テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
井野匠
44
白山権現社近くの下宿先から、職場である養生所に入ったのは明六つ(午前六時)だった。
目白不動尊に吊るされた時の鐘が明け六つを知らせている。
今は大火の影響で、被災者を受け入れる白山権現社も、治療を受け持つ養生所も、どちらも朝が早くなっていた。
都から江戸に下って二ヶ月が経ち、江戸での暮らしにも慣れてきたが、都と江戸では時の流れ方が全く違う。
都では、季節の移ろいを愛でながら時がゆっくりと流れていたが、江戸では、目まぐるしく時だけが過ぎて行くので、季節の移ろいを愛でるどころか、仕事をこなすだけで精一杯の日々だ。
もう春だというのに、花見はおろか何の歳時にも参加できていない。
この忙しさは大火の影響ばかりではなく、文化の違いも大きいのだろう。
文化の違いと言えば、食事が全く口に合わないのだ。
都では、素材の味を大切にするので出汁を取った薄味が基本になるが、江戸では汗をかく職人が多いせいか、醤油や味噌を大量に投入するので、素材の味どころか塩の味しかしない。
それだけでも気が滅入るのに、毎朝出てくるあの腐った豆には心が折れそうになる。
「この豆は腐って糸を引いていますよ」と文句を言っても、江戸の人は笑うばかりで誰も取り合ってくれない。
あの豆の匂いを嗅ぐだけで食欲が失せてしまうのだ。
「江戸で腐った豆を食わされるくらいなら、意地を張って都を出るんじゃなかったな…」と思わず本音が漏れてしまう。
そんな思いを巡らせている内に養生所に到着した。
表門を潜って直接、自分の部屋に向かおうとすると、門番所から中間が出て来て、「おはようございます」と挨拶を投げ掛けてくる。
いつもは、朝五つ(午前八時)に出仕するので、当番の与力や同心が居て表門は混み合っているが、今は誰も居ないので、中間が何か言いたげにしているのに気が付いた。
私が、「何かご用ですか?」と水を向けると、「先生に会いたいという女童がいるのです」と言うので、門番所に目を向けると扉の前に一人の少女がたたずんでいる。
妹の小雨よりずいぶんと幼い気がする。
八歳くらいだろうか…
私は、上背が有るので少女を怖がらせないように、しゃがみ込んでから声を掛けた。
「名は、何というのだい?」
私に、すがるような視線を向けてきた少女が、「なつといいます」と言ってから頭を下げる。
「おなつ、私にどんな用があるのだい?」
私がこう聞くと、おなつが急に涙を浮かべながら、堰を切ったように地の言葉で喋り始めた。
「おっかさんが狐に取り憑かれちまって、お腹に赤子がいるてのに、毎日、訳の分からないことを口走って、ふらふらと家を出て行っちまうんです。
おとっさんは大工だから家を空けることが多くて、長女のお前が見張ってろって言うけど、まだ小さい弟や妹の子守りもあって、ちょっと目を離すと、すぐに居なくなっちまう。
だから、白川先生におっかさんの狐を祓ってもらいたいんです。
お足なら持ってますよ。ほら」
そう言って、広げた紅葉みたいな小さな手のひらには、何と一分金貨が二枚も乗っていた。
普段使いの銭貨ならともかく、町家の娘が金貨を持っていること自体が異常なのだ。
私は、開いた手のひらをそっと握らせて、「これは取っておきなさい」と言ってから、「ここは無料の養生所だから銭は受け取れないのだ」と、こちらの事情を優しく説明する。
続けて、「それに、私は病を治す鍼医者なのだ。お祓いなら神社に頼みなさい」と言うと、首を大きく左右に振ったおなつがこう言ったのだ。
「焼け落ちる前の神田明神で聞きました。
今度、養生所に来る鍼の先生は、本当は都の凄い霊能者なんだって…
古くから天子様を悪い霊からお護りしていて、依頼が有れば神社が祓えない強い悪霊も祓ってくれる。
お前のおっかさんに取り憑いているお狐様なんて、瞬きをする間に祓ってくれるよって…」
おなつの後ろに控えていた中間が、驚いた表情で私を見詰めている。
江戸に来て早々、妙な噂を広められるのはまずいと思った私は、おなつに、「詳しい話は私の部屋で聞こう」と言ってから、中間には「では」と笑顔を向けた。
コメント
2件
