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フランベルクの朝は冷たい風と共に始まる。
暖炉の熱がまだ部屋全体を暖めきれない中、俺は窓辺に立って外を眺めていた。
レイが早朝から執務室にこもり、部下たちと何かを話し込んでいる間、俺には手持ち無沙汰な時間が残されている。
領南から戻って数日が経っていた。
結局、俺は自室に戻って過ごすことになっていた。どうも帰ってきてからおかしい。
……一緒に居ろと言ったのに、な。まあ、今の俺は『居るだけ』で役に立っていたわけじゃないから、この方がいいのかもしれないけど。
「カイル様、朝食の準備が整いました」
使用人の一人が声をかけてきた。少し振り返りながら、俺は軽く頷いた。
「ありがとう、すぐ行くよ」
廊下を歩きながら、ふと考え事をしてしまう。俺がこの地に来てから、いろいろなことがあったけど、最近はどうも落ち着かない。特に、アランが現れてからというもの、レイの態度がどこかぎこちない気がする。
エヴァンス家──俺の母親が生まれ育った名門の家であり、アランもその一族だ。
幼い頃、母からよく聞かされたのは、エヴァンス家がいかに格式高く、誇りある家柄だったかという話だ。
『カイル、私の家系は王国の礎を支えた家の一つなのよ。あなたもその誇りを忘れないで』
母の言葉は、幼い俺には少し抽象的すぎて、どう受け取ればいいのか分からなかった。ただ、エヴァンス家が大きな影響力を持つ一族であることだけは理解していた。
でも、母は領地を出て、エルステッド家の当主である父と共に王都で暮らす道を選んだ。
エヴァンス家から遠く離れた場所での暮らしは、母にとって大きな決断だったのだろう。でも、それを後悔しているようには見えなかった。
記憶の中に浮かぶのは、王都の社交界での一幕だ。
エヴァンス家の名が高らかに語られる中、母は控えめに微笑むだけだった。周囲の貴族たちから投げかけられる羨望と疑問の視線。
彼女はそのすべてを背負ってなお、堂々としていた。
『母様、どうしていつもそんなに静かでいられるの?』
幼い俺の問いに、母は俺の髪を撫でながら静かに答えた。
『ねえ、カイル。人の目にどう映るかより、自分がどう生きたいかが大事なの。私はあなたのお父様が大好き。そしてこの選択を後悔していない。それだけで十分よ』
その微笑みが、心に深く刻まれている。エヴァンス家の威光を捨ててエルステッド家に嫁いだ母。彼女の誇りと覚悟を、俺はまだ完全に理解していないのかもしれない。
とはいえ、父の生家であるエルステッド家もエヴァンス家に及ばないにしろ、古く歴史のある家ではある。
王都の近くに領地を持っている家で、騎士を輩出するエヴァンス家とは対照的に文官を輩出する家だ。
接点が少なかったであろう二人。
そんな二人がどうやって結ばれたのか、詳しい話を聞いたことはないけど、母の微笑みを見るたびに、後悔はしていないのだと思った。
そんな俺が王都を出て、フランベルクに来ることになったのは、運命だったのかもしれない。
ここでレイに出会い、共に生きると決めたこと。それは、俺が母から受け継いだ誇りと無関係ではない気がする。
朝食の席に着くと、レイがすでに待っていた。いつものように背筋を伸ばし、食事に手をつけていない。
「……レイ?どうしたの?」
尋ねると、レイは俺を一瞥して、静かにナイフとフォークを取った。
「何でもない。早く食べろ、冷めるぞ」
そう言われても、彼の表情にはどこか沈んだ影が見える。俺は席に着き、出されたパンをちぎりながら、ためらいがちに話題を切り出した。
「なあ、レイ。アランって、エヴァンス家にどれくらい関わってるんだ?」
レイの手が一瞬止まった。その動きが、俺の質問の重さを物語っているようだった。
「アランは叔父の財産や地位を引き継いだ。だが、奴がその権利を正当に得たかどうか、疑う余地はある。ほかの兄弟の話が全く出てこなかったからな」
その言葉には鋭い棘が含まれていた。レイがアランに対して抱く警戒心の強さを、改めて感じさせられる。
「俺の母さん、エヴァンス家の出身だって言っただろ?それが、何か関係してたりするのか?」
俺の問いに、レイは少しだけ目を細めた。
「お前の実家が王都の貴族であることは知っている。だが、お前の家族がエヴァンス家に干渉しているという話は聞いたことがない」
まあ、そうだよな……母はこの家から出た時点で全ての権利を返上しているはずだ。財産についても嫁ぐ際に持って出たものがすべてだろう。そもそも、俺の生家は恐ろしいほどに財産や地位に興味がない学者肌な人間ばかりなのだ。父を含めて。逆にそういうところが王家にとっては使い勝手が良い処なのだと思っている。
「そうか。まあ、ただ気になっただけ」
俺は話を打ち切ったが、胸の中に小さな疑念が残った。エヴァンス家と俺の母。けれどアランは俺に近寄ってくる。それはレイの伴侶だということも大きいだろうけれど……。
レイはその後、やはり執務室に籠ってしまった。
少し前まではその中に俺もいたはずなのだが……その場所がどこか遠く感じる。
※
朝食の後、俺はリリウムと一緒に庭へ出た。
風が冷たいが、頭がさえて逆に心地よく感じる。リリウムの毛がふわふわと揺れる。その様子に少しだけ和む。
「……エヴァンス家か」
母の話を思い返しながら、俺は足元の小道をゆっくりと歩いた。エヴァンス家がどれほどの名家で、どれだけ王国に影響力を持っているのかは、話でしか知らない。でも、それが俺にとってどれだけ重要かなんて考えたこともなかった。
俺、よくもまあ呑気に嫁いできたよ……正直、レイが好きで嫁いできただけだもんな……。
「カイル君、こんなところにいたのか」
自身に少しの呆れを感じているところ、背後からアランの声がした。
振り向くと、いつもの笑みを浮かべた彼が近づいてくる。
「……何か用か?」
俺は少し警戒しながら問いかけた。
アランの言葉や態度にはいつもどこか裏がある気がして、どうにも信用できない。
「用があると言えば、ある。ないと言えば、ない」
アランが軽く肩をすくめる。彼のこういう曖昧な言い回しは、どうにも慣れない。
「君の母上を調べてみたんだ」
その言葉に、胸の奥がざわつく。
「……俺の母のことを?」
「そうさ。エヴァンス家を出た彼女が、今どんな人生を送っているのか。だが、彼女の話を掘り下げていくうちに、君自身にも興味が湧いてね」
「興味……って、どういう意味だ?」
アランは微笑みながら一歩近づいてきた。その瞳には、何か底知れない感情が揺らめいている。
「君が、エヴァンス家から見て、どんな存在なのか……。君の家族が何を考えているのか、気にならないかい?」
その言葉に、俺は答えられなかった。アランが言いたいことは分からない。けれど、その曖昧な物言いが、俺の心に小さな不安の種を植え付ける。
「別に……」
そう言うと、アランはふっと笑った。
「君の母上を調べることが、君のためにもなるかもしれない。そう思っただけさ」
その言葉には、妙な含みがあった。俺が何か言い返そうとした時、アランが急に顔を近づけてきた。
「レイは、君の家のことをどれだけ知っているんだろうね?」
俺はアランの顔を押しのけるように一歩後退した。
「レイには関係ない。俺の家のことも、家族のことも、お前に言われる筋合いはない」
アランの微笑みはそのままだけど、瞳の奥に潜む何かが、俺を不安にさせる。
「そうかい。それならいいんだ。でも、もし君の家に何か問題が起これば、レイも無関係ではいられないだろう?」
その言葉に、俺は言葉を詰まらせた。
「……何が言いたい?」
「別に。ただ、少し気をつけた方がいいという話だよ、カイル君」
アランは何事もなかったかのように笑みを浮かべると、振り返って去っていった。その後ろ姿を見送りながら、俺は拳をぎゅっと握りしめた。
「……何が目的なんだ、あいつ」
エヴァンス家の話を蒸し返して、俺やレイを揺さぶろうとしているのか?それとも、何かもっと別の意図があるのか……。
考え込む俺のそばで、リリウムが小さく鳴いた。その声が、少しだけ俺の気持ちを落ち着かせてくれる。
屈んで抱き上げると、リリウムは顔を擦り寄せてきた。その無邪気さに、思わず笑いが漏れた。
「ありがとう、リリウム。でも……俺、どうしたらいいんだろうな」
リリウムが小さく鳴いて、さらに俺の手に顔を押しつける。
小さなぬくもりが、冷えた心を少しだけ温めてくれる。
アランの言葉の意味を探りつつ、俺は重い気持ちで庭をあとにした。