいけどな」
ないこ(人間)が提案する。唯一の“ただの人間”である彼は、こういう場面ではごく自然に遊びの発案をする役だった。
「ええやん! ババ抜きでもするか?」
「負けたやつ罰ゲームとかどうや?」
「賛成!」
トランプ大会開始
机を囲んでトランプを広げる。
花子さんであるりうらは、どこからか赤いリボンを出して「罰ゲームでこれつけさせよっか?」と楽しげに笑う。
「え、男子がリボンつけるん?」
「面白いやろ?」
「お前、性格悪ない?」
初兎が突っ込みを入れる。
ゲームが始まると、神様のほとけがなぜかやたらと運に恵まれず、次々とババを引いてしまう。
「なんで神様が一番不運なんだよ!」
ないこが爆笑しながらカードをめくると、ほとけは苦笑して肩をすくめた。
「人間の遊びでは神の加護は通用しないらしいね」
「わぁ、出た! ババ!」
りうらが無邪気に笑うたびに、教室は笑い声で満ちていった。
休憩タイム
「なぁ、腹減らん?」
まろが机に突っ伏して言った。
「お菓子持ってきたで」
初兎が袋をガサゴソ取り出す。ポテチやチョコ、ラムネ菓子までぎっしりだ。
「お前、遠足か」
悠佑が突っ込みつつも、嬉しそうにチョコをつまむ。
お菓子を囲んで食べながら、他愛もない話で盛り上がる。幽霊や死神や神様という肩書きも、この時ばかりはただの“友達”にしか見えなかった。
教室大運動会(?)
そのあとは何を思ったか、椅子取りゲームが始まった。
「これ、絶対椅子壊れるやろ!」
ないこの叫びも虚しく、死神二人と幽霊一人まで本気で走り回る。
「いっけー!」
「おりゃあ!」
机と椅子がガタガタ揺れて、りうらが「キャー!」と笑いながら避ける。
最後に残ったのは、なんと神様のほとけ。
「……これは奇跡なのかな?」
彼が少し照れたように言うと、みんな腹を抱えて笑った。
青春‥ほ‥うかい‥?
日が暮れてきて、窓の外がオレンジに染まる。
笑い疲れたみんなが床にごろごろ転がりながら、しんみりとした空気になる。
「なんかさ……青春やなぁ」
初兎がしみじみと言う。
「青春って、俺らにあるんかな」
悠佑がぼそっと呟く。幽霊である自分に、そんな時間はないはずだった。
「あるやろ。こうして笑っとるやん」
まろが真顔で返すと、全員が一瞬黙り込んだ。
その静けさを破ったのは、りうらの声だった。
「青春……ほ……うかい?」
「崩壊やなくて!」
ないこが即座に突っ込んで、また笑いが弾ける。
幽霊も、死神も、神様も、人間も。
それぞれ違う立場にいながら、ひととき同じ時間を分かち合った。
その空間には、確かに“青春”と呼べるものがあった。
『お別れ』
夜風は、ひんやりと優しく頬を撫でていった。
月は雲間から顔を覗かせ、星々がきらめいている。ここは、俺たちが何度も集まってきた校舎裏。騒がしい日も、静かな夜も、笑い合った時間も、全部この場所に刻まれていた。
――だが、今日は違う。
「……そろそろ、時間やな」
悠佑がぽつりと呟く。その声には、いつもの飄々とした調子がなく、どこか諦めと寂しさを含んでいた。
俺――ないこは、ぎゅっと拳を握りしめる。頭では分かっていた。いつか必ず、この時が来ると。けれど、いざ目の前にすると心臓が痛くてたまらなかった。
「なあ、本当に……帰っちゃうのかよ」
俺の声は、思っていたよりも震えていた。
りうらが赤い髪を揺らしながら、少し困ったように笑った。
「俺だって、本当はまだここにいたいよ。でも……呼ばれてんだ。俺の居場所は、向こうにある」
「呼ばれてる?」
まろが首を傾げる。氷のように透き通った目が、少し揺れている。
「うん。俺たちは、この世界じゃない別の場所に生きる存在なんだよ。だから……帰らなきゃ」
初兎が静かに答える。白い髪が夜に溶け込むようで、まるで消え入りそうだった。
「……うちも、まだまだみんなと笑ってたいんやけどな」
関西弁の柔らかい響きが胸を突く。初兎の言葉は、きっとみんなの気持ちそのものだった。
ほとけが深く息を吐き、目を細めた。
「僕たちは出会ってしまった。だからこそ一緒に過ごせたし、だからこそ……このままじゃいけないんだ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にずしりと重たいものが落ちてきた。分かってる。分かってるんだ。彼らは「ここにいてはいけない存在」なんだと。だけど――。
「……そんなの、嫌だ」
まろがぽつりと呟いた。震える声だった。普段は強気でツッコミばかりしてるまろが、今は子どものように小さな声で。
俺は彼の隣に立ち、思わず肩を掴んだ。
「まろ……」
「いやや。なんでや。なんでうちらばっかり残されるんや」
まろは泣き笑いのような顔で、りうらたちを見回した。
「りうらも、初兎も、ほとけも、悠佑も、いふも……みんな、うちらの仲間やったやろ。なんで、帰らなあかんねん」
誰もすぐには答えなかった。夜の静寂が重くのしかかる。
やがて、いふが口を開いた。
「……まろ。うちらは“異物”なんや。ここの世界に混じってもうたけど、長く居すぎたらあかん。せやけどな、まろとないこと過ごした日々は、本間に楽しかった」
いふの声は優しかった。別れを告げる声なのに、温もりに満ちていた。
りうらが、俺の肩を軽く叩いた。
「ないこ。お前と過ごした時間は、俺の宝物だ。お前がいたから、俺は笑えた。ありがとう」
その一言で、視界が滲んだ。俺は必死に歯を食いしばる。
「……そんな、勝手にありがとうなんて言うなよ。帰ってきてから言えよ!」
りうらは少しだけ泣き笑いの顔を見せ、それから小さく頷いた。
初兎も、俺の方を見た。
「ないこ。あんたのおかげで、うちは一人やなかった。おおきに。ほんま、ありがとう」
ほとけはまろの肩に手を置いた。
「君は僕の大切な友達だったよ。忘れない」
悠佑はいつもの調子で、にかっと笑う。
「まろ、ないこ。お前らは最高や。泣くなって。俺らは消えるんやなくて、帰るだけやから」
「でも……」
俺が言いかけた時、夜空が急に明るくなった。
光の粒が舞い降りて、りうらたちを包み込む。まるで星そのものが降りてきたように。
「時間や」
初兎の声は震えていた。彼女自身も怖いのだろう。
まろが叫んだ。
「行くなああああああ!」
その叫びは夜に響き渡った。けれど、光は容赦なく強くなり、彼らの姿を飲み込んでいく。
りうらが最後に俺へ手を伸ばした。
「ないこ――生きろ。お前はお前の居場所で、ちゃんと笑ってろ」
「りうらっ!」
思わず手を伸ばしたけれど、指先は空を切った。
初兎も、ほとけも、いふも、悠佑も――みんな光の中に溶けていった。
その瞬間、夜はまた静寂を取り戻した。まるで、最初から俺たち二人しかいなかったかのように。
……沈黙。
まろが、ぽろぽろと涙を零していた。普段は強気な彼の泣き顔に、俺は胸が締め付けられる。
「……ないこ。みんな、もうおらん」
「……ああ」
俺も気づけば涙が溢れていた。止めようがない。堪えても、声が震える。
「でも、忘れねえ。絶対に」
まろは小さく頷いた。
「うちら二人で……覚えとこうな」
その言葉に、俺は強く頷く。
「……ああ。ずっと、ずっと覚えてる」
夜風がまた頬を撫でた。優しいけれど、どこか切ない。
星空は変わらず輝いている。けれど、もう隣で笑う仲間たちはいない。
それでも――。
俺とまろは、肩を並べて空を見上げた。
涙で滲んでもいい。声が震えてもいい。俺たちは二人で生きていく。
みんなが残してくれた言葉と笑顔を胸に抱いて。
「……また、会えるよな」
まろがぽつりと呟く。
俺は強く、強く頷いた。
「絶対に。絶対に会える」
夜空に誓うように。
俺たち二人だけの「お別れ」は、静かに幕を閉じた。
『戻ってきた日常』
水族館を出た瞬間、夜風がひやりと頬を撫でた。
昼間の青い海と魚たちの幻想的な世界の余韻を残したまま、俺とまろは並んで歩いていた。
「ないこ、今日はなんや……妙にしっとりしとったなぁ。魚に感動でもしたんか?」
まろが肩を竦めながら笑う。その関西弁は、どこか空気を軽くしてくれる。
「……まあな。水族館って、なんか懐かしい気がしたんだよ。俺、小さい頃に誰かと行った記憶があってさ」
「へぇ。誰とや?」
「……それが、思い出せねぇんだ」
自分でも笑えるくらい、記憶の隙間が妙に引っかかっていた。鮮やかな青のトンネル水槽を歩いているとき、確かに誰かが隣で笑っていた気がした。けど、顔も名前も、ぼやけている。
「まあ、思い出したらええやん。今はうちと一緒に楽しんでるんやから」
まろはそう言って、俺の腕を軽く小突いた。
「……そうだな」
俺も笑い返す。ほんの少し胸がざわついていたけど、それを悟られないように。
花畑へ
まろが「次、行きたいとこあるんやろ?」と聞いてくる。
俺は小さく頷いた。
「ちょっと、行ってみたい場所がある。車で三十分くらいだと思う」
案内したのは、郊外にある花畑だった。観光地ってほどでもないが、地元じゃ有名なスポットらしい。夜は閉園しているはずなのに、なぜかゲートは開いていた。
「おい、ここ入ってええんか?」
「……わからん。でも、行きたいんだ」
自分でも不思議なくらいに強い衝動があった。吸い寄せられるように足を踏み入れると、満開の花々が夜風に揺れている。月光に照らされた花畑は、まるで別世界みたいに幻想的だった。
「うわぁ……めっちゃ綺麗やな」
まろが素直に感嘆の声を上げる。
俺は花の香りを吸い込みながら、妙な既視感に襲われていた。
ここを知っている。来たことがある。けれど、誰と――。
記憶の断片
足を進めるごとに、頭の奥で声が響いた。
――ないこ。
――一緒に、花見に行こうや。
遠い遠い記憶。小さな頃の俺の隣に、確かに「誰か」がいた。
白い花の中で笑っている、青髪の少年。
彼の笑顔は、忘れられるはずがなかったのに。
「いふ……?」
気づいた瞬間、声が漏れていた。
まろが振り返る。「いふ? 誰やそれ」
「……昔の友達だ。いや……ただの友達じゃなかった。俺にとって……特別な……」
頭の奥がズキズキと痛む。景色が揺れ、まるで時間が巻き戻るみたいに記憶が溢れてくる。
いふとの記憶
――花畑で、二人で寝転んで空を見上げた。
――「ないこ、お前は花が似合うなぁ」って笑ってくれた。
――俺が泣いたとき、花を一輪渡して「大丈夫や」って慰めてくれた。
忘れてたはずの温かさが、次々と戻ってくる。
でもその記憶は、途中で途切れていた。
最後の最後――いふは俺の前から消えた。死神になったから。
「……思い出した。全部。いふと過ごした日々を」
俺は膝をつき、花の中に手を伸ばす。震えが止まらなかった。
謎の能力「花」
その瞬間だった。
俺の手のひらから、淡い光が零れた。
土の上に落ちた光は、小さな蕾になり、瞬く間に色鮮やかな花を咲かせる。
しかも一輪だけじゃない。周囲の花々が一斉に開き、まるで俺の感情に呼応しているみたいに揺れた。
「な、なんやこれ……!?」
まろが目を見開く。
俺は呆然と咲き誇る花畑を見つめた。
心臓が早鐘を打ち、胸の奥から温かさが広がっていく。
「……俺が、やったのか?」
信じられなかった。だが確かに、俺の手から花が生まれた。
「ないこ……お前……」
まろが言葉を詰まらせて俺を見つめる。
けれど俺には答える余裕がなかった。胸の奥で渦巻く感情があまりに大きすぎて、ただ花の海に呑まれるしかなかった。
夜風に揺れる花々。
失った記憶と、新しく芽生えた力。
俺は震える声で呟いた。
「いふ……俺、やっと思い出した。あの日々を……忘れてなんかいなかったんだ」
その声は、咲き乱れる花々の中に吸い込まれていった。
『君の能力』
花畑の中心に立つ俺の手のひらから、淡い光が溢れ出した。
咲き乱れる花々は、風に揺れてささやくように光を反射していた。
「……ないこ、お前……まさかこれが……」
まろが呟く。いや、正確には、まろであり、いふであり、死神である彼の目は大きく見開かれていた。
「俺……分からない。突然、手から花が……」
俺の声は震えていた。心臓が早鐘のように打ち、頭の奥で何かが囁く。まるで、忘れていた記憶と新しい力が混ざり合って暴れ回っているようだった。
まろは、いつもの関西弁の口調を一瞬忘れ、静かに俺を見つめた。
「お前、これ……ただの花やないで。お前の想いが形になっとるんや。……いや、もっと……」
その言葉で、俺の胸に何かが刺さる。
花の力の意味
花はただ咲くだけではなかった。俺の感情に反応し、光を帯び、触れたものを包むように温かく揺れる。手を伸ばせば、柔らかい光が指先から滴り落ち、地面の花が一斉に揺れ、空気を変える。
「……俺が、力を持ったのか?」
まろが首をかしげる。死神である彼は、これまで人の命を見極め、刈り取る仕事をしてきた。けれど、この力はまったく別のもの――生命を作り、癒し、守る力に近い。
「お前……これを使えるようになれば、人間の命も……いや、花に触れるものの命を守ることだってできるかもしれん」
まろの声は低く、重い。彼自身の死神としての使命と、俺の未知の能力が重なって、複雑な響きを帯びていた。
「……守る? 俺は、ただ花を咲かせたいだけなんだと思ってた。でも……確かに、あの日のことを思い出したら……俺が守りたい人がいたんだ」
そう呟いた瞬間、花畑の空気がわずかに震えた。光の粒が手からこぼれ、夜風に乗ってふわりと舞い上がる。
まろは無言で近づいてきた。彼の視線が真剣で、いつもより何倍も重く感じる。
まろの能力
「なあ、ないこ。俺の能力、覚えとるか?」
まろが問いかける。死神としての彼の力――それは、命を見極め、必要であれば刈り取ること。誰も抗えない、絶対的な死の力。
「……うん、覚えてる」
俺は小さく頷く。今までまろの死神としての役目を理解することは、怖くてできなかった。けれど、花畑に立ち、彼の目を見つめていると、受け入れざるを得ない気がした。
「俺の力は、命を決める力や。簡単に言うと、命を刈る力やけど……でも、俺はお前のそばにおる間、使うつもりはない。お前の花の力……それと一緒に、守りたいと思うようになったんや」
まろの言葉は、俺の胸に深く染み渡った。死神でありながら、俺の未知の力に恐れず、共に歩もうとしている。
ないこの覚醒
「まろ……俺、やっと分かったかもしれない」
俺は手のひらを広げ、花の光を空に向ける。
「この花は、俺の気持ちを形にする力……そして、守る力」
指先から光が溢れるたびに、花が一斉に咲き、夜風に揺れ、輝きを増す。まろの目がさらに見開かれる。
「……まさか、こんな力を……」
彼は小さく息を漏らす。だが、俺には理解できた。この力はただの奇跡ではない。俺自身の命と、まろとの繋がりが呼び覚ましたものだ。
「俺……いふと過ごした日々を思い出したとき、力が目覚めたのかもしれない。だから、今……」
花は強く、鮮やかに光を放つ。手を伸ばすだけで、花畑全体が光に包まれる。
まろは、俺の手を握った。冷たいはずの指先が、なぜか温かい。
互いの力の重なり
「ないこ……俺も、お前のそばにおるからな」
まろの声はいつもより優しく、重みがあった。死神としての冷たさはなく、ただ友として、いや、特別な存在としての温かさがある。
「俺……うん。俺も……まろと一緒にいたい」
その瞬間、花畑の光はさらに強く、二人の間に放射状に広がった。
手のひらからこぼれ落ちる花びらは、まろの存在をも包み込む。まるで、命と命が光で繋がっているかのようだった。
「これが……俺の力……そして、まろと一緒に歩む力……」
胸の奥に確かな熱が湧き、今まで感じたことのない安心感が広がった。
月光に照らされる花畑の中、俺たちはしばらく無言で立っていた。
風に揺れる花々。咲き誇る光。静かな夜。
まだ、この力の全てを理解したわけじゃない。
だけど、確かなことが一つある――
俺の力は、まろと一緒にある限り、誰かを守るために使える。
そして、俺たちはもう、ただの死神と人間じゃない。
――二人で、未来を紡ぐ力を持った存在だ。
夜風に光が揺れ、花びらが舞う。
俺は手を広げ、光を受け止めながら、心の奥でそっとつぶやく。
「これが、俺の……力」
花畑はしばらく静かに輝き続け、二人の夜は、まるで新しい日常の始まりのように温かく包まれていた。
『ライバル』
花畑からの帰り道、夜の街灯が二人の影を長く伸ばしていた。
まろと歩きながら、俺は手のひらに残る淡い光の余韻を感じていた。
花畑で見つけた力――まだ不完全だけれど、確かに自分のものだった。
まろが隣で、黙って俺の手を握ってくれている。安心感と温もりに、思わず息を吐く。
「……ないこ、お前、あの力……本当に使えるようになったらどうなるんやろな」
まろが小さく笑う。いつも通りの関西弁だが、少し慎重な響きが混ざっている。
「守る力って言うても……強すぎたら、困る奴も出るやろな」
俺は首をかしげた。
「困る奴?」
「……つまり、敵や」
まろは少しだけ眉をひそめる。その表情は、普段の軽口とは全く違った。
「お前の力を狙う奴……おるんや。お前の花の力は、普通の人間や神様にとっても特別すぎる」
その言葉に、俺の胸がざわついた。
――花の力を狙う、って……一体誰なんだ。
まろの警告
歩きながら、まろは少しずつ話し始める。
「俺にも、昔から敵がおる。奴らは死神の仕事を邪魔しようとする存在で……正直、厄介や。お前の能力も、あいつらに目をつけられたら、危ない」
「敵……死神の?」
俺の声は低くなる。花畑で見つけた力は、守るためのものだ。なのに、狙われるってどういうことなんだ。
まろは答えず、夜道をじっと見つめた。
「近いうちに、動きがあるかもしれん……気をつけろ、ないこ」
その警告には、ただの脅しではない緊張感があった。
俺はわずかに身を震わせながらも、決して怖がってはいけないと思った。
――俺の力は、まろと一緒にあるんだから。
街の中の気配
その夜、帰宅途中の商店街。ネオンの光がまぶしく、普段は賑やかな通りも、深夜になると静まり返る。
俺たちは手をつなぎ、歩いていたが、背後に妙な気配を感じた。
「……あれ?」
まろが立ち止まる。俺もつられて止まる。
人影。距離はあるが、こっちを伺うように立っている。
黒いコートに身を包み、フードを深くかぶった人物。
――明らかに、普通の人間じゃない。
「……誰だ、あれ」
俺は声をひそめる。足が少し硬直する。
まろが無言で眉をひそめ、少し前に出る。
「……お前も、お前の力を狙ってる奴やろな」
その声には確信が混ざっていた。
視線を交わす。相手もまた、こちらを意識している。
戦うつもりか、それとも……探りを入れているのか。
花畑で感じた温かさが、今は薄く震えている気がした。
謎の存在
相手は動かないまま、じっと俺たちを見つめていた。
まろが小さく息を吐く。
「……やっぱり、あいつや」
俺は問いかける。
「誰、あいつ……?」
まろは少しだけ間を置き、そして口を開く。
「昔から、俺の敵や。死神の仕事を邪魔する連中の一人……。お前の能力に目をつけるのは、当然と言えば当然や」
「でも……戦うのか?」
俺の心臓が速くなる。夜の冷気が、背中を這うように寒い。
「まだ……今は様子見や。直接手を出す前に、相手の力量や情報を探っとる」
まろの声は落ち着いているが、瞳の奥には緊張が光る。
――やっぱり、ただの敵じゃない。
俺は手のひらに力を集中させる。淡く光る花の粒が、指先からこぼれ落ちる。
「……俺、まだ全然わかんない。でも、絶対守る」
まろは小さく頷いた。
「うん、そうや。お前の力は、まだ使い方が分からんかもしれんけど……俺がおる。絶対に、守る」
不穏な予感
影はじっと俺たちを見つめたまま、やがて背を向けてゆっくり去っていった。
だが、後ろ姿から漂う威圧感は、簡単に消えるものではなかった。
「……向こう、絶対に戻ってくるな」
まろが小声で呟く。
俺はうなずき、手を握り返す。
「……うん。覚悟しなきゃな」
背後に残った気配は、静かだが確実に俺たちの存在を追っている。
これが、俺とまろが歩む新しい日常の影の一部なのだと、俺は理解した。
――まだ戦いにはならない。
けれど、奴は確かに、俺の力に目をつけている。
まろの敵であり、俺たちにとっての未知の脅威。
花畑で目覚めた力も、守るべき存在も、まだ誰にも知られてはいけない。
だけど……
俺は、手のひらに光る花を見つめながら、静かに決意する。
「……来るなら来い。俺の力は、俺が守る」
まろはその横で、微笑みながら頷いた。
「そうや。それでええ。俺も、お前と一緒に戦う」
夜風が二人の間を通り抜け、光の粒が花のように散った。
――新しい日常と、忍び寄る影。
それは、まだ戦いではない。けれど、確実に二人の世界に迫っていた
『衝突』
夜の街は静まり返っていた。月明かりが冷たく照らす中、俺とまろは廃工場の前に立っていた。
――奴が現れる、という情報をまろが掴んだのだ。
「ここや……奴が来るのは」
まろが低くつぶやく。いつもなら冗談を言う関西弁も、今は殺気を帯びていた。
俺は手のひらに淡く光る花を集める。まだ能力は未熟だが、何かあった時に使えるように準備していた。
「……ないこ、離れんといてや」
まろが手を握る。握り返す俺の手も、少しだけ震えていた。
敵の出現
金属の扉が軋む音と共に、黒い影が現れる。フードを深くかぶった人物、先日の街灯で見た奴だ。
「……久しぶりやな、死神」
冷たい声。まろの耳に届く。
「お前……」
まろがぎゅっと拳を握る。
俺の背中が熱くなる。奴は、まろの敵。俺の力を狙う連中の一人。けれど、目の前で戦うまろを、ただ見ているわけにはいかない。
「ないこ、下がっとけ」
まろの言葉は真剣だった。
「……いや、俺もいる」
俺は反射的に答える。手のひらに花の光を集める。
敵は冷笑する。
「花を使う人間か……面白い。死神と人間、どちらが先に潰れるか楽しみやな」
戦闘開始
いきなり、金属片が飛ぶ。まろは身をかわしながら、短刀を抜く。死神としての動きは俊敏で正確だ。
「くっ……!」
まろが叫ぶ。奴も同じくらい速い。廃工場の中で二人の影が交錯する。
俺は距離を取りながら、手の光をぎゅっと握る。花が小さく揺れ、指先で光が弾ける。
――まだ攻撃はできない。まろが安全か、見守るしかない。
「……まろ、大丈夫か?」
俺の声は震えていた。
「うるさい! 下がっとけ!」
まろは叫び、敵に向かって斬りかかる。しかし、敵も巧妙にかわす。
金属の衝突音が工場内に響き渡る。火花が散り、光と影が交錯する。
俺は焦る。手の花が小さく光るが、まだ制御できていない。
まろの負傷
敵が突然の高速移動でまろに近づく。
短刀の一閃。
「っ……!」
まろが肩に深く切り傷を負い、うめき声をあげる。
「まろ!?」
俺は一歩前に出る。花の光が指先で暴れ出す。熱と怒りが混ざった感情が、俺の体中を駆け巡った。
まろは立ち上がろうとするが、血を滴らせ、肩を押さえている。敵は微笑みながら、冷たい瞳で俺を見る。
「これが、お前の守る力……試すには十分やな」
その瞬間、俺の胸の奥で何かが爆発した。
――怒り、恐怖、守りたい気持ち。すべてが力に変わる。
ないこの覚醒
手のひらから花の光が飛び散り、周囲の空気がざわつく。
指先に集中した光が、花弁となって周囲に舞う。
――怒りが、力を覚醒させる。
「……もう、やめろ!」
叫ぶ声と同時に、光は渦を巻く。花の香りが一気に空間に広がり、月光が反射して白い光の粒になった。
まろが驚きの声を上げる。
「ないこ……その力、まさか……!」
俺は震えながらも一歩前に出る。目の前の敵を睨みつけ、心の奥で決める。
――まろを、守る。絶対に。
「宵闇彼岸花……!」
声に出した瞬間、花の光が一斉に膨らみ、渦を巻きながら前方に飛び出す。
工場内の影と光が混ざり、夜風に舞う花弁が幻想的な光景を作る。
敵はその光に包まれ、動きが止まる。
俺の体の奥で、未知の力がさらに目覚める感覚。手の花が力強く震えている。
――この瞬間、俺は自分が何者かを知った気がした。
守る力、覚醒した力。まろとの絆を糧にした力。
その先の戦いは、まだ誰にも分からない。
でも、俺は確かに感じた。
――これが、俺の力の始まりだ、と。
花弁の光が渦を巻き、宵闇に浮かぶ彼岸花のように輝く。
そして、俺は拳を握りしめ、深呼吸する。
「……宵闇彼岸花――!」
『開花』
工場の中、花びらの光が宵闇を切り裂くように舞っていた。
「宵闇彼岸花――!」
叫んだ瞬間、手のひらから渦巻く花の光が前方へ突き出し、廃工場の金属や影を飲み込む。
敵は一瞬、身を守るために動きを止めた。だが、光は止まらない。
花びらが渦のように敵を取り囲み、光と香りが視界を埋め尽くす。
「……まろ!」
俺は振り返る。負傷したまろが、腕を押さえながらも戦闘態勢を崩していない。
「下がっとけ! ないこ、俺が見てる!」
まろの声は震えていない。血に染まった肩からも、死神としての威圧が消えない。
俺はうなずき、光に集中する。胸の奥から湧き上がる怒りと恐怖、そして守りたい気持ち。すべてを力に変える。
光の渦
宵闇彼岸花は、ただの光ではなかった。俺の感情が花となり、渦となり、敵の体を包み込む。
「うわ……!」
敵の体が光に飲み込まれ、動きが鈍る。逃げ場はない。
まろが短刀を振るう。血の色と夜の闇の中で、二人の連携は息ぴったりだった。
「これで終わりや!」
まろの一閃と、俺の光が合わさり、敵の影が工場の壁に散った。
――勝った。
息を切らせながらも、俺は安堵した。守りたい人を守れた瞬間だった。
代償の兆し
だが、光の渦が消えた瞬間、体に異変が起きた。
全身の力が抜け、足元がふらつく。
「……え?」
頭が重く、視界がぐらつく。手の花の光も、急速に弱まっていく。
まろが飛び寄る。
「ないこ!」
俺の肩を支える手は温かく、必死だった。
「まろ……俺……」
声がうまく出ない。体の奥で、力が流れ出すような感覚があった。
――能力の代償。胸の奥で、警告のように震える何か。
「花の力……強すぎたんや……」
まろの目が鋭く光る。死神としての勘が、すぐに異常を察知したのだ。
「うん……」
返事はかすれ、震えるだけだった。体の重さが、意識を押し潰そうとする。
覚醒の真実
倒れそうになる俺を、まろが抱き上げる。
「俺が守る……お前の力を、全部受け止める」
その言葉に、俺は少しだけ安心する。胸の奥で、花の光がまだ微かに震え、まろの温もりに触れるたびに安定していく。
敵を倒した達成感と引き換えに、体は完全に力を失っていた。
廃工場の床に沈むように横たわり、花の光はゆっくり消えていく。
「ないこ……お前、本当に強いな」
まろは小さく微笑むが、血で染まった肩の痛みが顔をしかめさせる。
「でも……無理するな。俺がそばにおる」
涙が頬を伝う。悔しさや恐怖、そして守り切れた安堵感が混ざり合う。
「……守る……まろ……」
口に出すのもやっとだ。花の光が消え、静寂だけが残った工場に、二人の呼吸だけが響く。
力の代償
目を閉じると、体が火照るように熱く、冷たさも感じる。
呼吸は浅く、意識はふわふわと漂っていく。
――これが、力の代償か。
手のひらを見つめると、わずかに光の残滓が残っていた。花は静かに揺れ、力を使い果たした証として儚く光を落としている。
まろはそっと肩に手を置き、俺を支えながら言った。
「花の力……これだけ強いとは思わんかった。お前の体に負担がかかるのも当然やな」
「……でも、守れた……まろ……」
俺は微かにうなずく。守りたいものを守れた満足感が、弱った体に小さな力を与える。
まろはそのまま俺を抱えて廃工場を出る。夜風が冷たく、体に触れるたび、意識が少しずつ戻ってくる。
新たな決意
外に出ると、月明かりが静かに二人を照らしていた。
「……ないこ、ゆっくり休め。力を使いすぎたら、体が持たん」
まろの声は優しく、少し笑みが浮かんでいる。
「……うん。でも……」
俺は微かに光る手を見つめる。まだ、花の力は俺の中で揺れている。
「これ……俺の力……開花したんだ」
自分の心の奥で、確信のようなものが生まれる。守りたい人を守れる力。覚醒した力。
でも、同時に代償も大きい。力を使えば体は限界を迎える。
だからこそ、まろと一緒に歩む必要がある。二人で力を支え合えば、守れる未来も広がる。
「……まろ、ありがとう」
弱々しく口にすると、まろは微笑み、そっと手を握り返す。
「俺もや……ないこ。お前と一緒なら、俺も負けへん」
夜空に浮かぶ月は、静かに二人を見守るように輝いていた。
――新しい力、新しい絆、そして代償と共に生まれた覚醒。
俺は深く息を吐き、目を閉じる。
体は疲れても、心は強くなる。守るべきものを知った力は、これからも俺を導くのだ。
――宵闇彼岸花が開花した夜。俺はまだ完全には起き上がれないが、確かな覚悟を胸に抱いていた。
『記憶喪失』
――静寂。
そこには、先ほどまでの戦いの残滓がまだ色濃く残っていた。焼け焦げた地面、折れた枝、散った花弁。けれどその中心で倒れているのは、誰よりも大切な存在だった。
「ないこっ!」
駆け寄った俺――まろの声は、思わず裏返るほどに焦っていた。つい先ほど、彼の能力が開花し、敵を一瞬で葬り去ったのをこの目で見た。あの“宵闇彼岸花”。夜空に浮かぶ深紅の花が爆ぜるように咲き乱れ、敵を飲み込み――その代償に、ないこ自身の体力と、何か大切なものを削ぎ落としてしまった。
「おい、しっかりせぇ……!」
抱き上げたないこの顔は蒼白で、まるで魂が半分抜けてしまったように虚ろだった。胸の奥が締めつけられる。俺は唇を噛みながら必死に呼びかける。
しばらくして、微かに瞼が震え、ないこの視線がこちらに向いた。
「……まろ?」
「おう、俺や! 心配させやがって……! 大丈夫か!?」
だが次の瞬間、俺の言葉は虚しく宙に溶けた。
「……まろ、って……誰?」
胸の奥で何かが崩れる音がした。
◆
ないこの記憶は――能力の代償によって、まるごと消えてしまっていた。
目を覚ました彼は俺のことを覚えていないばかりか、自分がここまで歩んできた日々すらも思い出せない。
「俺ら、幼馴染やろ? 一緒に学校も行って……くだらんことで喧嘩もして。お前が花好きやからって、俺、寒いのにわざわざ花畑までつきあったん覚えてへんのか?」
「……ごめん。ほんまに……何もわからん」
ないこは苦しそうに眉を寄せ、視線を伏せた。責められていると思ったんやろ。俺は慌てて言葉を変える。
「……ええねん。お前が生きてるだけで、十分や」
強がって笑ってみせたけど、胸の奥はどうしようもなく痛んだ。
記憶を失ったないこは、俺を前にしても“知らん人”としか思えんのや。
◆
その夜。
治療のために安静にしているないこの傍らで、俺はひとり考え込んでいた。
(……どうすれば、記憶を取り戻せるんやろな)
花。
あの時、ないこの能力が開花したきっかけもまた、花にまつわる想いだった。
ふと思い出す。かつて二人で訪れた花畑。あの場所でなら――ないこは、何かを思い出してくれるかもしれへん。
「……よし」
俺は決意した。
◆
翌日。
俺はないこを支えながら、あの花畑へと向かった。
「ここ……どこなん?」
「お前と俺の、大事な場所や」
そう言いながら歩く道のりは、やけに長く感じた。ないこの肩を貸すと、ふと心臓の鼓動まで伝わってくる。記憶を失っても、この距離感だけは変わらない気がした。
やがて――視界がぱっと開け、花畑が広がった。
一面に咲き乱れる色とりどりの花。風が吹けば、波のように揺れる。
「……すごい……」
ないこの瞳が、驚きとほんの少しの懐かしさで揺れた。
「ここや。お前が一番好きやった場所」
俺はそっと言葉を紡ぐ。
「何度も来たやろ? 花が枯れた季節でも、無理に笑って『また咲くから』って言うてた。……お前は、そういう奴やった」
ないこは黙って花を見つめていた。その横顔に、風が髪を揺らしていく。
そして、ふと。
「……俺……ここ、知ってる気がする」
ないこの声が、かすかに震えていた。
「胸の奥が……痛い。あったかいけど、切なくて……」
「思い出せ。ないこ。お前はここで、いっぱい笑って、いっぱい泣いて……俺と、一緒に生きてきたんや」
必死に呼びかける。声が掠れる。涙が滲む。
ないこはぎゅっと目を閉じ、両手で胸を押さえた。
「……ああ、なんでだろ……。きれ……」
その言葉が途切れた瞬間、彼の瞳からひとすじの涙がこぼれ落ちた。
『思い出』
花畑の風が、静かに俺たちの頬を撫でる。
咲き誇る花々の間を、ないこの瞳はじっと見つめ、胸を押さえながら立ち尽くしていた。
「……きれ……」
震える声が、微かに空気に溶ける。
俺はそっとないこの肩に手を置く。力は入れず、ただ存在を伝えるだけ。
「……そうや、きれいなんや……」
花畑を見渡す。陽の光に照らされた花の色彩が、まるで小さな奇跡のように揺れていた。
その瞬間、ないこの目が大きく見開かれた。瞳の奥で何かがはじけ、胸の奥でかすかな痛みが走る。
「……あれ……なんやろ……胸が、ぎゅうっと……」
俺はゆっくり、優しく声をかける。
「そうや……思い出してええんやで、ないこ。ここはお前と俺が何度も笑って、泣いた場所や」
風に揺れる花びらが、まるで囁くように舞い落ちる。
その花びらに触れるたび、ないこの記憶の糸が少しずつほどけていくようだった。
記憶の回帰
花の香り、風の音、そして太陽の温かさ――
忘れていた感覚が、ないこの胸の奥で呼び覚まされる。
「……ああ……思い出した……」
ないこの声が震える。涙が頬を伝い、自然と頬を濡らしていく。
幼いころ、あの花畑で笑った記憶。
雨の降る日に傘も持たず駆け回ったこと。
俺に花を摘んで見せてくれた日々。
放課後に寄り道して、くだらんことで喧嘩して、でもすぐに仲直りして笑った時間。
――すべてが、一瞬で、鮮やかに戻ってきた。
「まろ……!」
ないこは振り返り、俺を見つめる。目には涙がいっぱいで、胸の奥が押し潰されそうな熱さがある。
「お前……覚えとったんや……?」
俺は声を震わせる。抱きしめたい衝動が体中から湧き上がる。
「うん……あの時の俺も、花も、全部……思い出せた……」
ないこの腕が震える。俺の手を握り、力強く握り返す。
花と能力の記憶
そして、胸の奥で花の力が微かに光を帯びる。
――あの時、俺が開花させた「宵闇彼岸花」の記憶も、感覚も戻ってくる。
「……あの夜……俺、守ろうとして……力を使ったんや」
ないこの声がかすかに震える。
あの時の怒り、恐怖、そして守りたいという想い。すべてが蘇る。
「そうや、全部覚えてるんやな」
俺は優しくうなずく。
「まろ……ありがとう……守ってくれて……」
ないこは小さく頭を下げ、涙をぬぐう。俺はその手を握り返し、微笑んだ。
過去の思い出との再会
花畑の中、二人は静かに立っていた。
風が吹くたび、花の香りが体中に広がる。
思い出の一つ一つが、ないこの胸を温める。
「覚えてる……あの時、花を摘んでくれたの……」
ないこの瞳が光る。
「雨の日に、俺が濡れてたら、まろが傘を持ってきて……笑ったんや……」
俺も思わず笑った。
「そんな小さなこと、覚えとったんやな」
「全部……覚えてる……! まろと俺……俺たち、ずっと一緒やったんや……」
その声は、確かに胸に響いた。
ないこは涙をぬぐい、空を見上げる。花の香りと風が、彼の記憶を完全に取り戻す手助けをしていた。
再会の確信
その瞬間、ないこの顔に笑顔が戻る。
震える声で俺を呼び、そして駆け寄る。
「まろ! 本当に、ありがとう……覚えてたんやな、俺……全部……」
俺はないこの頭をそっと撫で、安心した。
「俺もや、ないこ……お前が戻ってくれて、本当に良かった」
抱きしめた時、胸の奥で何かがしっかりと結ばれる感覚があった。
――花畑の風、光、香り、そして二人の絆。
すべてが、再びつながった瞬間だった。
ないこの能力も、花と共に思い出とリンクし、彼の中で完全に開花する。
「宵闇彼岸花」の力も、彼自身の意思と感情に従い、制御可能なものとして戻ってきたのだ。
終章への序章
夕陽が花畑を染める頃、二人は並んで立っていた。
過去の記憶を取り戻したないこは、もう迷わない。胸に刻まれた思い出が、彼の心を強くする。
「まろ……これからも、よろしくな」
ないこの声は確かで、力強く、温かい。
「おう、ずっとや」
俺も答える。手を握り返すと、二人の間に新しい光が生まれる。
――記憶を取り戻したその夜、二人の絆は以前よりも確かなものになった。
花畑に吹く風が、未来を優しく予告しているかのように揺れる。
もう、過去に失ったものを恐れる必要はない。
これから先、どんな困難が待っていようとも、二人で立ち向かう覚悟がある。
ないこは深く息を吐き、再び花を見つめる。
「花って……やっぱり、いいな……」
俺は微笑む。
――すべてを思い出した夜、花畑に光る花々のように、二人の心も輝いていた。
『いつもの日常』
朝の光が窓から差し込む。
カーテンをくぐって淡く照らす光の中、俺は布団から伸びをした。となりには、いつもの顔――ないこが眠っていた。
「……お、まだ寝とるんか、ないこ」
まろ、俺の寝ぼけた声に気づくと小さく笑う。だがその笑顔もどこかいつも通り、死神らしい落ち着きが混ざっている。
俺は布団から起き上がり、窓の外を眺める。まだ朝露の残る庭に、光がきらきらと反射している。
「今日も、いい天気だな」
つい小さく呟く。そんな何気ない言葉に、まろは寝ぼけ眼で俺を見つめる。
「せやな、ないこ。今日は何すんねん?」
普通の一日。特に予定はない。学校も休みだし、やることも特になかった。
でも、こうして隣にまろがいるだけで、何か特別な時間になる。
朝の支度
俺はシャワーを浴び、制服に着替える。
まろはいつも通り、適当に服を着て、髪を手ぐしで整えていた。
「もう、そんなに急いでどこ行くんや」
と俺が言うと、まろはふふっと笑う。
「いや、ないこがおらんと退屈やからや。ちょっと散歩でも行こ思うてな」
散歩――特別な意味はない。ただ歩くだけ。
でも、俺とまろにとっては十分な楽しみだった。
外に出ると、風が心地よく、朝の匂いが鼻をくすぐる。
鳥のさえずりが聞こえ、遠くで猫が小さな声で鳴いていた。
朝の散歩
二人で近くの公園へ向かう。歩きながら、まろは冗談を交えて話しかける。
「なあ、ないこ。昨日の晩、夢に出てきたんやけど、変な格好した幽霊が追いかけてきよったわ」
「またそんな夢見て……お前、ホンマに死神やからって怖がらんでええんやで」
俺は軽く笑いながら言う。まろは片手を振り、照れ隠しのように頭をかく。
そんな何気ない会話が、朝の公園を少し特別な場所にしていた。
ベンチに座ると、まろは空を見上げながら呟く。
「いやあ、平和やなあ」
俺もそれにうなずく。平和。戦いも能力の開花もない。まるで、普通の人間の毎日そのものだった。
昼食の買い出し
そのまま二人で近くのスーパーへ向かう。
まろは関西弁で店員に挨拶し、俺は標準語で必要な物をカゴに入れる。
「せやけど、ないこ、やっぱり買い物上手やな」
まろの言葉に、俺は少し照れた。
「え、そんなん普通やろ」
「いやいや、普通やからええんや」
まろはにやにや笑う。
昼食は簡単に済ませることにして、二人で弁当やおにぎりを選ぶ。
カゴに入れるものの一つひとつが、平和な日常の象徴のように感じられる。
午後のひととき
昼食を終えた俺たちは、帰り道に小さな川沿いを歩く。水面に映る太陽の光がキラキラと揺れる。
「なあ、まろ。こんなに平和な時間って、久しぶりやな」
まろは首を傾げ、笑う。
「せやな。戦いや事件がないってのも、ええもんやな」
二人で川沿いのベンチに座り、ぼんやりと水の流れを見つめる。
特別なことは何もない。ただ、互いの存在を感じながら時間が過ぎていく。
まろはふと、俺の肩を軽く叩く。
「ないこ、こういう日も大事にせなあかんな」
「うん、そうだな」
俺は頷きながら、心がほっと温かくなるのを感じた。
夕方の帰宅
日が傾き始め、夕暮れのオレンジ色の光が街を染める。
帰り道、まろは少し元気を取り戻したようで、俺に話しかける。
「明日も、何もない日やったら、一緒に散歩行こか?」
俺は笑う。
「もちろん、行こう」
家に戻ると、夕食の準備をして、まろは冗談を交えて手伝う。
俺はそんな彼を見ながら、平和な日常のありがたさを噛み締める。
夜のくつろぎ
夕食を済ませた後、二人はリビングでテレビを見ながら横になる。
まろは膝を抱え、俺はその隣で背中を預ける。
「今日は、ほんまに何もなかったな」
「それが、ええやん。平和ってのは、こういう時間のことや」
まろの言葉に、俺は深く頷く。
時計の針が静かに進み、夜が深まっていく。
能力も事件も戦いもない、ただ普通の、何でもない一日。
それでも、この日常がどれほど大切か、二人は互いの存在を通して感じていた。
夜の静寂の中、二人の呼吸が揃う。
まろは軽く笑い、俺もそれに応える。
――こうして、俺たちはまた、普通の一日を生きている。
何も特別なことはない。
それが、どれほど尊いかを、二人は静かに噛み締めていた。
『最高の思い出をくれた君へ』
夜の空は、不思議なほど澄んでいた。
月が真上に昇り、星々が冷たい輝きを落としている。
俺とまろは、二人であの花畑に来ていた。最初に記憶を取り戻したあの場所であり、笑い合った日々を思い返せる唯一の場所だった。
――だけど、今夜で終わる。
俺は覚悟していた。いや、覚悟しようとしていた。
けれど、隣にいるまろの横顔を見てしまうと、胸が張り裂けそうになる。
「……本当に、来ちまったんだな」
声が震える。死ぬのが怖いんじゃない。
まろと離れるのが、怖いんだ。
まろは静かに笑った。
「ないこ。もう言うたやろ。俺は死神や。最初っから、お前の命を刈るために出会ったんやって」
「そんなこと……分かってたけどさ。お前と過ごした時間が、あまりにも普通で、楽しくて……だから忘れたかったんだよ」
「忘れても、時間は止まらん。せやけど……」
まろは少し間を置き、俺の目を見つめる。
「……最高の思い出、くれてありがとうな」
胸に突き刺さる言葉だった。泣きたくなるほど温かくて、苦しくて。
俺は笑うしかなかった。涙でぐしゃぐしゃになりながら。
まろが鎌を構える。死神の象徴。
光を反射して淡く輝くその刃が、俺の命を終わらせる。
「怖ないか?」と聞かれ、俺は小さく首を振った。
「お前と一緒なら……怖くない」
その答えに、まろの目が潤んだ。
彼は死神として、泣いてはいけないのに。
それでも涙を流していた。
「……じゃあ、行くで」
まろの声が震え、刃が静かに振り下ろされた。
痛みはなかった。
ただ、温かさと静けさに包まれるように、意識が遠のいていく。
最後に見たのは、泣きながら笑っていたまろの顔だった。
……目を開けると、俺は花畑の中に立っていた。
けれど、体は透けている。もう人間じゃない。
まろがそこにいた。彼もまた、血のように赤い花に囲まれて立っている。
「まろ……?」
「ないこ……」
まろは静かに近づいてきた。その顔には決意が宿っていた。
「俺は死神や。ほんまなら、命を刈ったらそれで終いや。お前は向こうに行って、俺はまた別の命を刈る。それが役目や」
「……でも?」
「でもな。俺は、もうお前なしではおれへん」
まろの手が俺の手を取る。冷たいはずなのに、不思議と温かかった。
「ないこ。俺もお前と一緒に行く。死神やめる。お前と心中や」
俺は息を呑む。
「……そんなの、いいのかよ。お前……死神、やめたら……」
「ええねん。俺が望んだ日常は、お前と一緒に笑って生きることやった。けど、それはもう叶わん。せやったら、最後まで一緒におる」
その言葉に、俺の心は決壊した。
涙が溢れ、止まらなかった。
「……ありがとう。まろ。お前がいたから、俺、生きてて楽しかった」
「俺もや。ないこ。お前がいたから、死神やってても……人間に戻れた気がした」
二人は花畑の真ん中で、抱き合った。
空から光が降り注ぎ、花々が一斉に揺れる。
まろが小さく囁く。
「じゃあ、一緒に行こか」
「うん……」
強く抱き合ったまま、二人の体は白い光に包まれていった。
現世と死神の世界を越えて、どこか遠くへ――。
花の香りと、まろの笑顔。
それが俺の最後の記憶だった。
こうして、死神と人間は共に終わりを迎えた。
悲しみの中にも確かにあった。
二人で過ごした時間、笑い合った日常、そして心の奥に刻まれた思い出。
――それは、間違いなく「最高の思い出」だった。
永遠に続かなくてもいい。
一瞬でも、心から大切に思えた時間があった。
だからこそ、俺は胸を張って言える。
「最高の思い出をくれた君へ――ありがとう」