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「……うぅ……」
ぼんやりとした意識の中で、俺は小さく呻いた。
目を開けると、見慣れない天井が静かに広がっていた。
(ああ、そうか。まだ、あの店の中か)
窓の外には、昨日とまったく変わらない、淡く澄んだ空が広がっている。
時間が止まってしまったような不思議な景色に、少しだけ違和感を覚えた。
「……なんで、まだこのままなんだろう」
小さくつぶやきながら、俺は体を起こした。
背中を反らして軽く伸びをすると、扉がそっと開き、あの店員が顔をのぞかせた。
「おはようございます。朝食を作ったのですが……召し上がりますか?」
相変わらず、どこか中性的で優しい声だった。
俺は小さくうなずいた。
「……お願いします」
店員は一礼し、しばらくして盆に朝食を載せて戻ってきた。
湯気の立つスープと、焼きたてのパン、ゆで卵と少しの果物。
質素だが、どこか温かさを感じる献立だった。
「今日は、あまり重たいものは控えた方がいいので……」
そう言って、店員はいつの間にか置いてあったテーブルの近くに盆を置くと、俺の手にスプーンを渡した。
「……ありがとうございます」
その一言を口にするだけで、胸の奥がじんわりと熱くなった。
食事をとりながら、ふと、昨日のことを思い出す。
――あの光、あの痛み、溢れる記憶。
今でもはっきりと体に残っている。
「……俺、変わったんでしょうか」
ぽつりと呟くように尋ねた。
店員はしばらく黙ったまま、少し微笑んでから答えた。
「いえ、戻っただけですよ。
変わったのではなく、“取り戻した”んです。中村一真という人がもともと持っていた心の輪郭を」
その言葉に、俺はゆっくりとスープを啜りながら考えた。
心の輪郭。確かに、以前の俺はどこか曖昧だった。
「……でも、戻ってどうしたらいいか、まだよくわからなくて」
正直だった。
自分を取り戻した実感はある。でも、何をどう始めたらいいかはわからない。
店員は少しだけ間を置き、ゆっくりと話し始めた。
「…一真さんが選べる道は一つしかありません。」
店員の言葉に、俺は目を見開いた。
「え…一つしかない?それはどういう意味ですか?」
声が少し震えていた。
まさか、選択肢がないなんて、俺は思ってもみなかった。
記憶を取り戻すことができたことで、いろんなことが変わると思っていたのに、まさかその先に進むために「選択肢すら与えられていない」と言われるとは。
店員は、少し間を置いてから、静かに俺に答えた。
「作品を一つ作ったら健診に来てください。」
「…へ?」
緊張していた肩の力が一気に抜け、情けない声が出てしまった。
思わず目を見開いて店員を見つめるが、その表情には真剣さが漂っている。
だが、言葉の内容があまりにも予想外すぎて、頭の中が混乱していた。
「驚かせてしまってすいません。でも、これはとっても大事なことです。」
店員の言葉には、何か深刻なものを感じさせる重みがあった。
「大事なこと…?」
俺は困惑しながらも、その言葉に耳を傾けた。
店員さんは静かにうなずいた。
「先ほども言った通り、一真さんの記憶が戻っただけです。あくまで“記憶”だけが戻ったんです。」
その言葉に、一瞬ドキリとした。
「一真さんの作品に入り込む癖が治ったわけではないんです。それで、もしまた作品を一つ書いたら、必ずここに来てください。」
店員は、真剣な表情を崩さずに告げた。
「選択肢がない」と言われて、あのとき、胸に広がった冷たい空気を思い出す。それは、物語の登場人物が辿る運命のようで、僕自身のものでもあるような気がした。記憶が戻っても、僕の内面はまだぐちゃぐちゃだ。まだ、何かを見つけなければならない。それが何かはわからないけれど、それを見つけるために、この場所に足を運んだのかもしれない。
「健診」とは、つまり――僕はこれからも、この“記憶”と向き合い続けなければならないのだろうか。
静かに息を吐きながら、ふと目を上げると、店員が何気ない表情で窓の外を見ている。
その目の奥に、何か確信のようなものを感じたが、それは分からなかった。
選択肢は、まだ僕の中にあるのだろうか?
「——わかりました。多分すぐお世話になると思いますが、お願いします。」
俺は食器をかたづけて、仕事があると言って店を出た。
「—またのお越しを、お待ちしております。」
店を出た時、目の前の風景がグルンと変わった。そして目の前に広がっていたのは、見覚えのある自分の部屋だった。急いで後ろを振り返ってみたが、そこには自分の仕事用の机しかなかった。
ただよく見てみると机の上に、小さなパンダのぬいぐるみとメモのようなものが置いてあった。パンダのぬいぐるみを見てみると目が水色の宝石で作られていてとてもきれいだった。メモには、『健診の時やそれ以外にもときのかけらに来たくなったときは、そのぬいぐるみに強く念じてください。 ときのかけら 店長より』
ワープできるぬいぐるみに驚くべきなのかもしれないが、それ以上に驚いたのは——あの店員が店長だったことだ。
あれだけ一緒に過ごしていたのに、一度も名前も肩書も尋ねなかった自分を、思わず殴りたくなった。
そんなこと思ってるのもつかの間、監督から電話がかかってきた。
スマホを見ると、友達や監督からものすごい量の着信履歴があって、急いで電話に出た。
「…もしもし?!一真君?大丈夫?!」
スマホのスピーカーから信じられないほどの大きい声が俺の耳を貫いた。