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それからの彼は心なしか前より明るくなったようだった。
馬鹿にしてほとんど単位を取得していなかった共通の授業に出て、今まで本腰を入れなかったコンクールにも応募し、大きな賞もとった。
“田舎に滞在したい”という不純な動機で行った、邨沿市戸塚山中学校への教育実習でも、“面白い作品”に出会えたそうで、大興奮して帰ってきた。
「芸術家じゃない無垢な心の方が、却って刺激的なものを作れたりするんだよね」
そう言い、製作も続けながら、指導者の道も志し始めた。
そして大学四年、ついに彼はガラスアーティスト、咲楽としてデビューした。
精力的に動いている彼を見ると、もう自殺など考えていないんじゃないかと期待したくなったが、もし聞いて「これは死ぬまでの過程にすぎない」なんて言われて落胆したくないため聞かないでいた。
付かず離れずの関係のまま季節は流れ、私たちは大学を卒業し、彼は本格的にアーティストとして活躍し始め、私は国際学科にありがちな金融の道に進んだ。
彼の活躍は嫌でも耳に入った。世界的にも名がある賞を取ったとか、県立公園の横にガラスプロムナードを設立したとか、地元テレビ番組の講師としてレギュラー出演していたこともあった。
だけど、連絡を取ることはしなかった。いや避けていた。
もちろん華々しい活躍を遂げている彼に引け目を感じてもいたし、大学当時と比べて二十キロ近く太ったので会いたくないのもあったが、最大の理由は、テレビの特集でやっていたガラスプロムナードを見たことだった。数々のガラスに彩られたミュージアムはそれこそ彼の言う“見渡す限りのガラス”に埋め尽くされていた。そして、その中に見つけてしまったのだ。座り心地のよさそうなソファーを。
自分と会うことで、彼の記憶の中にはあるかつての会話を思いだし、人生を終わらせるきっかけを与えてしまうかもしれない。
「そろそろガラス作品も溜まったから潮時かな」
彼にそう言われるのが怖かった。
月日は流れ、いつのまにか二十代最後の冬を迎えようとしてたある日、黒いアウディに乗り、彼はなんの前触れもなく彼は現れた。
しかも私が担当している定期預金の整理券を取っている。
バレるわけにはいかない。
表面上は慕うふりして裏では私のことを男性スタッフにモロクソに言っている後輩を、呼び寄せる。
「定期預金のお客様来たんだけど、対応出来る?私、訪問客の準備しなくちゃいけなくて」
普段は絶対そんなことしないので、訝しげに見る佐藤楓は二個下の27歳だ。最近では行員OGで現パートの出入金係のおばちゃん連中を味方につけ、こちらの仕事を影から妨害してくる。
相容れない間柄ではあるが、他にいないのでしょうがない。
「私もさっきの来た客の後処理半端なんですけどぉ」
楓は朝礼で、定期預金、今月はあと二百万で達成だと言われていた。喉から手が出るほどほしいはずだが、私に言われた手前、しぶしぶといった感じで出ていった。
がすぐにその声はお得意の営業トーンに変わる。
「もしかして、ガラスアーティストの咲楽さんですかぁ?!」
奥の自席にいるより、壁を隔てた隣の窓口に座っていた方がバレなそうだ。私はこっそり隣の窓口に移動した。
「私、大ファンなんですぅ。朝の情報番組、コーナーなくなっちゃって寂しいです」
偶然流していたテレビで見ただけでもここまでのことが言える女だ。
「あの時間は大学の講義が入ることになってね。お断りしたんだよ」
七年前と何も変わらない声、口調。一見紳士的だが台本を読んでいるように心が乗らない言葉。
私はなぜか安心して耳を澄ました。
「本日は定期預金ですか?」
「今までは銀行なんてろくに利用したことなかったんだけど、きちんと貯金しようかと思って。だから口座開設と、どうせならまとまった額を定期預金を組もうかと思って。投資信託も興味あるかな」
「ありがとうございます!」
こんな行員が喉から手が出るほど欲しがる客がいるもんか。私は嫌な予感がした。
「だが悪いけど、担当は指名したいんだ。杉本さん、いるよね」
見るまでもなく壁の向こう側にいる楓の顔が歪むのがわかる。
「昔とても世話になったのでね。彼女に頼みたい」
「かしこまりました。お待ちください」わざと音を立てて立ち上がった楓がこちらを睨む。
「杉本さん、ご指名ですよ」
そう言って、遠くから見ていたおばさん連中の方へ逃げ帰るように寄っていく。
ああ、これでまた面倒くさい恨みを買ってしまった。
だが今はどうでもいい。心の準備もないまま七年ぶりにあの男に会わなければいけないほうが大問題だ。
ふうと息をついて覚悟を決め、席を隣に移す。
斜めに座り、足を組んで投資信託のパンフレットを広げている男がこちらを向く。
白いタートルネックのニットに薄いキャラメルコートを引っ掛けているその姿は、大学時代の彼から定規で引いた延長線を、今も尚上手に彼が歩き続けているのを表すのに十分な輝きを放っていた。
「やあ、久しぶりだね、マリー」
にっこり笑うその顔は、相変わらず胡散臭かったが、何か付き物がとれたようなさっぱりした顔をしていた。
「七年ぶりね」
少しでも二重顎にならないように顎を付きだし気味に話す。
「CMに映る君を偶然見かけてね。ここに勤めているのは知ってたんだけど、何せ今まで銀行とは縁のない人生を送っていたもので」
「じゃあ莫大なる財産はどこにあるわけ」
「マンションの植木の根もとに植えてあるよ」つまらない冗談をにこにこと答える。
「じゃあそのままでいいんじゃない?下手に高額預金すると、いろいろ勧められるわよ。投信とか株とか」
「利があるなら話くらい聞くよ。出来るだけ多面的な方法で、財産を分割したい」 言いながら頬杖をつく。この姿も全く変わっていない。変わったと言えば。
「視力下がったの?」
「え、ああ、これ」濃いグリーンの縁がかかった眼鏡を外す。
「伊達だよ。僕が七年間で変化したところといえば、着るものの桁が一つ上がったことくらいさ」
眼鏡を外すと、一層懐かしさと胸の痛みが甦ってきた。
そうか。今ならはっきりわかる。
あの頃、私は確かにこの男に惚れてたんだ。
「そういう君は」
思わず構える。
彼はこんなに変わらないのに、私は。美しいものが好きな彼には、さぞがっかりされただろう。
「君らしくない」
ほらきた。
「実に相応しくない扱いを受けているみたいだな」
「……え」
彼は一瞬で支店の空気を察したらしい。
「現況は先程の女か」
未だにおばさん連中と輪を作りながらこちらを盗み見てくる楓を見て櫻井は頬杖をずらし、口許を隠しながら続ける。
「君は美しく頭もいいからな。ああゆう輩には面白くないんだろう」
美しい?この今の私が?
呆気にとられていると、櫻井はパンフレットを見ながら、凡人からは桁違いの定期預金を組み、投信プランを五つほど、迷いもせずに申し込み用紙に記入した。
「ねえ、いいの?そんなにぽんぽん決めちゃって」
「いいんだ。どうせこれは全部破棄するからね」 「は?」
「悪いが、同様の契約を他行でさせてもらう。君が余計なストレスなく仕事できるように」
突然、耳に口を寄せてきた。
「いいかい。僕が帰ると、十中八九、彼女は君に聞いてくるよ。どういう知り合いですかって。君は何も考えずに僕のいう通りに答えればいい」
続く彼の言葉の真意がわからず眉間にシワを寄せると、彼は今までの書類を私に渡した。
「はい、これで僕を派手に殴って、追い返して」「は?何それ。なんで殴らなきゃいけないの」
「僕を殴るのは初めてじゃないだろ」
彼は笑った。
「僕を信じて」
意味はわからなかったが、言われるとおり彼を追い返すと、楓が話しかけてきた。
「鞠江さん?咲楽先生とお知り合いですかぁ?じゃあ初めから自分で行けばいいのにー」
ため息をつくと、楓は散らばった書類を眺めた
「どういう関係ですか?」
きた。ここで、櫻井が言った台詞を吐く。
「昔私、あの男にもて遊ばれて。こっぴどく捨てられたのよ」
「え、じゃあ今さら何しに来たんですか?」
「知らない。契約する代わりに一杯付き合えって言われたから、そういうのなら結構よって追い返したの」
「えー!絶対、鞠江さん、都合のいい女にされそうでしたよ、それ!ダメですよ、ああいう悪い男に引っ掛かったら!!目付きでわかりましたもん!」
たちまち大袈裟な楓劇場が始まった。
「決めました!私、鞠江さんを守ります!あんな男に近づけさせません!」