「先ほど狭間から、山形県、庄内地方の海岸でピエロのマスクをつけた水死体が上がって、かき集めたメンバーで向かうと連絡があったが。お前は行かなくていいのか」
「私は事件から外されたので。……知ってますよね」
「ああ。では自宅待機を命じられてるお前が、何しに来た」
ゆっくりとした動作で、テーブルを挟んだ向かい側に座る彼は、昨日まで隣にいた彼とは別人のように見える。
「退院されたと聞いて驚きました。刺された傷はもういいんですか」
「ヘラヘラ話している時間はない。本題に入れ」
琴子とて、無駄話をしている余裕はない。
だが、怖い。言葉にすることが。
推理をこの男に突きつけることが。
言ってしまったら全てが終わる。
琴子が言おうが言わまいが、事実は何一つ変わらないのに。
「…櫻井秀人を殺した犯人がわかりました」
やっと絞り出した言葉に驚くことなく、壱道は自分のコーヒーを一口啜った。
「……いや、聞こう。話してみろ」
なぜ冒頭に「いや」が付いたのかわからなかったが、琴子は短く息を吸い込むと、意を決して口を開く。
「前に私、二つの謎がどうしてもわからないと言いましたよね」
壱道は腹の上で手を組み、体をのけ反らせて座った。
「まずは人付き合いの薄い櫻井が、部屋まで招き入れた人物は誰か。
家にいれざるを得ない人物として思い付くのは、マンションの管理人、水道やガス、家電などの住宅設備メーカーなどですが、そもそも管理人はエントランスの鍵を持っているため、無駄にエントランスの自動ドアの開閉をさせる必要がないし、時刻は六時半以降ですので、設備屋が来るのも不自然です」
「そうだな」
「夜に突然訪ねてきて、否応なしにドアを開けさせることができるのは」
これを言えば、いよいよもう後戻りはできない。迷いを振り切るように声を張った。
「警察の人間です」
壱道がゆっくりまばたきをする。
「そう考えれば、なぜ櫻井は抵抗せずに犯人の言うことに従ったのかという第二の謎も解けてきます。櫻井の自宅に上がり込んだ犯人は」ジャケットのポケットから銃を取り出す。
「言う通りにしろ」
琴子はすぐにそれを投げ出した。
「玩具とはいえ、銃口を人に向けるのは気分が悪いですね。でもこんなおもちゃが100円ショップにでも売っている時代です。リアルなものを探せば、本物ではなくても信じさせるのには十分かと」
「安易だな」
彼が低いため息をつく。
「そんな子供騙しに櫻井が引っ掛かったとは思えないが」
「もちろん、いくら警察の格好をしていようが、拳銃を出そうが、それが本物かはわかりません。ただし櫻井が“警察の人間”と認識している人物なら、話は別です」
紙袋を取り出す。
「病院にあった壱道さんの荷物です。拝借しました」
視線が和菓子屋の紙袋に落ちるのを確認してから、ゆっくり中からオレンジ色のファイルを抜き取る。
「これ、どうして持っているんですか」
西塔の保管ファイルの一つだ。背表紙を見せる。「履歴書 ナ行」と書いてある。
ページをめくりながら続ける。
「以前、壱道さんは、私と同じ金池中学校出身だと言ってました。でもここに記載されている出身校は、松が岬東中学校。ここって、櫻井が3年間通っていた中学校ですよね」
壱道は眉一本動かさずに話を聞いている。
「櫻井も壱道さんも平成元年生まれで同学年。面識がないはずはない。なぜそれを金池中だったと嘘までついて隠していたんですか」
問いには答えず、壱道はダイニングテーブルの下で組んでいた足をだるそうに組み換えた。
「話は変わりますが、あなたは三年前、急に人が変わったように、それまでの公私の態度を改めたそうですね」
今度はダイニングテーブルに頬杖をついて聞いている。
「三年前というと、私たちが入署した年です。あの頃は爆弾魔 百目鬼麟太郎が世間を騒がせ、大きなデパートに警備でつきましたよね。新人も刑事課も関係なく、松が岬デパートの入り口に、連日立たされて辛かったのでよく覚えています。
松が岬デパートといえば、滝沢隼斗の話によると、彼らが咲楽の作品を見に行ったのも、三年前のあのデパートでしたね」
窓を打つ雨が激しさを増す。
「偶然か故意かはわかりませんが、あなた方はそこで再会を果たしたんじゃありませんか?
もちろん私には二人の関係はわかりません。ただの同級生だったかもしれないし、親友だったかもしれないし、それ以上の何かがあったのかもしれない。
これは勝手な想像ですが、櫻井を庇おうとして本間を殴ったという男子生徒。それってもしかして、壱道さんだったんじゃないですか?」
「飛躍した想像だな」
「そうですよね。なんの根拠もありません。ただ、二人に面識があり、警察として警備しているあなたに、櫻井が会った可能性があるということが重要なのです」
壱道の表情からは感情が読みとれない。
だが名探偵に推理されるのを冷や冷やしながら聞く犯人の顔ではなく、後輩の成長を喜ぶ先輩の顔でもなく、まるでつまらなかった映画のエンドロールでも眺めているような表情だ。
「思えば随所におかしいところはありました。中学校で取り調べを私にさせたのも、本間があなたを覚えているという可能性を加味したためですよね。だからあなたは、失礼な態度をとった私を置いて行かなかったし、取り調べの経験のない私に本間と対峙させた」
違うと言ってほしい。
バカかお前はと、全てを否定してほしいのに、壱道は黙ってコーヒーをまた啜った。
「一番変だと思ったのはピエロです。あなたの命を二度も襲い、二度ともほぼ無傷で取り逃がした間抜けなピエロ。なんで殺さなかったのか。特に病室では十分殺す時間はあったはずです」
「さも俺が生きていて残念そうな口ぶりだな」
「あれ、林ですよね。ビッグウェーブの」
二つの大きな目がこちらを睨んだ。
「知ってますか?あの男、ココナッツの香りのコロンをつけているんですよ。病院ですれ違ったときはっきりわかりました。ピエロは林です。尚且つあなたとグルです」
こちらを睨んだ目は瞬きさえしない。
「林を起用する理由は、三つあった。
一つはいずれはすべての罪をなすりつけ、姿または存在を消してもらうため。
もう一つは彼に自分を襲わせることで、容疑者から外れるため。
三つ目は他の刑事をその追跡に集中させる、人払いのため」
壱道は再び視線をテーブルに落とし、コーヒーを啜った。
「杉本鞠江はどこにいますか」
壱道は動かない。
「彼女本人から銀行に休むと連絡があったのは今朝7時。その後、おそらくは林の手によって殺された。病院にピエロが現れたのは7時40分。移動や準備時間も含めて、死体を隠す時間はない。だけどあなたも林も下手に動いたら、町中を駆けずり回っているだろう刑事たちに見つかりかねない。だから」
落ちていた視線が、琴子に戻る。
「待ってたんですよね、死体が上がったという嘘の報告で、課長たちが庄内に向かうのを。何か重要なことを、あなたにとって都合の悪いことを知ってる、杉本鞠江を始末するために」
琴子は沈黙している彼を見つめた。
雷が近くに落ちる。地底深くを走る電流の音に腹の奥がざわめく。
「総じて言うと」
無表情を貫く壱道が、やっと口を開いた。
「俺が櫻井秀人を殺した犯人だと言いたいんだな」
「………はい」
「よくもまあ・・・」
バカなことを。と否定してほしい。罵倒して、笑い飛ばして、どこか別のところにある真実を提示してほしい。
「限られた情報の中で、物証もなくほぼ想像だけで、そこまでたどり着いたもんだ」
………たどり着いた?
「木下。お前は優秀な刑事だ」
言いながら壱道は視線を落とし、ダイニングテーブルの下で、何やらカチャカチャといじり出した。
「そんなお前に、俺は俺なりに本気で指導したつもりだ」
そうだ。いつもリサーチ力の正確さや細かさ、
取り調べの際のほんの一言の違和感を聞き逃さない隙のなさ、
一瞬の判断に迷いのない冷静さ、
狂いのない動きの俊敏さ。
すべて学ぶことばかりだった。
壱道は琴子に全力で見せてくれた。もし犯人であればそこまでする必要は……。
「だが肝心なことは教えていなかったな」
カチッ。
明らかに聞き覚えのある金属音が、琴子の心を絶望の穴に叩き落とす。
「俺が刑事課に配属された際、守るべき心得を教えられた」
立ち上がりながらそれをこちらに向ける。
「一つ。刑事たるもの、如何なるときも常に最悪の事態を想定しろ」
松が岬署で採用している、奇しくもSAKURAと名付けられたリボルバー式拳銃が銃口をこちらに向けている。
「容疑者と思しき人物と対峙するのに丸腰で来るなよ」
その笑った顔は今まで見たどんな顔よりも冷たく乾いていた。
コメント
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ええ?今までで1番びっくりする内容です。