テラーノベル
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湯船に身を沈めると、じわり、と熱が足先からせり上がってくる。
肩まで浸かって大きく息を吐き出すと、さっきまで浴室に響いていた沙耶の声が、少し遠くなったように感じた。
――明後日。
脳裏に浮かぶのは、あの日と同じ「始まり」の光景だ。
世界がまだ何も知らず、一切の備えもなく、ただ平和ボケしていたあの夏。
最初に出現するダンジョンは、今思えば随分と「優しかった」。
出現するモンスターはどれも弱めで、まるでスキルに慣れていない者でも、工夫さえすれば倒せるように設計されていたかのようだった。
序盤のモンスター――スライム、ゴブリン、オーク、コボルト。
そして、ゾンビとグール。
どれもゲームや空想の中では雑魚扱いされがちな面々だ。
だが、実際に戦ってみると、その認識がいかに甘いか、骨身に染みて分かる。
スライムは典型的なゲル状モンスターだが、「核」が存在しない。
ファンタジー作品のテンプレのように、中心のコアを破壊してはい終わり――という訳にはいかないのだ。
倒すには、再生できる限界までひたすら細かく刻むか、魔法や炎などで焼き切るしかない。
剣士にとって非常に相性が悪い相手で、初期の私はこいつに何度も手を焼いた記憶がある。
ゴブリンは人間の子供ほどの大きさだが、知能が低いというわけではない。
むしろ「どうやって外敵を殺すか」という一点だけに特化した、いやらしいほど狡猾な連中だ。
罠を張り、数で囲み、逃げ道を塞いでから石を投げ、足を削り、最後に集団で襲いかかる。
舐めてかかった新人ハンターが、何人も命を落としていた。
「――って、聞いてる? お姉ちゃん」
「聞いてるよ、沙耶が胸を大きくしたいってことでしょ?」
「全然違うよ……風呂で考えに耽るなんてやっぱり男が……?」
ごにょごにょ文句を言いながら、沙耶が猫のように頬をすり寄せてくる。
構えと言わんばかりに顔を胸元に押し付けてきたので、そのまま抱き寄せてホールドした。
あたふたともがいている気配を、あえて無視して思考をダンジョンに戻す。
オークは、豚のような頭に、相撲取りを二回りほど大きくしたような、がっしりとした体躯。
腕力は単純にして脅威で、真正面からぶつかれば、未熟なハンターの骨など簡単に砕ける。
種族としてメスが存在しない、というのも厄介だ。
その代わり、生殖能力が異様に高く、他種族のメスであれば子を成すことができる――らしい。
稀に異常個体として、他種族のオスを好む個体も居るとか居ないとか。
実際に遭遇したことはないが、酒場でそういった笑えない武勇伝を聞いたことがある。
コボルトは、二足歩行する狼のようなモンスターだ。
犬よりも鋭い嗅覚を持ち、群れで獲物を追い詰める。
群れの先頭に立つ、指揮官のような個体が居るのも特徴だ。
そして、ゾンビとグール。
こいつらは厳密に言うと「ダンジョンから生まれたモンスター」ではない。
ゾンビは、ダンジョンで命を落としたハンターの亡骸が、内部に満ちる魔力に汚染され、動き出した存在だ。
人間だったころの本能の残滓に従い、三大欲求のひとつ――食欲のままに、生きている何かを喰らう。
喰らった対象が同族、つまり人間だった場合にのみ、ゾンビはグールへと変質する。
グールはより獰猛で、より賢く、人間をより好んで狙うようになる。
装備が整っていない序盤は、スライムとゴブリンだけに相手を絞るのが得策だろう。
たとえ特殊個体――通常より何かに特化した個体が現れたとしても、この二種ならば、剣を装備した私であれば問題なく対処できる。
今の私にとって何より問題なのは、モンスターそのものではなく――
この「新しい肉体」が、どこまで動けるか。
そして、武器の耐久力だ。
どこまで動けるかは、明日、買い物から帰ってきた後にでも試してみよう。
武器については、当面は市販品でやりくりするしかない。
ダンジョン内に出現する宝箱の中からは、稀に武器や防具が見つかる。
それらは総じて耐久度が高く、壊れにくい。
ダンジョンに適応した「本物の装備」といったところだ。
それに対し、市販のナイフや包丁などは、ゴブリンを数匹切り裂いただけで刃こぼれし、すぐに使い物にならなくなってしまう。
だから序盤は、鉄パイプや金属バットのような鈍器が主流となる。
斬るのではなく、叩き潰す。
そうなると、肉が厚く打撃が通りにくいオークは、必然的に狙いから外れる。
コボルトは、仕留め損ねると仲間を呼び、あっという間に数が増える。
確実に仕留めきれる武器と技量を手に入れるまでは、戦わない方が賢明だ。
ゾンビとグールは、そもそも「ダンジョンで人が死んだ後」にしか現れない。
少なくとも、出現直後のダンジョンには居ないはずだ。論外としていい。
――よし。一通り思い出した。
そろそろ風呂から上がろうか、と意識を現実に引き戻したとき、腕の中から伝わってくる違和感に気付いた。
正面を見ると――力なく浴槽にぷかぷかと浮かぶ沙耶の姿。
「あ、ごめん、のぼせた?」
「――お姉ちゃんのばかっ……のぼせてはないけど……」
右腕で顔を隠し、小さな声でそう言う。
手足には力が入っておらず、呼吸も浅い。
これはどう見ても、のぼせているのでは……? と思ったが、本人が全力で否定しているので、ギリギリセーフ判定なのだろう。
さっきまでしっかりホールドしていたせいで、自力で出るタイミングを逃したのかもしれない。
ううむ、と唸ってから、私はそのまま沙耶の体に腕を回した。
「だっ、だいじょうぶだから! もうちょっと浸かってから自分で上がるから!」
「……本当?」
「本当だよ! もう、心配性だなぁ……お姉ちゃんは……」
顔は湯気と熱で真っ赤だが、受け答え自体はしっかりしている。
確かに、いつも私は先に風呂から上がり、その後に沙耶が長湯をしている記憶がある。そういう意味では、これもいつも通りなのかもしれない。
「ほっ、ほら、お風呂から上る前にスキンケアとか色々やることあるから……」
そう言って、浴室の脇に置いてあるカゴを指さす。
中身は、化粧水や乳液、パックなど、肌の手入れに使う一式だ。
記憶によれば、私は風呂から上がってからケアをする派。
沙耶は湯船に浸かりながら、のんびりスキンケアまで済ませる派らしい。
「そうならいいんだけど……私は先に上がってるからね?」
「うん、色々と終わったら上がるからさっ」
軽く背中を押されるようにして、私は浴室のドアへと向かった。
スキンケア中は、たとえ家族であっても見られたくない――その気持ちは何となく分かる。
渋々ながら浴室を後にし、洗面所で歯を磨いてからリビングへ戻る。
バスタオルで髪を軽く拭き、ドライヤーで乾かしながら、最低限のスキンケアだけを手早く済ませる。
その後、沙耶が持ってきた寝間着に袖を通し、全身鏡の前に立った。
「……クマだな」
そこに映っていたのは、茶色のもこもこ素材に全身を包まれた、自分でも見慣れない姿だった。
耳付きフード付き、というあたり、完全にゆるキャラの類である。
着ぐるみほどのボリュームはないが、肌触りは驚くほど良い。
寝るときに下着を着けない主義の私には、ある意味で最適解なのかもしれない。
夏場に長袖長ズボンは暑いのでは――とも思ったが、寝室のエアコンはいつも強めに効かせている。
むしろ朝方は肌寒いことすらあり、このくらいの厚みがちょうどよかったりする。
暑い夏に、冷房の効いた部屋で服を脱ぎ、毛布にくるまる。
それを一度味わってしまうと、もう後戻りはできない。
冬にこたつでアイスを食べるのと、同じ種類の背徳感だ。
自分の姿を鏡の前で一通り確認していると、浴室の方から足音がした。
「お姉ちゃーん、ドライヤーどこー?」
「あ、ごめん。こっち持ってきちゃった」
脱衣所の洗面台に置いておくはずのドライヤーを、そのままリビングに持ってきてしまっていたらしい。
慌てて手に取り、廊下に顔を出す。
沙耶はタオルで髪を押さえながら、コンセントの位置を探しているところだった。
ドライヤーをコンセントに挿して手渡すと、そのままくるりと背を向けて、私の前に座り込む。
「乾かしてー?」
「はいはい」
座った拍子に、フードの兎耳がぴょこんと揺れた。
顔はふにゃりと緩んでいて、左右にふらふらと揺れている。
どう見ても眠そうだ。時計を見ると、もう24時になろうとしていた。
……うん、良い子は寝る時間だな。
手のかかる妹だ、と思う一方で、頼ってもらえることをどこか嬉しく感じている自分もいた。
ドライヤーを弱めの温風に設定し、髪を少しずつ持ち上げながら、根元から丁寧に乾かしていく。
この作業は案外時間がかかる。何か話題でも振っておかないと、沈黙が眠気を誘いそうだ。
「そうだ。沙耶は浮ついた話は無いの?」
「無いよ~」
「そうなんだ、無いんだ……早く作らないと母さんがうるさいよ?」
「だって、私にはお姉ちゃんがいるし……」
「ん? ごめん、ドライヤーの音で聞こえなかった」
「あっ、いや、何でもないよ!」
後半の方は、声が小さすぎて、風の音にかき消された。
本人が「何でもない」と言うなら、深追いするのも野暮だろう。
「お姉ちゃんこそ、何かないの? 会社の周りの人、男の人ばっかじゃん……」
「んー……全くない、と言えば嘘になるかなぁ」
「えっ…………そう、なんだ……」
ドライヤーを当てながら、仕事中の自分の姿を思い浮かべる。
髪をしっかりまとめて、薄く化粧をして、スーツを着て、きっちりとした靴を履く。
その恰好をしていると、どうやら「ちゃんとした人間」に見えるらしい。
同僚や上司、後輩に食事に誘われることは、正直珍しくない。
珍しくはないのだが――。
「食事に誘ってくるんだけどさ、何か高そうなイタリアンとかフレンチレストランばっかりなんだよね」
「やっぱり財力がある方がいい……よね……」
「私は普通にラーメンが食べたい。1品数千円する料理も美味しいけどマナーとかに気を使うのが面倒でね……」
沙耶が固まった。
ドライヤーのスイッチを切ると、ちょうど綺麗に乾き終わっていたところだった。
「え?」
「だから全部断ってる」
「あぁ……そっか、そうだよね。お姉ちゃんってそういう人だったもんね……」
「そういう人ってどういうこと??」
「高嶺の花に見えるけど実際はトリカブトみたいな感じ」
「酷い言われようだ」
無駄に見た目が整っているせいで、高嶺の花のように扱われているのは事実だ。
だが、沙耶よ――トリカブトは言い過ぎではないか。
そんな毒なんてあるわけ――と反射的に否定しかけて、クローゼットに脱ぎ捨てられていた服の山を思い出す。
高級レストランの誘いを断った後、一人でラーメン屋に直行していた自分の姿も。
……トリカブトほど致死性はないにせよ、確かに「外見だけそれっぽくて中身がだいぶ残念」という意味では、毒の片鱗くらいはあるかもしれない。
言いたいことを言い切ったのか、沙耶がすっきりした顔でこちらを見る。
「やっぱりお姉ちゃんは私が面倒みてあげないとダメだね!」
自然と、沙耶の頭に手が伸びた。
つむじあたりを優しく撫でると、彼女は目を細めて気持ちよさそうにしている。
「そうだね。いつも掃除と洗濯してくれて助かってるよ」
「でしょ~? もっと褒めてもいいんだよ?」
「うーん、じゃあ、これあげる」
そう言って、私はテーブルの引き出しから小さな鍵を取り出し、沙耶の手のひらに乗せた。
私の部屋――この3LDKのアパートのスペアキーだ。
母さんが「しばらく沙耶を預かって」と言ってきた以上、沙耶の性格からして、間違いなくこの部屋に入り浸る。
少なくとも夏休みが終わるまで、一ヶ月弱はここが拠点になるだろう。
その間、毎回インターホンを鳴らして私の帰りを待たせるのは不便だと思い、鍵を渡すことにした。
状況が理解できていないのか、沙耶は首をかしげる。
「お姉ちゃん、これは?」
「私が住んでるこの部屋の合鍵。要らないなら返して?」
「えっ!? いいの!? これでいつでも来放題ってことだよね!」
「夏休み終わったら返してもらうつもりなんだけど……」
「やだ。絶対に返さない」
きゅっと、鍵を握りしめ、そのまま胸の前で抱えるように持つ。
……まあ、ダンジョンからモンスターが溢れ始めたら、そもそも学校どころではなくなる。
その時に改めて回収すればいい。今すぐ取り上げる必要はないだろう。
「えへへっ、無くさないように財布に仕舞ってこよっと」
立ち上がると、小走りで自分のリュックの方へ向かう。
そこまで嬉しそうにされると、返してもらうときにはなかなか骨が折れそうだ。
――頑張れ、未来の私。
数分後、スキップ気味の足取りで沙耶が戻ってきた。
「よーし、今日は気分がいいから、このまま寝るぞー!」
「沙耶、パジャマは? 自撮りするんじゃなかったの?」
「うーん……明日でいいかなぁ。パジャマは着ないよ。私は|抱き枕《お姉ちゃん》に抱き着いて寝るから」
私を抱き枕として扱う前提で話を進めるな。
とは思いつつも、いつも泊まりに来た時は同じベッドで寝ていたのだから、今更「別々に寝る」と突っぱねるのも後ろめたい。
何より、布団は一組しかない。
「ぐぬ……仕方ないなぁ……」
「やったー!」
勢いよく飛びついてきた沙耶を、私は正面から受け止め、そのままベッドに倒れ込む。
私の寝間着のふかふか具合を堪能するかのように、沙耶は顔を押し付けて左右にぐりぐりと動かしている。
「ぐふふ……お姉ちゃんの性格上、一回そうなってしまえば後はなし崩し的に……」
お腹のあたりでもごもごと怪しい独り言を言っているのが聞こえる。
完全に黒いことを企んでいる時の声だ。
部屋の中は、エアコンのおかげで少し肌寒いくらいの温度に保たれている。
私は毛布の端を手に取り、いつでも被れるように整え、エアコンの切タイマーを設定した。
「沙耶、寝るからもうちょっと上に来て」
「わかった~」
もぞもぞと這い上がってきて、私の肩のあたりで落ち着く。
ちょうど腕枕をするような体勢になり、沙耶が足を絡めてきたので、寝やすい位置を探しながら、私も左足をそっと沙耶の脚の間に差し込む。
「ん、いい感じ」
「えへへ……」
幸せそうに笑う声が、すぐ耳元で響く。
私はその頭を、ぽんぽんと優しく撫でた。
毛布を肩まで引き上げ、手探りでベッド脇のスイッチを探す。
カチ、と小さな音がして――部屋の灯りが落ちる。
薄暗闇の中、妹の温もりと静かな寝息を感じながら、私はそっと目を閉じた。
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