それから楓は今までの態度が嘘のように私に対して従順になった。少なくとも表面上は。しかしパートたちの態度も改善されたところを見ると、あながち表向きだけではないようだ。
狐に摘ままれているような気持ちで数日過ごすと、櫻井から電話がかかってきた。
「どうだい?周りの態度は改善されたろう」
「ええ。そうなの。どういうこと?」
彼はカラカラと笑った。
「簡単だよ。彼女は美しくて頭もよく仕事が出来る君に嫉妬していた。それを利用したまでだよ」
「わからないわ」
「つまり、自分を蔑ろにした僕を悪者にすることで、自分の体裁を守る。都合のいい女にされるところだった君をアピールすることで、君をも諌め、君に優しくすることで、優位に立ったつもりになっているんだ」
「わかるような、わからないような……」
「君みたいに発言と感情が直結していて、他人の汚い企みに興味のない人間にはわからないだろうな」
「馬鹿にしてるの?」
「無論、誉めてるんだよ」彼は笑う。
どうにも解せない話だが、私はこの話は打ちきり、ずっと聞きたかった話をした。
「どうして突然お金を預けることにしたの?」
正直聞くのが怖かった。
人は病死でも自死でも、死ぬ前に身辺整理をする。その一つに当然金銭が含まれる。今までお金に執着がなかった彼が、金をいじり始めるのはそういう可能性を否定できなかった。
「身辺整理かな」
鈍器で殴られたような衝撃が襲う。
やはりーーー。
「冗談だよ。その逆さ。お金を大切にしようと思ったんだよ」
こっちの気も知らないで櫻井が笑う。
「生きていてもいいかなと思い始めたんだよ」
出会ってから今までで初めて聞いた命に対する前向きな言葉に、沸沸と顔が上気していくのがわかる。
「何それ。詳しく教えなさいよ」
「そうだね、君には言ってもいいかな。近く飲みにでもいこう。奢るからさ」
忙しい彼は、半ば強引に日時と場所を決めると電話を切った。
「生きててもいい、か」
私はなんだか声に出して言ってみたその言葉がおかしくて、電話を切ってからしばらく笑ってしまった。
だが、指定された日時と場所に、彼は来なかった。30分待ったところで、事務所に電話してみたが、もう誰もいないのか、コールがなるばかりだった。
と、見知らぬ番号から着信が来た。慌てて出ると、本人かと疑うくらい、声の枯れた櫻井だった。
「連絡が遅くなってすまなかった。ちょっと体調を崩してしまってね。今日の飲みは中止にしてくれないか」
「それはいいけど」
携帯を持ち直す。嫌な予感がする。
「延期じゃなくて中止なの?」
電話口の彼は答えない。
いつもの台詞のようにさらさらと唇を動かす彼は、この電話の先にはいない。
取り繕う余裕もなく、適当な言葉を選ぶことさえままならない、弱った男しかいない。
「ちょっと、そんなに具合悪いなら看病しに行くけど?」
「いや、大丈夫だ」
「今どこ」
「…本当にごめん」
電話は切れた。折り返すが電源が切られたのか、通じない。
なんなんだ。何があったのだ。この間あんなに明るく話していたのに。「生きていてもいい」とやっと思えたはずなのに。
何があった?
もし、それを覆す何かがあったとしたら。
脳裏にガラスプロムナードが浮かんだ。
数えきれないガラスに囲まれた深紅のソファー。
彼がもしあそこにいたら。
慌ててタクシーを捕まえ、プロムナードに走らせる。
東北で今年初めての大雪が降った夜だった。
冬タイヤに交換していない車の列で道路は大渋滞し、なかなか町中を抜けられない。イライラしながらタクシーを降り、走り出す。
無理して履いてきた、新調したてのハイヒールは、積もり始めた雪で容赦なく滑り、泥を含んだ雪に倒れ込んだ。
すれ違うカップルが、好奇の目を向けてくる。そんなの構っていられない。必死で走った。
県立公園の噴水はクリスマスのイルミネーションで七色に輝いていた。その光に照らされた北欧風の建物には、人の気配はなく、明かりもついていなかった。
少し入り口を覗き込むと、と、人感センサーでプロムナードの正面街灯が光った。
奥の駐車場を見る。彼のアウディも停まっていない。
なんだ、と噴水の縁に座り込んだ。
その時携帯電話が鳴った、先程の番号。彼からだった。
「何」少し腹立たしい気持ちになる。
「いや、本当に悪かったなと思って」
彼の声は心なしか震えていたが、先程までの悲壮感はないように思えた。
「いいわ、今度埋め合わせしてもらうから。あなた、今日は本当に体調が悪いだけ?」
「ああ、そうだよ」
「信じるわよ、いい?」
「ああ」
立ち上がると同時に、公園にある時計の、八時の鐘がなる。
とそれに合わせて、噴水が大きく吹き出した。
「キレイ・・・・」
電話口の櫻井は「何が」とは聞かなかった。代わりに
「綺麗なのは、君だよマリー」
とつぶやいた。
今なら話してもいいかもしれない。
「スノードロップについて話したの、覚えてる?」
聞いてみた。
「ああ。君が突っかかってきた時のだろ」
色とりどりに吹き上がる噴水を見ながら話した。
「私ね、中学生のとき花束を送られたことがあるの。朝、登校したら机においてあってね。
はじめはマリーゴールドだった。
みんなは、“マリーに送る花だからマリーゴールドだったんだろう”って安易に考えて笑ったわ。直接渡せない照れ屋な男子の仕業だろうって」
封印していた記憶は、驚くほど簡単に言葉になって溢れだした。
「次の週も花はあったわ。今度は白くて頭を垂れた見たことのない花だった。誰かが言ったの。“それ、スノードロップよ”って。
雪のように白くて、緑色の模様が入ってて、本当に綺麗な花だと思ったの。
私、嬉しくて、自室に飾ったわ。これをくれた人はきっとこの花みたいに優しい人だろうなって」
手を広げ、その花束の感触を思い出す。
「だけど次の日、教室で女子たちが話しているのを偶然聞いたの。“あの女、鈍感すぎる”って。
“今度は菊の花でも置いてやろうか”って。
思いめぐらせ、あの花たちに別の意味がこめられていたことを悟った。
調べてみると案の定、マリーゴールドの花言葉は“絶望、悲しみ”、そしてスノードロップの花言葉は“あなたの死を望む”」
「ーーーひどい話だな」
「それから私はあの花が嫌いだった」
「そんな悪質な“呪い”をかけられたら無理もない」
「よく覚えてるわね」
私は笑い、息を吸い込んで言った。
「だけど、あの日、あなたのアトリエで、あなたのガラスに出会って、キラキラ輝く白い妖精をみて、作品に込めた願いを聞いて、私、やっぱりスノードロップが好きになったの。
私の屑籠に捨てたいような思い出を、スノードロップにかけられた呪いを、あなたがガラスで塗り替えてくれたのよ」
彼は黙っていた。
暫しの沈黙のあと、
「何が言いたいのかわからないと思うけど、要はーーー」
「僕のことが好きだってことだろう」
彼の声はいつもの櫻井秀人に戻っていた。
「まあ、結局そういうことね」
私は笑った。
年が明けた数日後、彼から小包が届いた。
封を開けると、気泡緩衝材に包まれた、希望の花が入っていた。
コメント
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悲しいですね。ほんとに身辺整理だとしたら、止められなかった事を悔やみますよね😭