さよならから一番遠い場所
春の匂いがした。
校舎の窓から吹き込む風は、どこまでも透明で、痛いほどに穏やかだった。
チャイムが鳴ると同時に、教室のドアが開いた。
教師の後ろに立っていたのは、黒髪の少年。
「今日からこのクラスに転入してくる、乾ないこ君だ。皆、仲良くしてやってくれ」
空気が、一瞬だけ止まった。
その名を聞いた瞬間、りうらの心臓が鈍く跳ねた。
ありふれた音なのに、耳の奥で永遠に響き続けるような音。
乾――ないこ。
ありえない。
あの日、警察に連れて行かれたはずの少年が、制服を着て、ここに立っている。
「……乾ないこです。よろしくお願いします」
淡々とした声。
どこか機械のように滑らかで、感情が見えない。
黒板の前で立つその姿に、かつての“幼馴染”の面影が重なる。
りうらの掌は汗で濡れていた。
ペンを持つ手が震え、ノートの文字が滲む。
周囲の生徒が興味本位に囁く声が、遠くに聞こえる。
――転校生、かっこいいね。
――なんか影ある感じ。
りうらには、その全てが無意味だった。
“お前が、俺の親を殺した。”
喉の奥でその言葉を何度も呟く。
だが、口から出たのは違う言葉だった。
「……久しぶり、ないこ」
教室中の視線が一瞬こちらを向いた。
ないこが顔を上げ、ゆっくりとりうらを見た。
「……りうら」
その名を呼ぶ声は、懐かしさと後悔が混ざり合っていた。
りうらの胸が締めつけられる。
先生が何か言っていた。
けれど、二人の間には別の時間が流れていた。
昼休み。屋上。
人のいないその場所は、昔、二人がよくサボっていた場所だった。
風が制服を揺らす。
ないこは手すりに背中を預け、静かに言った。
「こんなとこ、まだ残ってたんだな」
「お前が初めてタバコ吸って怒られたのも、ここだった」
「懐かしいな」
りうらは笑わなかった。
「なんで戻ってきたんだ」
「……普通に生きたかった」
「ふざけるな」
その声が鋭く割れた。
ないこは目を伏せる。
「お前が、俺の親を殺したことを、俺は忘れてねぇ」
「知ってる」
「どういう顔してここにいられるんだよ」
「どういう顔すればいいのか、俺にもわからない」
沈黙。
風が吹き抜ける。
遠くでチャイムが鳴る。
「……刑期、終わったのか?」
「少年院、出た。半年前」
「また人間のフリしてんのかよ」
「違う。ちゃんと、償いたい」
りうらは笑った。
それは怒りでも、皮肉でもなかった。
ただ、呆れたように震える声。
「償うってどうやって。生き返らせるのか?」
「無理だよ。でも……せめて、お前のそばにいたい」
りうらは拳を握った。
殴るつもりだった。
でも、拳は上がらなかった。
代わりに、喉の奥から掠れた声が漏れた。
「お前、ずるいな」
「そうだな」
「ずるいくらい、俺を覚えてる顔してる」
ないこは目を伏せ、息を吐いた。
夕陽が傾き始め、二人の影が重なった。
放課後。
帰り道。
駅のホームのベンチで、二人は並んで座っていた。
「なあ、ないこ」
「ん」
「俺さ、あの日から、誰も信じられなくなった」
「だろうな」
「でも、不思議なんだ。お前を見てると、怒るより……安心するんだ」
ないこは目を細めた。
夕暮れの光が瞳の奥を透かす。
「俺が、あの日のことを全部忘れてるように見えるか?」
「……見えねぇ」
「忘れられるわけないよ。お前の家の匂いも、あの夜の声も、ずっと残ってる」
「なら、なんで笑える」
「笑うしか、生き方がわかんねぇんだ」
りうらは小さく息を吐いた。
電車がホームに入る音がして、風が二人の髪を揺らす。
「俺は、まだお前を赦せない」
「それでいい」
「けど……お前が生きてることを、もう否定できない」
「……りうら」
ないこが手を伸ばした。
触れるか、触れないかの距離。
その手の温度が、かすかに震えている。
「なあ、りうら。俺たち、壊れたままでいいんじゃないか」
「壊れたまま?」
「うん。治そうとしたら、多分どっちか死ぬ」
「……バカじゃねぇの」
「そうだよ。俺はバカだ」
二人は顔を見合わせた。
気づけば、りうらの唇がわずかに動いた。
「ないこ」
「ん?」
「キスしてみろよ」
冗談めかして言ったつもりだった。
でも、ないこは笑わなかった。
真剣に、静かに、りうらの頬を掴む。
「本当に、していいのか」
「……どうせ誰も見ちゃいねぇよ」
触れた瞬間、息が止まる。
短く、痛いほど真っ直ぐなキスだった。
憎しみも、罪も、何も洗い流さない。
ただ、二人がまだ生きているという証明のようだった。
唇が離れたあと、りうらは目を閉じた。
ないこの手が、まだ頬に残っている。
「なあ、ないこ」
「……ああ」
「俺ら、終わったままで生きてくしかねぇんだな」
「それでも、生きよう」
夜風が二人の間を抜けた。
電車の音が遠ざかる。
りうらは空を見上げた。
――この世界は、俺たちを飼いならしたがってる。
望み通りいいだろう、美しくもがいてやる。
互いの砂時計を眺めながらキスをしようよ。
「さよなら」から一番遠い場所で、待ち合わせよう。
二人の時間は、まだ止まっていない。
それが、どんなに歪んだ愛でも。
六月の空は、どこまでも低かった。
湿った風がカーテンを揺らし、窓の外では誰かの傘がすれ違う。
教室の中には、授業中の静けさが満ちていた。
りうらは黒板を見つめているふりをして、視線を隣の席に滑らせた。
乾ないこ。
真面目な顔でノートをとっている。
その筆圧は一定で、まるで感情の波が存在しないようだった。
でも、りうらは知っている。
ないこの手の震え方。
指先が震えるたびに、彼がまだ“罪の中”で息をしていることを。
放課後。
雨が降っていた。
昇降口で傘をさす生徒たちの中、ないこは屋根の下で立ち尽くしていた。
りうらが近づく。
「傘、持ってないのか?」
「うん」
「貸さねぇけど」
「だと思った」
ないこが笑った。
りうらはため息をつき、無言で傘を差し出した。
「入れよ」
「いいのか?」
「別に、お前が濡れて死んでも困るし」
二人は肩を並べて歩き出した。
通学路のアスファルトに、雨粒が無数の光を散らす。
「……俺さ」
りうらが口を開いた。
「お前が戻ってきてから、毎日おかしいんだ」
「どうおかしい?」
「憎くて、許せなくて、なのに会うと安心する」
「俺も同じだよ」
ないこの声は、雨の音に溶けるように柔らかかった。
「俺たち、多分もうまともじゃねぇな」
「まともだったこと、あったか?」
「……ねぇな」
二人の笑い声が、静かな街に滲んで消えた。
その夜。
りうらの部屋。
机の上には二つの缶コーヒー。
ないこが差し入れに持ってきたものだ。
「これ、甘すぎ」
「お前、昔からブラック飲めなかっただろ」
「覚えてんのかよ」
「全部、忘れるわけない」
部屋の隅で、古い砂時計が小さく光を受けていた。
小学生の頃、夏祭りのくじ引きで二人が手に入れたもの。
まだ動くのが不思議だった。
りうらはその砂時計を見つめながら呟いた。
「お前さ、これからどうすんの」
「進学するつもり。心理学」
「人の心を学ぶとか、皮肉だな」
「だろ?」
ないこは少し笑い、空になった缶を転がした。
缶が倒れる音が小さく響く。
「なあ、りうら」
「ん」
「俺、ちゃんと償いたい」
「言ったろ、それは無理だ」
「わかってる。でも、せめてお前が生きてる間くらい、そばにいたい」
りうらは俯いた。
胸の奥で何かが軋む。
怒りなのか、哀しみなのか、もはやわからなかった。
「……なあ、ないこ」
「うん」
「お前が殺したのが、俺じゃなくてよかったな」
ないこは息を呑んだ。
その一言に、どんな意味があるのか、自分でもわからなかった。
でも確かに、心の底に沈んだ“愛”という名の痛みを引きずり出した。
りうらが顔を上げる。
濡れたように光る瞳で、まっすぐないこを見た。
「もう逃げるな。俺の前で生きろ」
「……ああ」
「お前が苦しむ姿、ちゃんと俺が見ててやる」
「それ、罰としては充分すぎるな」
二人の視線が交差した。
その瞬間、世界の音が遠ざかる。
時計の針の音だけが、妙に鮮明に響いた。
夜の校舎。
翌週、文化祭の準備で残っていた。
窓の外に雨の跡が残る。
体育館の舞台袖で、りうらは息をついた。
ないこが照明の配線を直している。
その横顔を、りうらは見ていた。
普通の高校生。
そう言い聞かせても、指先の傷跡が真実を語っている。
「なあ、ないこ」
「ん?」
「お前さ、いま幸せ?」
「幸せっていう言葉が、まだ怖い」
「……なんで」
「それを感じた瞬間、全部壊れそうで」
ないこの声が震えた。
りうらはゆっくりと近づき、彼の手を握った。
細く、冷たい指。
「だったら、俺が壊してやる」
「え?」
「幸せを壊して、それでも生きるってこと、俺が見せてやる」
ないこが笑った。
その笑みは、悲しくて、美しかった。
夜風が吹き抜ける屋上。
二人はフェンスに背を預け、街の灯りを見下ろしていた。
「なあ、りうら」
「ん」
「俺たち、どうなるんだろうな」
「知らねぇよ。でも、生きてくしかねぇだろ」
「どこまで?」
「死ぬまで。いや、それ以上」
ないこは空を見上げた。
曇り空の隙間から、星が一つだけ覗いていた。
「俺、お前の親父を殺した夜、ほんとは逃げなかったんだ」
「……どういう意味」
「お前が泣きながら俺を見てたあの瞬間、心のどこかで思ったんだ。
“これで、りうらを守れた”って」
「……守る?」
「お前の親父、酒癖が悪かっただろ。お前を殴るの、何度も見た」
「……」
「だから、止めた。止めるために、殺した」
りうらの拳が震えた。
涙なのか雨なのか、頬を伝うものが熱い。
「そんな理由で、殺していいわけねぇだろ」
「うん。でも、俺にはそれしかできなかった」
沈黙が落ちる。
遠くで犬の鳴き声。風。
世界がゆっくりと流れていく。
「なあ、ないこ」
「なんだ」
「お前が罪を背負って生きていくなら、俺も一緒に背負う」
「なんでそんなこと」
「お前を一人で苦しませたくねぇんだ」
ないこが目を見開いた。
りうらは微笑んだ。
「だから、もう一回キスして」
静かに、唇が触れ合う。
風が頬を撫でる。
その瞬間、世界が赦したように感じた。
それから、季節が流れた。
ないこは大学に進学し、心理学を学び始めた。
りうらは地元に残り、新聞社の研修で忙しくしていた。
二人は時々、駅前の喫茶店で会った。
話す内容は他愛もない。
でも、互いの視線の奥に、過去はいつもいた。
ある日、りうらがふと呟いた。
「なあ、ないこ」
「ん」
「もし俺らが別の人生を生きてたら、どんな関係だったと思う?」
「……ただの幼馴染。何も知らないまま、同じ電車に乗ってたと思う」
「つまんねぇな」
「でも、それが一番幸せだ」
二人は笑った。
短い沈黙のあと、ないこが言った。
「俺、もう逃げない。
お前の親の命を奪った俺の手で、今度はお前の人生を支える」
「そんな大げさなこと言うな」
「本気だよ」
りうらはコーヒーを飲み干し、窓の外を見た。
春の風が、街をやわらかく撫でている。
「……だったら、せいぜい生きろよ、ないこ」
「お前もな」
二人の視線が合った。
もう憎しみも、後悔もなかった。
ただ、確かに生きてきた証だけがそこにあった。
運命だとか未来とかって言葉がどれだけ手を伸ばそうと届かない場所で、
僕らはそれでも恋をした。
時計の針がまた進む。
りうらとないこは、互いの砂時計を抱えたまま、次のページをめくる。
それは、終わりではなく、続きの始まり。
世界がどれだけ彼らを飼いならそうとしても、
二人はきっと、美しくもがきながら——
生き抜いていく。
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ぽまえさん瀬陽菜さんですかー?